南京事件関連証言集(第1回/全3回)

平成29年12月10日
中垣 秀夫

 南京事件について、今までに何回か講演をしてきた中で、聴衆あるいは街の声として「一番説得力があるのは当時の生存者の証言ですよ」との意見が寄せられた。一方では、無かったことの証明は「悪魔の証明」と言われ、大変難しい。何故なら、無かったのだから、証拠もないし、写真もないからである。仮に、「自分は虐殺など見ていない」という人が現れても、「お前は、その時、その場に居合わせなかったからだろう」と言われれば“オシマイ”である。しかしながら、当時の現場の証言を積み上げることは、仮に傍証であっても、普通の国民が南京事件の全体像をイメージアップするために有効な策だと考えている。また防大3期の重松恵三・元陸将から「南京戦に参加した兵士や南京に住んでいた人の南京大虐殺を否定する声は、現地における“庶民の肌感覚”としての真実の声であり、大変重要だと思う」との所見が寄せられた。
 もとより当時の証言の重要性については、誰しも異論がないであろう。しかし、南京事件から80年が経過し、証言者の高齢化が進み、かつ殆んどの方が亡くなられて行く中で、当時の現地を知る人の声は極めて貴重である。かつて防大教授時代に南京攻略戦に参加した部隊の関係者を求めて、金沢市(歩兵第7連隊)、福知山市(歩兵第20連隊)、鯖江市(歩兵第36連隊) に取材に出掛けたことがある。しかしながら、会いたいと思っていた関係者全員が入院中又は高齢のため取材に耐えられないとして、家族から拒否された。家族の方の気持ちを忖度すれば、「今更、南京事件を調べてどうする積りか。もう残り少ないのに、そっとしておいて欲しい」であったろう。
 しかし、そのような雰囲気の中にあっても、地道な努力を継続していく中で、幾人かから証言や資料の提出を得ることができた。ちなみに、当時の証言や資料を発掘しても、それを公にするためには本人や遺族の承認が必要なのである。
 以下は、その貴重な証言・証拠の記録である。



1 南京戦参加者の証言
 南京攻略戦に実際に参加した勇者お二人の証言を入手することができた。非常に貴重な証言である。

(1) 古澤智氏の南京攻略戦証言
[解説]
 「チャンネル桜」の水島総社長から「南京戦の生き残りで古澤智さんという方が熊本に居られます。取材したいのでアポを取って下さい。連絡先は〇〇△△です」との連絡を受けた。早速、電話して取材調整のため訪れたところ、熊本歩兵第13連隊出身で、ご高齢ながらも矍鑠(かくしゃく)としておられ、快く取材に応じていただくことができた。そのことが東京で話題になったのだろうと推測しているが、それから間もなく平成19年12月6日、藤岡信勝・南京学会理事や冨澤繁信・南京学会事務局長が中心となって、東京の九段会館で「南京陥落七十年国民の集い」(会長:加瀬英明)主催により、「南京戦生き残り勇者の証言発表会」が開催された。その集会に先立ち、冨澤先生から「古澤智氏は第一線部隊の生き残りであり、大変重要な証人なので是非、出席して欲しい。ホテル代と飛行機代は付き添いの家族の分と中垣先生の分も含め事務局で負担するので、家族にとっても安心でしょう」と懇願要請された。しかし、ご家族から「何分、高齢であり、少し物忘れもあるので、そのようなスポットライトを浴びるような場所は体力気力的に無理がある」と断られてしまった。そこで、次善の策として、自宅で証言をテープに撮り、それを会場で流すことにした。以下はそのやり取りの内容である。


テープ撮り H19年11月20日
場所    熊本市内・古澤氏自宅
テープ起こし      中垣秀夫

[冒頭説明] 本日は、熊本から南京戦に参加された勇士の方にインタビューして、お話を承りたいと思います。インタビューする私は、熊本市に在住する日本南京学会理事の中垣秀夫でございます。それでは早速、始めます。

Q 先ずお名前と生年月日をお聞かせ下さい。
A 名前は古澤智と申します。生年月日は、大正5年7月6日です。
Q そうしますと、今年で91歳ですか。
A はい、91歳になります。
Q 南京戦に参加されましたが、その際の所属部隊はどこでしたか。
A 歩兵第13連隊、第1大隊、第1中隊、第1小隊です。
Q 地元熊本の連隊ですね。その当時の階級は何でしたか。部隊での職名は何でしたか。
A 歩兵伍長で、分隊長です。第1小隊の第1分隊長でした。
Q 南京城内に入城されましたか、入城したのは何日の何時頃でしたか。
A 南京城に入ったのは、昭和12年12月日14日です。
Q どの門から入りましたか。
A 中華門から入りました。
Q 門の様子は如何でしたか。
A 中華門は、4層のトンネル状になっていまして、各門の内側には土嚢(どのう)がギツシリ積まれていたのですが、前日から我が工兵隊が土嚢を取り除いてくれていましたので、我々は門から入りました。
Q そうでしたか。他の史料によりますと、第6師団は12日夜に城壁にハシゴを掛けて攻撃し、13日早朝に中華門を占領したとなっておりますので、占領後、工兵隊が土嚢を取り除き、古沢さんの部隊は14日に門から入られた訳ですね。入城してご覧になった城内の様子は如何でしたか。
A 大きな通りがあって、我々はそこを進んでいきましたが、敵兵は一人も居ず、城内はガラーンとして、人影がありませんでした。
Q 城内では人影を一人も見かけなかったんですか。
A 門から100メートルぐらい行くと、一人の老婆が紙で作った手製の日の丸で我々を歓迎してくれました。人影を見たのは、この一人だけです。
Q 城内でも、引き続き攻撃したんですか。
A いいえ、おおよそ100メートルも進んだら「止れ!直ぐ、また門外に引き返せ」と命令され、城外に出ました。
Q どうして「門外に引き返せ」と言う命令が出たんですか。
A さあ解りません。私ぐらいの階級の者には「どうしてか」と言うことは解りません。
Q 恐らく14日の9時か10時頃に蕪湖への転進命令があり、師団は城内から引き返したものと思われます。門外に出て、どうされましたか。
A 城外で宿営しました。
Q 宿営場所は、どのあたりですか。宿営地付近の様子は如何でしたか。住民が居ましたか。
A 城外の宿営地は、中華門の外側で雨花台の北側の部落の民家でした。もちろん、付近には住民は一人も見当たりませんでした。
Q それからどうなりましたか。
A 蕪湖への転進命令があって、2~3日、宿営地に居ましたが、17日には蕪湖に向かいました。
Q そうしますと、古澤さんの部隊は城内にはもちろん南京にほとんど滞在してない訳ですね。
A ええ、そうです。
Q 史料によりますと、第6師団は15日から逐次、蕪湖に転進しておりまして、師団長も21日に南京を出発しています。ところで中華門を攻撃したときは激戦でしたか。
A 私どもの先遣隊が中華門を攻撃したときは、だいぶ苦労したと聞いております。戦死者も出ております。また、雨花台を攻撃した際も激戦で戦死者が出たと聞いております。そういえば、雨花台攻撃時、敵兵がトーチカ内の杭に鎖でつながれており、死ぬまで撃ち続けて逃げられないようにしてあったと聞きました。
Q 南京事件のことは、どのようにお聞きになりましたか。
A 当時は、何も聞いておりません。戦後になって初めて聞いて、驚いております。

[締め括り] 以上、「当時は南京事件のことは何も聞いておらず、戦後になって初めて聞いて驚いた」との古澤さんの言葉をもって、熊本からのインタビューを終ります。

[後日談] 12月6日、九段会館での発表会は盛会のうちに無事終了し、集会の模様はCDに収録されて、「参戦勇士九人が語る南京事件の真実」として発売された。翌20年2月下旬、事務局から当方にCDを2部送って来たので、早速、1部を古澤氏の自宅に届けに行ったところ、古澤智氏は既に亡くなられており、ご霊前に捧げてきた。ご家族の方から「あのインタビューが父の最後の国家へのご奉公だったのだろうと思います」とのお言葉があった。謹んでご冥福をお祈りしたい。


(2) 城光宣氏の南京戦証言
[解説]
 平成23年12月11日に行われた熊本県郷友会主催の「第6師団の名誉を回復する集い」において、質疑応答の中で、「南京攻略戦に参加した第6師団の将兵の方は全て亡くなられてしまった。大変残念です」と話したところ、済々黌同窓会の重鎮でブーゲンビル会の高木正男会長から「山鹿にジョウさんと言う方が居られて、南京戦に参加されたはずです。最近会っていませんが、確かまだご存命のはずです」との情報が寄せられた。
 ブーゲンビル会と言うのは、第6師団が最後に戦闘に従事したブーゲンビル島を記念して作られた第6師団の戦友会である。早速、山鹿市に住む友人・知人に依頼して探していたところ、2月末になって同市の大代純一氏から、「城光宣(じょうこうせん)さんと言う方が山鹿市に住んでおられ、ご本人に確認したところ南京戦に参加したそうです。年齢が96歳になられますが、まだお元気です。電話番号は0968-〇〇-〇〇〇〇です。訪ねられる際は、私がご案内します」との電話連絡があった。
 取り急ぎ、城氏に電話したところ、「大分の歩兵第47連隊の獣医として南京戦に参加した。後方部隊なので第一線の戦闘のことは良く解らないけれども、南京戦の雰囲気や街の様子は覚えています」との由であった。
 改めて日程を調整し、4月1日に郷友会の中村達雄会長とともに山鹿市を訪問し、大代純一氏の案内で山鹿市内の城光宣氏宅を訪れ、取材することができた。城氏は「南京大虐殺と言われているのは、敵の遺棄死体であろう。敵は逃げる際に、クリークに多くの死体を遺棄していた。大虐殺の写真はその時のものだろう」と証言された。また歩兵連隊に馬が800頭も居たことも教えていただいた。その際の具体的なやり取りは以下のとおりである。
 ご協力いただいた中村達夫・郷友会会長及び大代純一・日中協会理事兼運営委員、情報をいただいた高木正男・ブーゲンビル会会長並びにご高齢にもかかわらず快く取材を受けて下さった城光宣氏とご家族の方々に心から感謝申し上げる。



テープ撮り H24年4月1日
場所   山鹿市内・城氏自宅
テープ起こし    中垣秀夫

Q 本日は初対面の私共のために時間を取っていただきありがとうございます。96歳とお聞きしましたが、お身休の調子は如何ですか。
A ありがとうございます。おかげさまで何とか元気に過ごしております。
Q 早速ですが、この前の電話で歩兵第47連隊に居られたとお聞きしましたが、先ずは入隊前後の様子からご紹介下さい。
A 私は阿蘇農学校(馬術部で有名な現在の阿蘇農業高校)の畜産科を卒業し、昭和9年に19歳で軍隊に入隊しました。その時の階級は伍長でした。兄も航空隊に入隊しておりまして、私の場合も父親が入隊を決めておりました。私は獣医を目指しておりましたので、馬の多い部隊が良いと思って、騎兵か野砲か輜重兵かと迷いましたが、最終的には輜重兵第6大隊に入隊しました。入隊後1年したら、東京の獣医学校に1年間入校し、卒業して昭和12年に大分の歩兵第47連隊に配属になりました。
Q ちょっと待って下さい、輜重兵第6大隊ですか。連隊ではないんですか。
A ええ、第6大隊です。その当時は、輜重兵はまだ連隊ではなく2個中隊編成の大隊でした。
Q そうでしたか。ところで、歩兵連隊に配属になったと言われましたが、歩兵連隊に馬が居たんですか。
A ええ、歩兵連隊には平時でも80頭くらいの馬が居ました。将校・下士官の乗馬用、大隊砲・速射砲・機関銃用の駄馬、大行李・小行李と言っていましたが糧食や弾薬を運ぶ駄馬など、平時でも80頭ぐらい居ました。用途によって乗馬用と駄馬用では蹄鉄も異なります。もちろん、動員が掛かるともっと沢山の馬が必要です。近隣の町村から徴用して700~800頭を集めました。戦場に道らしい道はありませんから、馬がなければ大砲も機関銃も弾薬も糧食も、とにかく何もかも運べません。ですから、馬の頭数で言いますと、歩兵連隊が一番多かったんです。
Q 驚きました。初めて聞きました。そうしますと、歩兵連隊にも当然、獣医さんが必要ですね。連隊付きだったんですか。
A 連隊本部に獣医部という部署があって、当時の獣医官は東大出の浅井中尉でしたが、その下に私が居て、各大隊に下士官を配置しておりました。
Q 当時の指挿官で覚えている人が居ますか。
A 連隊長の長谷川大佐を覚えています。確か連隊長の乗馬姿の写真があったと思います。(写真の載ったアルバム提示) それから第一大隊長の緒方中佐を良く覚えています。緒方中佐は鹿本町(現熊本県山鹿市)出身です。あと、輜重兵第6連隊長の川真田大佐も覚えています。
Q 東京の獣医学校から帰られて、大分の連隊に配属された時の階級は何でしたか。
A 軍曹でした。伍長で入隊して1年か1年半ごとに軍曹、曹長、見習い士官と昇任し、昭和16年に少尉に任官しました。
Q 昭和12年頃の部隊の様子を教えて下さい。
A 部隊では、蹄鉄の交換や修理など、馬の病気以外にも結構仕事がございました。そして、昭和12年7月、大分の日出生台演習場で演習をしている最中に応急動員が掛かりました。折悪しく、獣医官の浅井中尉が落馬して大ケガをされ入院していたものですから、私はその頃軍曹でしたが、1週間不眠不休で動員準備をしました。何しろ、千頭以上の馬を検査して、これは乗馬用、これは駄馬用、これはペケ(不採用)と決めていく訳です。そして、馬をどこに配分するかも決めねばなりません。とにかく大変でした。1週間、“寝なし(熊本の方言で「寝る暇もない」という意味)”でしたね。
Q それは大変でしたね。その後、北支に派遣された訳ですか。
A そうです。(ノートを見ながら)昭和12年7月23日動員完了、8月3日門司港出発、4日釜山港上陸、10日鴨緑江通過、9月14日永定河・保定城攻略、10月下旬に石家荘、そこから鉄道輸送で塘括に至り、10月27日に乗船して、11月5日に杭州湾に上陸しました。そして上海を包囲するように後方から攻撃したんですが、敵はものすごい損害でした。クリークに沢山の支那兵の遺棄死体が浮かんでいました。剣道達人のある特務曹長などは、一人で40~50人の敵兵をやっつけたと言っていました。南京大虐殺の証拠として出回っている写真は、私はこの時の写真ではないかと思っています。とにかく大量の遺棄死体でした。
 そして、12年12月12日夜、中華門を占領、12月23日には蕪湖を占額、13年5月23日には盧州を占領しました。南京戦では歩兵47連隊は中華門を攻撃したんですが、城壁の高さが15メートルあり、幅が10メートルほどもありました。城壁を野砲や重砲で盛んに撃ちました。そして、占領してみると、敵兵は一人も居ませんでした。城内と申しますか、付近には住民も一人も居ませんでした。
Q 「12月12日に中華門を占額した」と言われましたが、第6師団の中で歩兵47連隊が中華門を攻撃し、師団の中では最も早く城壁を占額したのは間違いありませんが、恐らく12日の夜に城壁の一部に取り付いたのであって、占領確保したのは13日の早朝だと思います。公刊戦史でも「各軍は13日の朝、南京城壁の各門を占領した」となっております。ところで、中華門占領から蕪湖占領まで約10日間、南京に居られましたが、その時の様子を教えて下さい。
A 南京城内の中華門から入った直ぐのところの民家に入っていました。立派な豪邸で獣医部が全員、一軒の家に入っていました。まとまって一ケ所で宿営したのです。周りは全て空き家で、我々以外誰も居ませんでした。とにかく街はガラーンとしていました。
Q 公刊戦史によりますと、13日の夕以降、第6師団の将兵で南京城内に居たのは都城の歩兵23連隊の一部が水西門を含む城内外で宿営したとされており、歩兵45連隊と騎兵第6連隊が南京城の西側の揚子江との中間地帯で行動しており、その他の第6師団主力は雨花台と中華門の間に宿営して、蕪湖への転進準備をしていたとされています。47連隊も城内に居たんですか。
A 連隊の第一線部隊は城外でしたが、私ども獣医部は城内の民家にいました。
Q 南京大虐殺について、どう思われますか。
A 杭州湾上陸から上海を包囲しようとした際、遺棄された多くの戦死者を見ました。本当に死体が累々と重なっていました。また、南京への追撃の際も、時々、敵味方が前後したりしたことがあり、クリークに浮かぶ多くの遺棄死休を見ました。私が見た敵の遺体はこれだけです。それ以外には死体を見ておりません。私はこれらの戦闘による敵の遺棄死体が南京大虐殺と言われる実態ではなかろうかと思っています。南京では何しろ、人間が居ないのですから殺し様がありません。東京裁判で日本人を戦犯にするためにでっち上げたんでしょう。戦犯を裏付けるための占額軍のでっち上げですよ。それ以外に考えられません。
Q ところで、先ほど見せていただいたアルバムですが、お借りして宜しいでしょうか。長谷川連隊長以外にも興味のある写真がございました。貴重な資料ですので、お借りして私のパソコンに保管しておきたいと思います。
A 良いですよ。そういえば、手作りの資料ですが、この『軍馬衛生史』の中に北支・中支の戦闘詳報が載っております。これもお持ちになりますか。
Q ありがとうございます。是非、お借りして研究させて下さい。なるべく速やかに返却いたします。丁重に扱いますので、ご安心下さい。
A お役にたてて嬉しいです。どうか日本のために、引き続き南京戦の研究をなさって下さい。

[参考] 城光宣氏関連の第6師団将校名簿
 第6師団長 谷壽夫中将  参謀長 下野一靃大佐  後方主任 岡田重美大尉 第11歩兵旅団長 坂井徳太郎少将  歩兵第47連隊長 谷川正憲大佐  輜重兵第6連隊長 川真田国衛大佐

[後日談]
 借用したアルバムを調査したところ、若い姑娘(クーニャン)が兵隊と二人で写っている写真が3枚あった。被写体も場所も別であり、3種類の写真ということができる。アルバム返却時、城氏に「何処での写真か」を確認したところ、「3枚とも蕪湖での警備の時の写真で、蕪湖では時間的精神的に余裕があり、こんな戦友の写真が撮れた」との由であった。これは大変重要な情報で、60キロ離れているとはいえ、南京で大虐殺が行われている時期に、このような穏やかな写真が撮れるはずがない。また、年端も行かぬ姑娘が日本人の兵隊と二人で記念撮影をするはずがない。もちろん、当時、新聞もテレビもなかったが、南京で大虐殺が生起しておれば、噂は電波と同じ速度で伝搬していた。

(続く)