実は人権最先進国だった日本(猶太人対策要綱等)

山下 輝男

 黒鉄ヒロシ氏の最新著作「もののふ日本論」(副題:明治の心が日本を救う)(幻冬舎新書)を読んだ。バッサバッサと自虐史観を斬っており痛快だ。
 この本で、「猶太人対策要綱」なるものの存在を知った。(猶太=ユダヤ)
気になって調べてみたところ、日本が実は人権先進国であったことが判明した。そして、これらに陸・海軍人が関係していることが興味深い。



1 称揚されている杉原千畝の人道的行為
 テレビでも度々放映されて、日本人の勇気ある行動として広く知られているのが、杉原千畝氏のユダヤ難民に対するビザ発給である。昭和15年(1940年)7月から9月にかけて、リトアニア在カウナス領事館の副領事であった杉原千畝氏は、ビザの発給要件を満たしていないユダヤ系を含む者に通過ビザ(査証)を発給(記録上2000件以上その内ユダヤ系1500件)した。杉原氏は“忠誠心の欠如”として冷遇されたと云われるが、近年では、その功績が称揚されている。
 杉原の行為については、当時の小泉純一郎総理大臣が、「外務省として、杉原副領事は勇気ある人道的行為を行ったと認識している。」と答弁書(2006/3/24)(平成18年)で政府の見解を示している。他にも渡辺美智雄外相、宮澤喜一首相、中山太郎外相の答弁や発言があり、何れも杉原氏の判断と功績を讃えている。

2 ユダヤ難民2万人の受入・保護
(満州国ハルピン特務機関樋口季一郎少将と関東軍参謀長東条英機中将の英断)
 杉原氏のビザ発給の2年前、昭和13年(1938年)3月、ソ連の強制入植地から脱出したユダヤ人2万人が、満州国と国境を接したソ連のオトプールで、吹雪のため立ち往生していた。彼らは、強制入植地のピロビジャンから満州里を経て上海へ脱出しようとしていたのである。然しながら、満州国が入国を拒否したため、進むに進めず引くに引けぬと、二進も三進もいかぬ状況に陥ったのである。
 このユダヤ人の状況を見兼ねたハルピンのユダヤ人協会会長カウフマン博士が、ハルピン特務機関長樋口季一郎陸軍少将のもとを訪れ、同胞の窮状を訴えた。
 樋口少将は、関東軍参謀長であった東条英機中将の許可を得て、ユダヤ難民全員を受け入れた。難民の8割は、関東軍が準備した満鉄の支援列車により大連、上海を経由して米国へ、残余の4000人は開拓農民としてハルピン奥地に入植することとなった。樋口少将は、開拓農民のために土地と住居を斡旋するなど面倒を見たという。
 勿論、ユダヤ難民を受け入れるかどうかは満州国外務部の権限だろうし、ある意味では越権行為であったのかも知れぬ。
 それはさて措くとして、2万人の救出に東条英機中将が関わっていることは意外に知られていないようで、残念だ。東条大将を、ヒットラーと同一視する当時の欧米人には全く理解できぬであろう。
 後日談がある。案の定、ナチス政府から強硬な抗議が来た。が、樋口少将は、人道主義の名のもと、きっぱりと撥ね付けた。勿論、東条中将も樋口の主張に完全に同意し、ドイツの抗議は終息した。
 参考までに、エルサレムの丘の上にある「黄金の碑」(ゴールデン・ブック)には、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人と並んで、4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に同少将の部下であった安江仙弘大佐の名前が刻まれているという。
(この項「数万人のユダヤ人を救った東条英機」を参照 http://blog.livedoor.jp/takatosi636/archives/30512949.html



3 猶太人対策要綱:安江仙弘陸軍大佐の提言
 猶太(ユダヤ)人対策要綱は、2項に述べた安江大佐が、当時の陸相板垣征四郎大将に働きかけて、昭和13年12月6日の近衛文麿の最高首脳会議である「五相会議」で決定されたユダヤ人対策方針である。ドイツとの連携は重要なるが、対米関係の悪化をも避けたいとの思惑を絡めて、公正に取り扱い特別に排斥しないとの大方針を打ち出している。

 独伊両国ト親善関係ヲ緊密ニ保持スルハ現下ニ於ケル帝国外交ノ枢軸タルヲ
以テ盟邦ノ排斥スル猶太人ヲ積極的ニ帝国ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ
之ヲ独国ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度ニ出ツルハ唯ニ帝国ノ多年主張シ来
レル人種平等ノ精神ニ合致セサルノミナラス現ニ帝国ノ直面セル非常時局ニ於
テ戦争ノ遂行特ニ経済建設上外資ヲ導入スル必要ト対米関係ノ悪化スルコトヲ
避クヘキ観点ヨリ不利ナル結果ヲ招来スルノ虞大ナルニ鑑ミ左ノ方針ニ基キ之
ヲ取扱フモノトス

方針
一、現在日、満、支ニ居住スル猶太人ニ対シテハ他国人ト同様公正ニ取扱ヒ之
  ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ
二 新ニ日、満、支ニ渡来スル猶太人ニ対シテ一般ニ外国人入国取締規則ノ範
  囲ニ於テ公正ニ処置ス
三、猶太人ヲ積極的ニ日、満、支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク、但シ資本家、
  技術家ノ如キ特ニ利用価値アルモノハ此ノ限リニ非ス


 残念ながら、昭和15年7月以降米国の対日禁輸が強化され、独伊との三国同盟が締結された昭和16年(1940)9月28日の翌日に、安江大佐は特務機関長を解任された。猶太人対策要綱が、欧米に対して期待するほどの効果がなかったから責任を取らされたのだろうか? 本要綱は、日米開戦の翌年に廃止された。
 日本政府は、ドイツとの関係においてユダヤ人の取扱いに苦悩していた。経由地の通過は認めるとしても、受け入れは大局上宜しくないと意見一致が為されている。最も、外務省は要綱とユダヤ難民入国制限の訓令は同一の趣旨であると云っているようだ。

4 上海租界地での対応  大塚惟重海軍大佐
 上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋であり、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に上陸したのが最初である。当時、ユダヤ人が希望する米国等はビザ発給が制限されており、実態的には入国拒否に近かった。非人道的行為まであったという。
 そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。彼は戦後「日ユ懇談会」の会長を務めた。
 日本政府の有田外相は、ハルピンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。
 1939(昭和14)年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。

5 パリ講和会議における「人種差別撤廃提案」
 第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国は、人種差別の撤廃を明記するべきという「人種差別撤廃」の提案を行った。
 1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。1月26日に珍田捨巳駐英大使はアメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。2月4日にはウィルソンの友人であるエドワード・ハウス大佐に、連盟規約に挿入するべき文章として、「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、ウィルソンも賛成するであろうと述べた。翌日ハウスとウィルソンが会談し、日本側に人種差別撤廃提案を連盟規約に挿入することを大統領提案として提出するつもりであると伝達した。「最大の障害」であると見られていたアメリカとの調整が成功し、日本側は提案成立に大きな自信を得た。
 然しながら、イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、結局、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。

6 終わりに
 欧米の人種差別意識に翻弄されながら、日本は大局の中で如何すべきかを悩みつつ色々な措置を行った。そこには外交官や軍人の独断も有ったろう。然し、人道的意識の希薄な欧米に対して日本が放った矢は正に珠玉の一矢であった。
 古来、日本人は平等意識が強かったと云える。欧米人の差別意識を端的に示しているのが、英国のアーサー・バルフォア外相の「ある特定の国において、人々の平等というものは在り得るが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と言い放っている。(前掲書159~160p)
 欧米人の意識も今では激変していることを祈ってはいるが・・
何れにしても、日本は、日本人が思うよりも、人権意識・人道意識が強い、それは多分に武士道精神に淵源を見出すことが出来る。勿論、戦略的に人権を掲げることも有ったとしても、本質的に日本人には人権意識・人道的な観点が横溢していると確信する。
 何れにしても、知られざる歴史的事実を広く国民に知って欲しいものである。

(了)