南京事件関連証言集(第3回/全3回)

平成29年12月10日
中垣 秀夫

3 西住戦車長の軍事郵便
[解説]
 ここに収録する資料は、陥落間もない南京から、西住小次郎中尉が肉親に宛てた私信である。
 西住中尉(陸士46期)は久留米戦車第一連隊の小隊長として支那事変に従軍し、昭和13年5月17日に徐州会戦で壮烈な戦死を遂げ、大尉に昇進した。
 上海戦以来、多くの戦死者が出るなか、西往中尉が事変後初めて「軍神」とされたのは、平素から将兵の鏡として人格的にも崇高な軍人であったからであろう。西住中尉の誠実な人柄は、実弟宛てに「機会があったらロシア語か蒙古語の研究しておけば、役立つことがありましょう」とか、「月給の余りは貯金するか家に送るようにした方がよい。(金は自ら)余さなければ余りません」と書き送った言葉にも表れている。昭和15年には松竹が『西住戦車長伝』を映画化し、西住大尉は国民的英雄となった。なお、当時、兵科としての戦車はなく、戦車部隊は歩兵兵科の一部であった。そのため、差出人としては歩兵中尉の意味で「歩中尉」と書かれている。
 西住中尉の私信は、日本軍が南京を占領した昭和12年12月26日から、お正月を挟んで翌年3月20日までの間に、ご母堂と実弟に宛てて出されたものである。奇しくも、日本軍が南京を占領した12月13日から3カ月間、大虐殺と強姦と略奪を繰り返したといわれる期間とほぼ同時期にあたる。後世、よもや「南京大虐殺」が問題になるとは知るよしもなかったため、「南京虐殺はない」との便りはないものの、少なくとも西住中尉の私信から伝わってくるのは、南京大虐殺など想像すらできない、穏やかな南京の様子や雰囲気である。
 たとえば、南京陥落の12月13日からおよそ2週間後にご母堂に宛てた手紙は、「町は全部まだ店はありませんが、避難民等も逐次帰って来る様です」と伝えている。大虐殺が進行していたのであれば、「避難民達が逐次帰って来る」はずもなかったであろう。そして、1月6日の葉書にも、「南京の町も次第に清潔になり、避難民も帰って参ります」と同じことを記している。
 更に1月29日の実弟宛の葉書には、「此所も治安が回復され、店も少し出来、日用品、飲食物に不自由を感じません」とあり、陥落から3ケ月後の3月20日には、「當方面も暖かくなり、桜が咲いております。町もめきめき復興し、多数の支那人が復帰して業に就いております」と記されている。日を追うごとに市民が増え、町が復興して様子が目に見えるようである。
 西住中尉が大虐殺や略奪の横行する市中にあったのであれば、はたして「暖かくなって桜が咲きました」とか、「次に小包を送る時は塩辛と褌(ふんどし)をお願いします」などといった、のんびりしたことが書けただろうか。このほかにも私信の随所から、穏やかな雰囲気が伝わってきて、南京の街が殺伐としていたとはとても思えない。
 もちろん、この史料は、さまざまな読み方ができるであろう。いずれにしても、当時の南京の様子を直接伝える貴重な記録と言える。
 この西住中尉の私信は、東中野修道教授が久留米の幹部候補生学校や北熊本駐屯地防衛資料館において発掘し、岩田圭二理事が判読し難い墨字を判読して活字化された。両先生に心からの敬意と感謝を表したい。また本資料の公開をご快諾くださった熊本市在住の西住中尉の実弟・西住敬事氏にも、心からの謝意を申し上げたい。発掘から資料公開までの間、お力添えをいただいた熊本県郷友会中村達雄会長、並びに軍事史研究家増田民男氏にも、改めて感謝申し上げる次第である。
 南京事件の真相に迫るには、当時の記録や証言の発掘が欠かせない。日の目を見ずに眠っている資料がまだどこかにあるのではないか、今後も出て来ることを願いながら筆をおくこととする。(以上、『南京事件研究の最前線』平成十九年版より抜粋。 展転社 2000円) 

(1) 第1信
 ご母堂の西住チヨ様宛の12月26日付軍事郵便(親展)であり、発信は上海派遣軍司令部付細見部隊高橋隊 歩中尉 西住小次郎となっている。

 當地も大分寒くなり、朝など真白に霜が置く様になりました。
 其の後、皆様、御変わりありませんか、御尋ね致します。
 年内も後数日となり、御多忙の事と存じます。今、明日は餅搗き位かも知れんと想像致して居ります。當地に居るとさっぱり年末の様な気が致しません。猛烈な追撃戦で手紙とか小包とか、一向遅れて到着しません。何時か腹巻、靴下を送ったとの事でしたが、まだ到着して居りません。其の内に手紙などもどんどん来る様になりましょう。
 十二月十二日、南京に到着以来ずっと南京城内に居ります。
 南京は敵の首都だけに、東京程はありませんが立派な町です。建物と云い、道路と言い、立派です。又、附近には所謂紫金山、其の他の山々、玄武湖等もあり、風光も仲々いい様です。住むのにもよさそうな所です。
 今、我々の居る所は中央大学とて排日教育最も盛んだった大学です。立派な建物です。一部爆撃された所もありますが、部屋など立派です。今は内地の兵営以上にきちんとした生活をやって居ります。私の部屋も机、椅子、其の他寝台、調度品、絶てきれいに飾り、内地では出来ぬ様式にして居ります。全員寝台に寝、ストープ等もあります。
 只、電燈と水道が今のところこわれてありません。ローソクばかりです。
 近い内に汽車も通じ、電燈もつきましょう。町は全部まだ店はありませんが、避難民等も逐次帰って来る様です。
 正月は南京で迎える様になる事と存じます。此の手紙も恐らく正月の五、六日頃しか着かぬと存じます。
 既に小包等御送りになって居るかも知れませんが、今度送られる時は「塩から」の様なおかずになるもの、褌等を御願いします。
 宛名は手紙の裏面の通り願います。
 ずっと前送りました為替一〇〇円御受け取りになりましたか。今度は更に不必要な金がありま したので、三〇〇円だけ為替で送って置きました。御受け取りになったら至急御知らせ願います。
 東京の兄上様もいろいろ費用が入用の事と存じますから、送って戴いたら好都合と存じます。先は近況御知らせまで。
 皆様によろしく御傳え下さいませ。石原やら近所の方々にもよろしく御傳え下さい。
 敬事にも私の状態を知らせて下さい。

(2) 第2信
 1月6日付、宛先・発信地は等は同じ。

 新年御目出度うございます。
 皆様一同御元気で新年を迎えられた事と存じます。私も御蔭で極めて元気で。
 南京に於いて正月を迎えました。南京の町も次第に清潔になり、避難民も帰って参ります。
 町には兵隊の為に酒保(中垣注:売店)、ㇱルコ屋、オデン屋の簡単なものが出来たそうです。
 上海~南京間の汽車も通い始めて居ります。水道も全部来る様になり、便利になりました。まだ電燈は町の一部分しかつきませんが、近い内にくる様になりましょう。
 今の気候は内地と同じ位か少し寒い位ですが、寒いと云う事はありません。
 只今、次の戦の準備をして居ります。日用品、菓子類等も手に入ります。ミルクやコーヒーなども持って居ります。
 小包等はまだ一つも参りません。あっちこっちに迷って居るのでしょう。
 近所にも年賀状等一つも出しませんからよろしく御傳え下さいませ。
 先は新年の御慶び旁々近況御知らせまで。

(3) 第3信
 満州國濱江省海倫県系城内の北安電業股分有限公司海倫支店で働く弟の西住敬事氏に充てた年賀状であり、発信地は上海派遣軍気付細見部隊高崎隊。

謹賀新年
 またたけば、まつ毛の凍りつく満州の正月も仲々殺風景なところに味があるだろう。海倫は今頃恐らく平気で夜は四〇度近く下がる事だろう。どんな所に起居して居られるか知らぬが、多分ペーチカはある事と思う。ペーチカ情緒も仲々いいものです。
 私も相変わらず元気です。今、敵の〇〇に居て、次期作戦の準備をしています。最近では電気、水道、汽車等も通じ、不自由ありません。戦斗三○回、五回負傷したが、皆軽傷、何のことはなく、郷里の方も皆元気らしい。
 最近、月給も上った由、結構です。大いに勉強されん事を祈ります。又一方、支那語等は研究して居られる事と思いますが、現地で研究が充分だから賓際に自由に使える様に努力を望みます。ロスケあたりも居りますまいが、機会があったら口語か蒙古語か研究しておけば、役に立つ事がありましょう。時々はそっちの様子も知らしてもらいたい。特に生活状態、町の状態等は面白いと思う。姉上から慰問品を送る様にたのまれたと手紙が来ていたが、誠にありがとう。月給の餘りは貯金するか家に送る様にした方がよい。餘さねば餘りません。先は近況御知らせまで。

(4) 第4信
 同じく弟の敬事氏に充てた1月29日付の軍事郵便であり、宛先・発信地は第3信と同じ。

 其の後御変わりもない事と思う。
 北満も随分温度が低くなった事だろう。私も益々元気だから御安心下さい。十一月十九日附の手紙、今日受け取った。年賀状の方が早くつきました。
 私は今、敵の〇〇である○京に居ります。負傷は軽傷だったので第一線を去る事なく、運よく南京攻撃にも参加しました。各所の負傷は其の痕跡だけがわずかに残って居ります。此所も治安が回復され、店も少し出来、日用品、飲食物に不自由を感じません。電気、水道、汽車も通じ、ラジオを聞けます。
 体の方は楽で困る位です。寫眞機でも買おうかと思って居ます。内地出発の時、寫眞機を持って出たら、戦斗の實況が撮れたのにと考える時もあります。先日撮ってもらった寫眞があるから御送りする。西村さんには何れ御礼状でも出そうか。よろしく御傳え下さい。
 先は返事かたがた近況御知らせまで。

(5) 第5信
 3月20日付の軍事郵便であり、宛先・発信地は第4信と同じ。

 先日は御手紙ありがとう。そちらの手紙は約二週間餘りでつきました。それは早い方です。北満も次第に暖かくなった頃の□□等が一席に揃う北満の気分は何とも云えません。當方面も廣いのは廣いが、部落はせせこませく散在して、内地の感があり、北満の雄大さはありません。やっぱり果しない廣野の方が雄大で気持がいゝ様です。赤い夕陽も満州でなければ駄目です。
 當地も暖かくなり、桜が咲いております。町もめきめき復興し、多数の支那人が復帰して業に就いております。私も御蔭で元気です。そちらの手紙は全部ついて居ります。
 畝本中尉(船橋の下宿に背廣で来た人)とは當地に於いて数回会いました。こちらに来て居ります大隈中尉は前線に出て居ります。多田中尉(同じ下宿に居た人)は公主嶺の村井部隊に居ります。
 兄上様は上海の軍、特務部に勤めて居ります。次子姉上達も十七日に内地を出発されたそうです。先は近況御知らせします。自分の写眞機で撮ったものがありますから、二枚封入します。
 原像も焼付も自分でやったものです。此所でおぼえました。

[中垣注] 唐突かも知れないが、今年、国内を嵐のように吹き抜けた森友学園と加計学園の問題を見ていて、南京事件を連想した。野党は政府に「首相や夫人が無関係なら、それを証明せよ」と激しく迫った。無かったことの証明は、昔から“悪魔の証明”と言われて「証明することが非常に困難」なのである。何故なら、無かったのだから記録も写真も、証拠が何も残っていないのである。そういう意味では、ここに挙げた西住戦車長の私信にも、当然ながら「南京で虐殺は一切起こっていない」とは書かれていない。ただ穏やかな街の様子を伝えているだけである。従って、無かったことの直接的な証拠にはならないが、人間には連想する力やそれを膨らませる能力がある。今後とも、このような傍証を積み重ねてまいりたい。



4 広東共産党事件に関する写真
[解説]
 昭和2年、広島出身の前田耕作氏は、広東市沙面居留民地に滞在していた折に、中国人同士の殺害場面に遭遇し、その余りの凄惨さに衝撃を受け、その現場を同道していた森氏に写真撮影させた。前田氏は、後日、アルバム作成に当たり、当時の状況について説明文を書き、これも撮影してアルバムの冒頭に張り付けた。その説明文によれば、昭和2年11月10日朝、共産党軍が広東市を占領した際に、放火、掠奪、強姦、殺人等あらゆる悪行の限りを尽くした。
 ところが13日の朝、李福林の軍隊が逆襲し、共産軍を全滅させた。当時の共産党軍の行動に対する広東市民の恨みは深く、市民は婦人兵を含む共産党軍約2,500余名を惨殺した。この際、女性の性器を露にするとか、性器に棒を突き立てるといったような野蛮な行為が行なわれた。
 かかる風習は日本には一切ないところから、これを目撃した前田氏が大きな衝撃を受け、撮影して記録に残したのである。アルバムを見ると、いずれの写真も、日本人には目を背けたくなるような残酷な情景ばかりであるが、見物している住民の様子から推察して、当時の中国では、そのような蛮行が普段に行なわれていたのではないかと想像される。
 ちなみに、中国における残酷な公開処刑については、ユン・チアン著の『マオ~誰も知らなかった毛沢東』にしばしば出てくる。更に、共産党軍への地元民の反撃(上巻111頁)及びその際に女性兵士の膣に木の杭を突き立て…(上巻253頁)等の記述も見られる。
 この写真類は、南京事件に先立つ10年も前の出来事であるが、中国における憎悪の表現法としてシンボリックである。日本人には想像すらできない出来事である。戦後60年を経て、このような保存状態の良い写真が一冊のアルバムという形で、世の中に出てきたことは、南京事件研究者の一人として同慶にたえない。たとえばの話であるが、もし今回の写真類を中国側や大虐殺推進派の誰かが入手したとすれば、恐らく写真の一枚一枚に適当なキャプションが付けられ、「南京大虐殺の証拠写真」として流布されたに違いない。
 ご家族の話によれば、亡くなられた前田耕作氏は大変な写真愛好家で、自宅に暗室があり、自から現像していたとの由である。このため、貴重な写真が散逸することなく、今日に伝わったものと思われる。前田耕作氏のご冥福をお祈りするとともに、快く写真を取材させていただいたご子息の前田修治氏に心から感謝する。あわせて情報提供を始め、私有車での案内や相手への紹介等、数々の便宜を図っていただいたRCC中国放送の鍵本文吾氏、渡部鉀藏・律子ご夫妻、寺岡沙津さんの諸氏にも心から感謝申し上げる。ちなみに、鍵本氏は「畝元正巳(陸士46期)先生の生前、南京事件について先生に取材をしたことがある」との由であった。なお、後日、伺ったところでは、取材の際には、寝たきりとは言え、意識はしっかりされていた前田修治氏が、その後の交渉で写真を公表することを了承されて間もなく、日を置かずしてお亡くなりになられたとの由である。心からご冥福をお祈りしたい。
 なお、本件は「写真に見る広東共産党事件」として南京学会会報誌(『南京事件研究の最前線』平成十九年版 展転社 2000円)に掲載されたものの、「学会誌であるので、残酷な写真や性的な写真は掲載不可」との理由で、肝心の写真は黒塗りにされてしまった。

 参考までに、写真は黒塗りにされたものの、学会会報誌に掲載された「広東共産党事件に関する写真」の説明文は次のとおり。(番号は写真の番号と順番)
① アルバムの表紙。アルバムは横24センチメートル、縦16センチメートルの大きさで、黒の台紙に26枚の写真が貼り付けてあった。冒頭に事件全般の説明文の写真があるものの、個々の写真には説明は付いていない。
② アルバム冒頭に貼り付けてあった事件の説明文。内容は以下のとおり。
  南支那広東ニ於テ 昭和2年11月10日朝 張發奎軍隊 江西省方面ニ出動ニ際シ、米賀龍、粟庭等共産軍 広東ヲ襲撃シ占領ス。同時ニ市内ニ放火、掠奪、強姦、殺人
  等総ユル雑悪ノ限リヲ尽ス。13日二至リ 朝 河南ヨリ 李福林軍隊逆襲シ来タリ
  共産党軍ヲ数時間ノ内二全滅セリ。当時 共産党軍ノ行動ニ対シ広東市民ハ其ノ恨ミ骨髄ニ撤シ 左ノ写真ノ如ク 約2500余名ノ共産軍・及婦人軍ヲ全部取リ押サエ即日銃殺、惨殺ス。其ノ残酷ナルコトハ………。
     (広東市沙面居留民地 前田洋行滞在中 森氏同道写撮ス。 耕作)
③ 街の中の死体とそれを見守る住民。スケールは参考のため撮影時に置いたものである。
④ 野原に累々と横たわる死体
⑤&⑥ 街の広場に累々と横たわる死体。広場は別の場所と思われる。
⑦&⑧ 街の中の死体を片付ける様子
⑨&⑩ 女性兵士の性器を暴露した写真。被写体は別の場所の別の人物
⑪ 女性兵士(右手前の後ろ向きの人物)の暴露した性器を見守る住民
⑫&⑬ 女性兵士の性器に棒を突きたてた写真。被写体は別の場所の別の人物

(中垣注) 『マオ~誰も知らなかった毛沢東』 ユン・チアン著  土屋京子訳
  2005年初版  講談社  上下各2500円
 ちなみに、戦後(1952年)生まれのユン・チアン(中国名:張戎)女史は「南京大虐殺が本当にあった」と信じているので、同書の中で「毛沢東が生涯一度も南京大虐殺で日本を非難していないのはケシカラン」と非難している。反対に我々虐殺否定派は「多くの語録を出している毛沢東が生涯一度も南京大虐殺に言及していないことは無かったことの証明だ」と考えている。