南京事件関連証言集(第2回/全3回)

平成29年12月10日
中垣 秀夫

2 南京在留者の証言
[解説]
 戦時中、南京市に在留していたお二人の方から証言を得ることができた。証言入手の経緯は、熊本で南京事件について講演をしたところ、これを来熊中の広島在住の寺岡節さんが聞かれ、彼女から「戦時中、南京に住んでおられた久保田典子さんという方が広島に居らっしゃいますよ」と情報が提供された。ちなみに、寺岡さんは中村達夫・熊本県郷友会長の長女である。そして更に、久保田さんの取材の中で、彼女から「南京のことは、私より鹿児島の蓑手藤男さんの方が良くご存知だと思います」として、同氏を紹介していただいた。
 久保田典子さんの証言は、日本軍による南京城攻略戦から5年後の昭和17年頃の南京の街の様子、及びそれ以降終戦時を含め帰国するまでの3年半にわたり、南京市内に住んでいた若い女性の感じたままの言葉である。彼女は、証言の中で「日本軍が悪いことをしたとは思えない。南京市民の反日感情は一切感じなかった。若い娘が一人で街を歩いて不安を感じたことがなかった。一人で映画を観たり、食べ物屋に入ったりしました」と述べている。更に「終戦の放送があってからは、母が心配して一人での外出は止めるように言いましたが、平気で一人で外出してました。中国人には私が日本人であることは直ぐ解ったと思いますが、不安を感じたことは一度もありません」とも述べている。
 南京事件から間もなく70年を迎えようとする今日、このような貴重な証言が出て来たことに感謝する。本件取材にあたり、快く取材に応じていただいた久保田典子さんに心から感謝するとともに、情報提供を含め様々な便宜を図っていただいた寺岡さん及びRCC中国放送の鍵本文吾氏にも感謝申し上げる。
 後半の蓑手藤男氏の証言は、日本軍による南京城攻略戦から6年半後の南京と周辺の状況、及びそれ以降2年間にわたり、南京城外に住んでいた海軍軍人の言葉である。蓑手氏は、当時、南京周辺に警備や宣撫に出掛けてゲリラから射撃を受けたことや、先輩が以前、中国人数名を殺したことも、淡々と語ってくれた。しかも、中国人を殺したことについては、殺した先輩はもちろんそれを聞いたご本人も、「そのことが南京虐殺の一環であろう」と思い込み、長い間、苦悩していたことが感じ取れた。当方からの「スパイを処刑することは国際法的に合法で、虐殺には当りません」という指摘に対して、パーッと顔に赤味が差し、「エッ、そうですか。虐殺じゃないんですか」と心から安堵した様子であった。恐らく長い間、トゲの様に心に刺さっていたのであろう。このことは反面、本証言が嘘やごまかしではなく、本人の率直な考えを吐露したことの証左でもある。しかし一方では、繰り返し「日本軍が悪いことをしたとは思えない。南京市民の対日感情は良かった」とも述べている。このような貴重な証言が次々と出て来たことは、南京研究に携わる者として慶びにたえない。本件取材依頼に際し、ご家族や会社の方々の「体調が芳しくないので取材は無理ではないか」との心配をよそに、「自分ごとき者が研究のために何かお役に立つことがあるなら協力したい」として、快く取材に応じていただいた蓑手藤男氏に心から感謝申し上げたい。あわせて蓑手氏の情報を提供していただいた久保田典子さんにも重ねて感謝する。
 参考までに申し添えておくと、蓑手氏ご本人及び家族と会社の方からは、当初、「せっかく遠い所から取材に来ていただいたのに体調が悪く、長時間の取材は無理です。短時間でお願いします」との申し出でがあり、本当に最初会った時は顔色も悪く、元気もなかった。ところが、先輩が中国人を殺したのは南京大虐殺とは関係ないと解って以降は、顔色も良く元気になって、「ちょうど昼になった。近くに良い店があるから昼飯食べに行きましょう」と誘われ、食事中も活発に会話が弾み、四方山の話の中で「中垣先生が防大教授と聞いて、日本のために大変頼もしいと思いました。私の孫は高校で剣道部のキャプテンをして居ます。勉強の方も優秀なので、将来は防大に入れたいと思います」との話があった。南京大虐殺が世間で余りにも騒がれるものだから、「真面目な人こそ、色々な情報や思いに振り回されているのだな」と感じた次第である。


(1) 久保田典子さんの証言

テープ撮り H18年3月9日
場所     広島市内ご自宅
テープ起こし    中垣秀夫

Q 本日は、お忙しい中に時間を取っていただきありがとうございました。早速ですが、お名前と生年月日・年齢を教えて下さい。
A 久保田典子と申します。生年月日は、昭和5年11月7日です。今、75歳です。
Q お幾つの時、南京に行かれましたか。
A 小学校6年生を終った年の4月頃ではなかったかと思います。確か12か13歳ぐらいの時だったように思います。
Q そうしますと、昭和17年頃ですね。
A そうですね。1年ぐらいは前後しているかも知れません。当時は幼かったし、記憶がハッキリしておりませんので、すみません。
Q 南京の何処に住われてましたか。それはご家族一緒に住われてましたか。
A 南京城内のタイピンロー(太平路?)、トーコーシャン(東郊郷?)6号に住んでました。そこは大通りの繁華街で、ロータリーのすぐそばでした。玄武湖にも比較的近かったように思います。そこで家族と一緒に住んでました。母は再婚でございまして、養父は、軍人や軍属ではなく、民間人でしたが、軍を相手に仕事をしておりました。土木建築の社長として、軍の仕事を請け負っていたようです。父の会社では、大勢の中国人の苦力(クーリー)を使ってました。
Q ご家族や同居者のことを教えて下さい。
A そこには、日本人は養父と実母と私の3人が、それと中国人ボーイとク―ニャン(娘)が3人の計6人が一緒に住んでいました。私は小さかったから、再婚した母と一緒に中国に来ました。姉は大きかったので内地に残り、兄は内地の学校の寮に入ってました。
Q 付近に日本人は住んでましたか。
A 大勢の日本人が住んでいました。日本人の婦人会がありまして、母が会長をしておりました。
Q 南京には、いつ頃まで住んでおられましたか。
A おおよそ3年か4年ぐらい住んでいました。確か16歳の時だったと思いますが、終戦から半年ぐらいして日本に帰ってきました。帰国したのは、昭和21年の1月か、2月頃だったと思います。
Q 帰国に際し、写真や日記帳など、当時をしのばせる物を持ち帰られませんでしたか。
A いいえ、一切ございません。帰る際は、宝石・貴金属とか、写真とか、ノート・書籍類は全て没収されました。だから、当時の年月がハッキリしないのです。まあ、全て没収と言うと人聞きが悪いですけれども、貴金属と写真は港で没収されましたが、あとは自分達で置いてきたんです。持ち帰れるのは、一人当たり行李一個でしたから。内地は食べ物がないという噂でしたので、食料品はハムなども持ち帰りました。お陰で帰国した当初すごく助かりました。着物の帯も芯を抜いて外側の生地だけ持って帰るというような状態でした。でも内地の人よりは良かったと思います。帰国後、それらを食べ物に変えることができましたから。
Q 南京における日常生活の様子を教えて下さい。
A 内地ではお菓子など全くない時期でしたが、南京に来ますといっぱいありました。食料品にしろ、衣料品にしろ、物がふんだんにありました。戦争中でしたが、全く戦争を感じさせない平和な日々でした。日常生活の中で、戦争中であるとか、負けるかもしれないとか、そういった不安を感じたことは一度もありません。
Q 南京の街の様子は如何でしたか。
A 平穏な毎日でした。中国人の酔っ払いや喧嘩を見たこともございません。日本人はよく酔っ払ってロレツが回らなくなりますけど、中国人はそれを見て笑ってました。
Q 店は開いてましたか。何か売ってましたか。
A 色んな店がありました。何でも売ってました。私は、しばしば中国人がやっている店でラーメンみたいな麺や餃子を食べました。とても美味しかったです。今、考えたら、少し不潔だったように思いますが、当時は平気でした。映画館に映画を観に行ったこともございます。私は普段いつも一人で外出してましたが、不安を感じたことは一度もありません。
Q 中国語をお話しになりましたか。
A 中国語は話せませんでした。一週間に6日間学校に行ってまして、女学校では週に5日間、一日1時間の華語(北京語)の時間がありました。従って、時間割としては、華語を週に5時間習うようになってましたが、実際は挺身隊の一員として、軍需工場のようなところで手伝いをする毎日でした。ですから学校にほとんど行ってないし、中国語を学ぶ機会がありませんでした。家ではボーイもクーニャンも日本語がペラペラですから、中国語を話せなくても何の不自由も感じませんでした。映画館や、買い物や、食べ物屋も日本語で大丈夫でした。
Q 女学校は何んという学校でしたか。
A 多分、南京第一高女だったと思いますが、何しろ、学校へはあまり行っておりませんので、よく覚えておりません。
Q 挺身隊では何をなさってましたか。
A 最初の頃は、どこかの部隊に行って、その中にある工場で車のガラスのテープ貼りをしておりました。でも仕事をきついと感じたことはありません。挺身隊でも大切にしていただいたように思います。その後、防疫部隊のワクチンのラベル張りをしました。最後は、同じ防疫部隊の人事係に配置されまして、終戦まで書類の整理や人事資料の整理などの事務をしておりました。
Q 昭和12年12月13日に日本軍が南京市の城門を攻略したんですが、南京で大虐殺が行われたと言う人達は、「それ以降6週間にわたって日本軍が殺戮や暴行を行った」と言っております。行かれた時は、それから7~8年経ってるとは言え、実際の街の様子は如何でしたか。
A 信じられません。もし本当に日本軍が残酷なことをしていたなら、市民が反日感情を持つと思いますが、私が中国人の反日感情を感じたことは唯の一度もございません。私は、当時、中国人に悪い人は居ないと思ってました。
Q 中国人を見かけましたか。その他の外国人を見かけましたか。
A 中国ですから、もちろん大勢の中国人を見ました。しかし、日本人以外に、その他の外国人を見たことはございません。
Q 一般市民が殺される現場を見たことがありますか。そのような噂を聞いたことはありませんか。
A 一切ございません。噂を聞いたことも、一切ございません。
Q 日本の兵隊を見かけましたか。
A ええ、沢山見かけました。タマ(多摩=防疫給水部隊)部隊というのが、近くに駐屯してまして、そこの兵隊さん達をよく見かけました。部隊は、時々、何処かへ出掛けて行きましたが、数ヶ月して帰って来ると、兵隊さん達は髭モジャでした。その際、「誰それが戦死した」と聞きましたので、「ああ、何処かで戦争してきたんだな」と思いました。その時は、皆さんもしんみりしてて、戦争を身近に感じましたが、普段は平穏でしたし、兵隊さん達も明るくて戦争をしていることを身近に感じたことはありませんでした。軍曹ぐらいの人達は自由が利いていて、バレーボールなんかしてまして、そんなのどかな情景を見ていると戦争を感じませんでした。
Q 日本の兵隊が悪いことをしているという噂を聞いたことはありませんか。
A 一切聞いたことがありません。先ほども言いましたが、私は中国語を話せません。しかし反日感情を感じたことは、一度もありませんでしたし、一人で外出して、不安を感じたことも一度もありませんでした。当時は若かったので、チャイナ服や普通の洋服を着て、一人で何処にでも、遊びに行ったり、買い物に行ったりしてました。日本軍が悪いことをしていたなら、多くの中国人の中で、若い娘にそんなことができるでしょうか。
Q 戦争から帰ってきた部隊の兵隊達が、気が荒んでいて、中国人に乱暴すると言うようなことはありませんでしたか。
A 一切ありません。聞いたことがありません。
Q 外務省がインターネット上の「歴史問題Q&A」の中で、「政府としては、日本軍が南京で市民を殺害したり、略奪したりしたことは否定できないと考えている。」と公開していますが、これについての感想をお聞かせ下さい。
A 本当にそんなことがあったとは、とても思えません。今は、南京は反日感情がとても悪いと聞いておりますが、当時は反日感情はありませんでした。日本軍が市民を虐殺していたら、市民の反日感情がまだ残っていたはずです。終戦になって、私達が内地に帰るとなったときも、中国の人達が心配して「広島は原爆が落されて、どうなっているか解らないから、南京に残りなさい。そのほうが安心よ。」と言ってくれました。終戦の放送があってからは、母が心配して「一人での外出は止めなさい」と言いましたけれど、私は平気で一人で外出してました。中国語が全くできませんから、中国人には私が日本人であることは直ぐ解ったと思いますが、不安を感じたことは一度もありませんでした。
Q 防衛大学校の学生にアンケートをとったところ、8割の学生が「南京大虐殺はあったと思う」と答えています。「何故あったと思うか」と聞いたところ「学校で習ったから」という答えでした。これについて、どう思われますか。
A 教育は大変重要です。中国との友好も大切ですが、歴史をきちんと教えることはもっと重要です。何度も言いますが、私は南京の人達の反日感情が強いというのが、どうしても信じられないのです。
Q 本日はありがとうございました。お陰様で、とてもよい取材ができました。
A そうですか。遠いところからおいでいただいたのに、お役に立てましたかどうか。鹿児島に居られる蓑手藤男さんなら、もっとお役に立つ情報をお持ちかも知れませんよ。連絡先を教えましょう。


(2) 蓑手藤男氏の証言

テープ撮り H18年3月9日
場所     広島市内ご自宅
テープ起こし    中垣秀夫

Q 本日は、体調が余り十分でないとお聞きしましたが、時間を取っていただきありがとうございました。なるべく手短に切り上げたいと思います。早速ですが、お名前と年齢を教えて下さい。
A いえいえ、ご苦労様でございます。こんな遠い鹿児島の田舎まで良くいらっしゃいました。私の名前は蓑手藤男と申します。戌年生まれの84歳です。
Q まず最初に、南京に行かれることになった経緯を教えて下さい。
A 私は海軍の水兵でして、職種は機関員でした。海軍所属になった昭和16年4月以来、第3艦隊の旗艦である一等巡洋艦「妙高」に機関士として乗り組んでいましたが、昭和19年1月から2ヵ月間、蘇州警備隊所属になりました。そこで何をしていたかと言うと、上海から南京に行く途中の蘇州付近で、揚子江が浅くなってるところがありまして、そこにイタリアの船が座礁しておりました。そこで、その場所に検問所を設け、往来する船の検問をしておりました。北九州の石炭船が来たこともありました。そして昭和19年の3月に、南京警備隊所属となり、南京に赴任しました。隊長は、梅崎大佐と言って、福岡出身の人でした。
Q 大佐が指揮をする部隊となりますと、相当大きな部隊ですね。
A そうですね。おおよそ200人ぐらいの隊員が居たと思います。
Q その頃の階級は何でしたか。
A 上等兵でした。セーラ服の水兵です。
Q どんなことをしていましたか。
A 任務は揚子江と付近のクリークの警備です。昼間、舟艇に5~6人が乗り込んで、揚子江や付近のクリークを巡回してました。クリークの浅くなっているところでは、舟艇が速度を落として、ゆっくり前進するんですが、時々、蒋介石軍や新四軍(注 当時、揚子江の東部流域には毛沢東のライバルの項英が指揮する約1万の共産軍部隊が活動していた。)のゲリラが岸から射撃して来ました。南京から離れたところでは宣撫工作が旨くいってなかったからです。警備区域は広く、蕪湖や無錫、遠くは漢口まで行きました。しかし、艦隊勤務と比べると、それはそれは楽な勤務でした。
Q 射撃を受けたりすることがあっても、楽だったんですか。
A こちらも用心しているから、射撃されても損害が出ることはありません。舟艇には機関銃が据えてありますので、直ちに反撃しますと相手は逃げて行きます。楽というのは、夜は陸上でゆっくり寝ることができますし、休日には外出できるからです。休みを利用して、皆で紫金山に車で行ったりもしました。内地の生活とほとんど変わりませんので、艦隊勤務の厳しさに比べれば本当に天国の様でした。
Q 蓑手さんや乗組員は舟艇でどんなことをされてましたか。
A 私が乗組んでいた舟艇は「なの2号」と言いまして、通常は6人乗り組んで巡回警備しておりました。艇長1名、警備兵2名、通信兵1名、機関員2名の計6名です。私は機関員ですから、いつも船の中に居ましたが、甲板にはだいたい4人位が居て、周囲を警戒してました。たまに宣撫工作をやりましたが、その時は宣撫工作員と通訳が乗り組んで来ました。宣撫工作が十分でない部落に行って、宣撫工作員と通訳が食料品をやるなどして村落を宣撫して回りました。
Q 南京には、いつ頃まで居られましたか。
A 昭和20年8月の終戦まで南京警備隊に所属してました。終戦になってからは舟艇を中国側に引き渡し、21年5月に内地に引き上げるまで、舟艇の操縦法、機械の取扱法や何やかやを蒋介石軍に指導しておりました。ですから、南京にはトータルして2年間居たことになります。
Q 終戦の時の階級は何でしたか。
A 20年の5月に24歳で兵曹に任官しました。
Q 南京における警備隊の所在地は何処でしたか。
A 警備隊本部は南京の城外でして、揚子江の川っぺたにあり、舟艇は本部近くの揚子江南岸の岸壁に接岸して泊めておりました。
Q 南京の街の様子は如何でしたか。
A 賑やかで平和な街でした。とても居心地が良くて、中国人の反日感情を感じたことはありませんし、内地に居るのと変りありませんでした。
Q 市民が殺される現場を見たことがありますか。そのような噂を聞いたことはありませんか。
A 殺される現場を見たことはありませんが、南京大虐殺の話を聞いたことはあります。
Q ほう、どのような話ですか。
A 宮崎出身の先輩で上等兵曹の人ですが、「中国人5~6人を並べて日本刀で首を斬った。」と言ってました。「斬られる時は、彼等も度胸があったよ。観念していて立派な最後だった。」と、沈痛な顔をして言ってました。年月はハッキリしませんが、確か昭和10~12年頃の話だと聞いたような気がします。
Q 中国人というのは市民ですか。市民を殺したんですか。
A いいえ、ハッキリしませんが、確かスパイと聞いたような気がします。
Q そこのところは大変重要なポイントでして、市民である中国人の首をはねたのか、軍人が市民の服装をしていたのをスパイとして殺したのか、どちらですか。
A 当時は、そんなことが重要だとは考えたこともございません。ですから、私は単純に、「先輩が何人もの中国人の首をはねた」とだけ思ってました。しかし、言われてみれば、先輩は確かに「蒋介石軍とか新四軍とかのスパイの首を斬った」と言ってました。
Q そうですか、そうであれば戦時国際法に違反している訳ではありませんので、別に虐殺ではありません。ただ細かく言えば、裁判をしたのか、しなかったのかとか、問題が全然ない訳でもありません。しかし、大局的な立場から言えば、非は相手側にあり、殺人が戦時国際法違反つまり虐殺であると国際的に非難されることはありません。
A エッ、そうですか。本当ですか。虐殺じゃないんですか。それを聞いて安心しました。私は長い間、このことが世に言う「南京大虐殺」の一環であろうと思ってました。先輩とは、もう連絡がなくなって随分経ちますが、死ぬまで気にされていたと聞いております。今日は、良い話を伺いました。
Q その他に、日本の兵隊が悪いことをしているという噂を聞いたことはありませんか。
A この他には、一切聞いたことがありません。私が居た頃は平穏でした。本当に平穏無事でした。城内でも、城外でも、平穏無事でした。
Q 蓑手さんは海軍ですが、陸軍の兵隊が中国人を殺したとか、悪いことをしているとか言うような噂を聞いたことはありませんか。
A ありません。一切ありません。もちろん、知識として「南京大虐殺」の話は知っておりますが、その当時聞いたのか、あるいは戦後になって聞いたのか、記憶が定かではありません。私には南京大虐殺の実態も解りません。
Q 南京市民の対日感情は如何でしたか。
A 市民の対日感情は大変良くて、私共も休日に外出して、市内の広場や公園で中国人の子供達と写真を撮ったり、こま回ししたり、仲良く遊びました。子供達も喜んで我々と一緒に遊びましたよ。また南京以外の田舎でも、農婦が船に卵を売りに来て、それを買いましたし、「また来てくれ」と言って、こちらが持っているタオルをやったりもしました。日本軍を恐れているなら、そんな風に近づかないと思いますよ。
Q 世に言う「南京大虐殺」とは、昭和12年12月に陸軍が南京城壁を攻略して、それから6ヵ月余にわたり大勢の市民を虐殺したと言うんですが、これについてどう思われますか。
A それはあり得ないと思います。いくらそれから6年経ってるとはいえ、当時の南京市民の対日感情の良さから考えて、有り得ないことだと思います。街は平穏でしたし、南京市民の日本軍への悪い感情を感じたことは一度もありません。話に聞いたこともありません。また私共は、宣撫工作を行うにあたり、上司から常々、「住民を殺すな。住民を殺してはいけない」と命ぜられ、指導を受けていました。それは陸軍だって同じじゃないでしょうか。
Q その他、言い残したこととか、何かございませんか。
A 今日は遠いところを本当にご苦労様でした。日本のお国のために先生の研究の成果が上がるように祈ってます。どうか頑張って下さい。私でお役に立つことがあるなら何なりと仰って下さい。
Q 今日は良い話を聞かせていただきました。体調が十分ではないと伺っておりましたのに、ご無理をお願いして、長時間、取材に応じていただきありがとうございました。どうか、いつまでもお元気でお過ごし下さい。

(続く)