『防衛計画大綱の功罪あれこれ』

M .K(元海将)

はじめに

 『功罪』などと大それた言葉を持ち出して身の程を弁えぬ所業と叱られそうである。
そこで『あれこれ』というボカシを入れて風当たりをかわす事とした。
 さて大綱に口があり、物が言えるとしたらこんな事を言うのではないか。
『まだ私のことを議論しているのか』『私を嫌う人と好む人の差がこうも極端に分かれるのは何故だろう』『まだ私の事を本当に分ってくれてはいない』『疲れたので解放してほしい』等々、まだあるかもしれない。
 大綱のオリジナルを最初に書いた方や、それを仕上げた方たちには以下の拙論に対し、上と同じ事を言われるかもしれない。然し私は古い教科書を懐かしむような気持ちで、敢えて葦の髄から『あれこれ』と天上を覗くこととする。

1 性格と効用

 大綱の性格はドクトリンであってプリンシプルではないと思う。
プリンシプルは古今東西を通じて普遍のルールであるから滅多なことで変える必要はない。
『商売は安く仕入れて高く売れ』と言うのはプリンシプルである。
『金詰まりで基金繰りが苦しいから利は薄くても早く売れ』とか、『金利も安いし、物の値打ちもどんどん上がるから少し売り控えよう』となるとドクトリンであって、これらは情勢によってどんどん変わっていく。

プリンシプルは至極当然のことしか書いていないから一般に読み応えがしない。
ドクトリンの方は読んで行って、成程、成程と読み応えがするものと言われている。

大綱は情勢の5本柱、即ち日米、米ソ、米中、中ソ、朝鮮半島の情勢が1970年代前半の状態のまま継続することを前提にして出来たドクトリンであるから、世の中が変わってもこのままで変えなくても良いと言うのはおかしい。
次にこのドクトリンが、策定当時の情勢から見て理にかなったものであったか否かは議論の分かれるところである。
策定当初は冷ややかに大綱を見ていたにも拘らず、日本は冷戦を勝利に導くのに西側の一員としてそれなりの貢献をしたのだから、偶然にしても結果的にこれは正しかったと言う人が増えている。

更には大綱は最初から軍事的合理性さえも充たしていたのだと、真顔で言う人がかつて自衛隊の要路にいた人の中からも出てきている。
なお、『軍事的合理性』とは何かについては後で所見を述べたい。
ソ連の崩壊は大綱策定時からすでに見えていた、冷戦の勝利は自明であり、従って大綱はそれを見通して策定されたのだから、偶然の結果でも怪我の功名でもないと言う主張もあるかもしれぬ。
しかし、それは乗り過ぎというものである。このような形の冷戦勝利が自明であったのなら、その見通しを情勢の中に僅かながらでも記すべきであるし、冷戦後の防衛構想についても触れていなければなるまい。

この大綱の本当の狙いは、それなりのリスクを秘めつつ、近隣諸国もこれを信ずるとすればそれらをも含めて、安心感を与える事であったろう。
軍事的合理性などは念頭にないが、それらしく見える部分を抜かりなく用意していたと言うのは正しいのではないだろうか。
しかし、それは決して悪企みなどではなく、小国意識に発したいわば『生活の知恵』であったろう。
現有防衛力の規模は据え置いて逐次更新近代化を図るためには、『限定小規模侵略に対し原則として独力で対処』と言うのが最も分かり易いキャッチフレーズであった。

経済を語るのにケインズやシューペンターを持ち出しても大衆の理解を得がたいのと同様に、軍事にマハンやクラウゼヴィッツを引っ張り出しても一般国民の共感は得られない。
平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼していれば、コストの掛からぬ平和を手に出来ると信じて来た国民の共感を得るには、単純明快なスローガンと最低のコストを強調するのが最も効果的である。
単純明快と最低コストの組み合わせが『限定小規模』であった。
『限定』と『小規模』という二重の条件を冠せておけば、いかに平和な時代であってもこれくらいのことならヒョッとすると起きるかも知れないと思わせることが出来たのである。

抜かりなく用意したそれらしく見える軍事的説明を真剣に分析しようとした関係者がいたことは、いかに策定に当たった関係者の知恵が優れていたかを物語るものであろう。

こうして本文と別表の2本立てからなる大綱は市民権を得た。
本文と別表のいずれに問題が多いかと言えば、理屈からは文句なしに前者だと思うのだが、不思議と本文はあまり問題にされていない。
制服を中心に別表に示された防衛力の整備目標が少ないとか足りないと言う不平や非難があった。
防衛力の規模は何処の国でも、財政や世論との調和によって生まれる妥協の産物でしかない。

本文こそは、真に国民の理解を求める掛け値や妥協のない辻妻の合うものでなければならないのに、そのことはなぜかあまり議論されなかった。
議論されなかった理由の中には、大綱は軍事的合理性を満たしていたと考える人もいたことと関係あるかも知れない。そもそも軍事的合理性から出発していない大綱の軍事的合理性をあげつらうのは大人気ない話かも知れぬが物の順序として次に触れてみたい。

2 軍事的合理性について

 軍事的合理性の学問的定義を私は知らない。多分こういう事であろうと思っている。
簡単に言えばまず目標と手段の関係として、次のような段階がある。
 政治目的(政治的所望結果)
 軍事目的(軍事的所望結果)
 軍事手段(戦略レベルから戦術レベルまで多段階)
そして次のような条件を満たさなければならぬ。
① 各段階の接点で手段と目標の間には最大の相関係数(因果関係)が存在する。
② 選択される軍事的手段は、現実に実行可能である。
③ 投下される資源は効果に見合うものである。
④ 対象となる状況設定や情勢見積が軍事常識に照らして合理的である。

④を裏返して言えば、相手の立場になって考えた場合、相手の政治的所望結果、軍事的所望結果、軍事的手段の間に合理的な因 果関係があるということである。
  政治的所望結果と軍事的所望結果の具体的イメージを例示すると以下のようなこととなろう。
(例)
 わが国の安全に深い関わりを持つ周辺地域に侵略が生じた場合
  政治的所望結果
    ・ わが国の安全の確保と波及防止
    ・ 紛争地域における侵略行為の停止
    ・ 紛争地域における原状の回復
    ・ 紛争地域における紛争再発防止
    ・ 紛争地域における民主化、安定化
    軍事的所望結果(国連の強制措置へ参加する場合を含む)
    ・ わが国の領域、国民の生命・財産、通商路等の防衛
    ・ 侵略勢力の戦争遂行能力の破壊
    ・ 侵略勢力の撃じょう・排除  
    ・ 侵略勢力の武装解除、軍備管理と検証
 なお、軍事的合理性との対比において『政治的妥当性』なる用語を見ることがあるが、その厳密な定義は明らかでない。しばしば軍事的合理性を持って説明できないことの根拠に用いられることが多いようである。

3 気がかりだった2つのキーワード

 大綱の中には幾つかのキーワードがあるが、軍事的合理性に照らし最も気になるのは『限定小規模独力対処』と『新たな防衛力の体制への移行』である。

(1) 限定小規模独力対処

 多くの専門家は、冷戦後の情勢について次のように述べている。
大規模な戦争の危険性は去ったので、これからは地域的な、あるいは民族間の比較的規模の小さい武力抗争が起きるであろうと。
それらの事をLow Intensity ConflictとかMajor Regional Contingencyと呼んでいる。
つまり冷戦下では限定小規模のような侵攻事態は起き難く、むしろ起こるとすればこれからが危ないということであろう。

従って冷戦下で限定小規模侵攻の事態を、わが国の防衛上、最も重視する事態として位置づけたのは、国内政治的な見地からは別として、軍事的見地からは合理的ではなかったと言えよう。
冷戦時代を『東西対抗団体戦』の時代だったとすれば、冷戦後はいわば『総当り個人戦』プラス『悪者退治・集団制裁』の時代になったわけで、『原則として独力で排除』という構想も『総当り個人戦』の段階でならば現実味は出て来るのかも知れない。

(2) 新たな防衛力の体制への移行

 次に大綱は、前提とする情勢に重要な変化が認められれば新たな防衛力の体制へ移行することを念頭においている。謂うところの『エキスパンド』である。
この『エキスパンド』は、従来言われていた作戦準備とか緊急造成あるいは旧軍における動員計画、出師準備といったレベルより、規模も期間もはるかに大きいものと一般に理解されている。そこでこの『エキスパンド』に対してなされた幾つかの批判を並べると、大きなところは以下のようになる。
① 情勢に重要な変化が生ずることを予測できる十分なアドバンス・タイムはあるのか。(早期情勢予測の困難さ)
② 新たな防衛力の体制の水準はどの程度のものになるのか。(目標の不明確さ)
③ 新たな防衛力の体制への移行は、時間的にも物的にも人的にも不可能ではないか。(国力基盤の不足)
④ 以上のことから『エキスパンド』などは画に描いた餅のようなものではないのか。

 先に述べた如く現実的な可能性のないアイディアや施策は軍事的合理性を満たさない。
エキスパンドの範囲は、当然のことながら防衛庁・自衛隊のみが対象ではない。
防衛産業をはじめ周辺システムの拡大が必要である。
一方限られた物的・人的資源を考えれば、傾斜生産方式のしわ寄せを食う産業も出てこよう。
当然政府の各種産業に対する統制、援助、補償が必要となろう。
この場合しわ寄せを受ける特定産業への保護政策はGATTの精神から言って、平時に国内問題のみを理由に簡単に実施できるのだろうか。

日本の産業は,例え期間を限られたものであっても人員を徴用・割愛・抽出されて成り立つほど懐の深さや余力があるのだろうか。
他方職種の分化、技術の専門化が進む防衛産業をはじめとする周辺システムの急速拡大が単純に頭数を増やしただけで可能になるのであろうか。
このような問題は自衛隊自体のエキスパンドについても同じである。
わが国の総人口、労働力人口、今後進むであろう人口の高齢化からして、また職業技能も高度化するなかで、国内の経済・産業諸システムを麻痺させかねない軍・産のエキスパンド等は画にもならないのではないか。

4 いわゆる『脱脅威 / 基盤的防衛力』について

 『脱脅威』の受け止めも難しい。これはひとつのキャッチフレーズであって、目くじらを立ててあれこれ理屈を言う方が大人気ないのかも知れない。

古来脅威を一切考えない兵力整備はなかったであろう。
防衛力には長期的にはあまり変動させない基礎的な部分と、比較的短期間に増減させる部分とがある。
前者は国際社会の基本的な構造変化、脅威の能力に関する変化、科学技術の永年変化等に対応する部分であり、後者はカレントな個々の情勢変化、脅威の意図に関する変化、飛躍的な技術革新等に対応する部分である。重要なことはこの両者のウェイトの置き方換言すれば、何が長期的にあまり変動させるべきでない基礎部分かという認識であろう。

前項で述べた如く大規模な防衛力のエキスパンドは現実に難しいことであり、それが可能な国が仮にあるとすれば、国民皆兵のミニ国家か、第2次世界大戦直後の米国のように軍事、経済、科学技術等あらゆる面で他と隔絶する圧倒的な力を持つハイパー国家だけであろう。
そこで今後基礎部分を機械的にさらに過少に設定することが、冷戦後の脱脅威 / 基盤的防衛力整備というのなら問題である。
一方自国にのみ指向される狭い意味の脅威から脱して、国際社会全体の脅威に着目し、積極的な国際協力を念頭に置くことを意味する脱脅威 / 基盤的防衛力整備ならば大いに結構なことであろう。

5 『功罪』あれこれ―1

最大のものは次のような国民意識に対するミスリードと関係者への悪影響である。

(1) 必要条件と十分条件のすり替え

 大綱の中に必要条件とか十分条件といった表現があるわけではない。
しかし付随的な解説等から、良識ある国民や防衛に関心を持つ大衆に対し、大綱に定めた事さえしっかりやっておけばわが国の防衛は十分であるとの誤解を与えたように思う。
しかし、大綱の定める防衛力は必要条件ではあっても十分条件ではなかったのである。

(2) リスク認識の欠如

 十分条件と必要条件(現状)の差がリスクであり、政治が国民に請け負う『賭け』である。
国民がこれだけ国防のために税金を負担してくれるならば、後の不足分は政治が責任を持って安全を請け負うという部分がリスクに他ならない。しかしこの大綱の内容は、戦略核の脅威からゲリラ戦までの全脅威スペクトラムの内、頂点にある核の脅威の抑止と底辺にある限定小規模対処以外は殆ど手当てがされてなく隙間だらけなのである。
この隙間の説明を大綱はしていない。隙間がこれほど大きいのなら、もっと多くの税金を負担してもよいから隙間を埋めて安全を高めて欲しい(当然逆の立場もあろう)と言う国民の声を誘い出すのに十分な情報と機会を提供していないのである。

(3) 軍事音痴への拍車

 『限定小規模独力対処』や『エキスパンド』の軍事ストーリーを要路の人たちに簡単に信じこませた。
もっと真実に近い防衛問題の勉強を必要とする人たちに、安易な教科書と安心感を与えた。
わが国ほど政治に携わる人たちの国防や軍事に関する知識と関心の希薄な国は稀ではないか。
湾岸戦争当時、読み慣れぬ脚本を棒読みする文士劇役者のようなギコチなさを政府スポークスマンのタドタドしい語調の中に感じた。
日本の政治家にとって軍事用語は、外国語以上に縁遠い存在なのであろう。チェイニーやフィッツ・ジェラルドの歯切れのよさが印象的であった。

某大物政治家は公式の場で、大綱のことを『防衛計画の大もう』と述べた。
綱を網と読み間違えたものだろう。
前後の文脈から判断するまでもなく『防衛計画の大綱』はすでに流行語であったから誤読の不見識に驚いたものの、今にしてみればその人自身は十分に判っていながら、大綱を大妄ないし大盲と皮肉ったものかと思えるのである。

いずれにしても、国の防衛がこんな簡単な理念と施策でまっとうできると国民に思い込ませたのは、一時の方便ならともかく、長い目で見ればやはりマイナスであったろう。

(4) 利己主義的な小国意識の助長

 1976年大綱策定当時、わが国力の水準は今日ほどでないにしても、人口、貿易額、経常収支、海外投資残高、荷動量、保有船腹量などを取ってみても、大綱の定める控え目な防衛力とはアンバランスな大きさであったと思う。
大綱は故意に自らを軽んじる小国意識と、公共財的支出を回避する利己主義的の両方を国民感情の中に蔓延させたと思う。
最近ある雑誌で気鋭の学者が、『小さくてもキラリと光る』とか『(意味のよくわからぬ)ミニ超大国阻止』などと主張する著名な政治家の発言を取り上げ、すでに小国とは言えなくなった日本の現状について、著しく認識に欠けるものと指摘している。
まさにその通りであろう。

(5) 防衛関係者の勉強熱意の冷却

 防衛力整備に関して勉強しているのは日本ではホンの一握りの人たちである。
大綱の誕生によってこの人たちの努力を現実の施策に反映する道はある一線をもって閉ざされたと言って良い。
防衛力の整備は量だけの問題ではないが量と無関係ではない。
質と量のトレードオフには限界があるし、また大綱が定めたものは量だけではなく質(種類)についても及んでいる。いくら勤勉な人たちであっても実現の可能性のない問題に対して熱意が薄れるのは止むを得ないことだろう。

6 『功罪』あれこれ―2

 大綱のもたらしたものには、前項に述べたマイナス面ばかりだったわけではない。
以下のような功徳や余禄があったことも事実であろう。
しかしこの余禄は今日ではすでに勤めを果たし、もう大したメリットを持たなくなったように思える。

(1) ある種の国民合意

やみくもに防衛力の整備に反対してきた人たちの中から、この程度なら反対しないという人たちが出てきたことが考えられる。ある限度以内であっても防衛に関するコンセンサスが得られたことは悪いことではない。ただし、将来を展望してこの人たちがプラスになるかマイナスになるかは分からない。

(2) 近隣諸国の非難や口実の排除

 本当にそう信じている国も、それを口実にして何かを得ようとしている国もわが国の軍事大国化に対する懸念や注文がなくなった。結果的に信頼醸成措置の効果があったであろう。

(3) 防衛力整備の下支え効果

 大綱策定時の防衛力は別表に定める水準を満たしていなかったから、防衛力整備を推進するのに別表は錦の御旗として大きな価値があった。
『別表達成』というキャッチフレーズの『分かり易さ』と『威力』は、赤字国債大量発行時代にあって、要求側にも査定側にも立派な名分となった。

(4) 防衛力の質と運用の重視

 先に述べた如く質と量のトレードオフには限界があるものの、一定の量の中で力を蓄えるためには質の勉強が従来より重要となった。
大綱以前に質の研究がおろそかであったとは思わないが、成長発展期には量の整備が質に先行する傾向があっても不思議は無かったと思う。
大綱は突っ込んだ質の勉強の一つに機会を与えたのではないか。運用についても同様なことが言えよう。
限られた防衛力のなかで大きな力を発揮するためには、運用面での勉強が一層重要になる。
大綱だけが誘因ではないが、日米共同対処に関して研究面でも実行面でも飛躍的に成果が上がり始めたのはこの時期からであったと思う。

7 今後の大綱に望むこと

 タイトルから言えば、前項までの『功罪』をもって私の書くことは終わりとすべきなのだが、ここまであれこれあげつらいながら、対策的意見を言わずに終わるのは野党的に過ぎるので蛇足を付ける。

(1) 適切な土俵の設定と存在意義

大綱は、憲法や将来制定されるかも知れない安全保障基本法を含む関係諸法令、国防に基本方針、防衛庁内の諸計画、各年度の予算との関連性を明確にし、守備範囲を適切に設定することが必要である。上位や周辺関係法令等が完璧に整備された暁には、果たして大綱はまだ必要なのかという議論もありそうな気がする。

(2) 大綱の格付けと中身

 大綱は今後とも必要だという立場に立って言うと、第1に大綱は『国防の基本方針』を補足する任務があると思う。
『国防の基本方針』はプリンシプルに近いから、滅多なことで変わらない。
変えなくても通用することしか書いていないから歯ごたえがなく存在感も薄い。
例えば『効率的な防衛力を漸進的に整備する』などという文言は如何様にでも解釈できる。そこで大綱はその時々の情勢に応じ、何が効率的で何が漸進的なのかといったことを具体的に示す必要があろう。

第2にドクトリンは、情勢に応じて修正されなければならぬが、内外情勢に顕著な変化がないのに、政権が変わっただけで防衛政策がコロコロ変わっては困る。防衛政策に連続性を保持する役目がありそうである。
第3に上位や周辺の関係法令等が完璧に整備されても、法律の条文や予算の数字だけでは、その裏にあるコンセプトが分からない。

事業や数字の拠ってきた背景を説明するのも任務の一つではないか。
そういう背景説明の中で『国のトータルシステムの中で自衛隊の役割はどこまでか』『国連や国際社会への自衛隊の協力の限界はどこまでか』『日本は普通の国家になるか、ならないのか』『集団的自衛権を行使する範囲はどこまでか』といったことを、国際社会のルールや憲法等に照らして国民に分かるように示せば良い。

第4に大綱は軍政事項のみをカバーするのか軍令事項にも関与するのかという問題がある。
わが国における軍政・軍令の区分・境界は時代によっても陸・海軍の別によっても一定ではなかったようだ。
明治憲法時代、国務大臣の輔弼を要しない、いわゆる帷幄上奏に拠って裁可されるものが軍令事項であり、国務大臣の輔弼に拠って決定する『編成及び常備兵額』が軍政事項であったと考えて良いだろう。

今の時代にこのような区分が果たして必要なのか。
また軍政・軍令の適切な区分が可能かという問題がある。
しかし両者の間で機能上あるいは性質上の違いはある面では確実に存在すると思う。
そこで大綱はどこまでを守備範囲とするのか、私は軍政及び一部の軍令事項ではないかと思う。
公表される大綱は外国に対するシグナルの役目を果たすが、シグナルには送るべきでないシグナルもある。
それはわが国に対する外国政府の情勢判断の中に『不確定要素』を残しておく為である。
軍令事項には、相手にとっての『不確定要素』が多く含まれているからである。

8 終わりに

 今、日本には普通の国家になろうという声がある。
世界には同じことを考えている国がもう一つあるようだ。
それは米国である。
我々としては出来れば米国に普通の国になってほしくない。
その為には日本が早く頼りがいのある普通の国になって、米国が今の立場から退こうとするのを思いとどまらせなければならない。

わが国がどうすれば米国を今の地位に留まらせることが出来るか、そんなことも大綱はシグナルとして書いても良いのではないか。
次に『エキスパンド』に期待が掛けられないとすれば、情勢悪化時どういう対処方策があるのだろうか。
それは『普通の国にならない米国』を中心に、集団的自衛権をも念頭において国連や地域システムとの連携を強化することと、それをベースとした信頼醸成措置の推進以外にないように思うのである。

(出典:社団法人 安全保障懇話会 「安全保障を考える」 1994.4.1)