我が国の戦没者の慰霊・顕彰の課題について

平成30年2月14日
山下 輝男

1 始めに
 本年(2018年)は、明治維新150年であり、それに関連する諸行事が種々計画されているようだが、それらに欠けたるものがあると感じざるを得ない。明治維新を日本近代化の夜明けと捉えることに異論はないが、その華やかさの対局には、国難に殉じた多くの将兵の存在があり、斯かる戦没将兵に対する慰霊・追悼事業が軽視されているようだ。
 過去の戦争に於いて、尊い生命を捧げられた戦没者に対する慰霊は、国家としての極めて重要な義務である。然しながら、その国家の責務が十分に果たされているとは云い難い。
 戦没者の国家的祭祀、軍用墓地或いは忠霊碑や忠魂碑について、今一度回顧し、在りうべき方向を検討することは今日的な課題であると考える。本稿はそのような観点から概括的に取りまとめたものである。

2 戦没者に対する儀礼(戦死者の祭祀)に関する近代日本の対応
(1)3つの儀礼の方向
 明治維新や西南戦争等の内戦、日清・日露戦争、第一世界大戦やその後の大東亜戦争を通じて、数多の将兵や市民が戦陣に斃れた。近代日本はこれら戦没者を如何に儀礼すべきかを模索し、その方向性は次の3つの儀礼を確立した。
 その第一は、戊辰戦争における戦没者の招魂を担当する東京招魂社とそれの発展した靖国神社、並びに各府県護国神社における戦没者祭祀という、云わば国家的な戦死者の祭祀である。
 第二の方向性は、陸軍墓地や海軍墓地という軍隊内部にける慰霊顕彰施設の創設である。
 第三の方向性は、地域社会における戦没者の慰霊顕彰である。忠魂碑や忠霊塔等々の形で建立されている。


(2)戦没者儀礼の多様な語彙の整理が必要?
 戦死者に対する儀礼を表す語彙は多岐にわたり、その意味合いがまた微妙に異なっているように思える。例えば、慰霊、顕彰、追悼、供養、鎮魂等々枚挙に暇ない。 ア 慰霊とは、一般に「死者の霊魂をなぐさめること」の意味で広く使われている。しかしこの用語には「人は死んでも霊魂が存在し、しかも生きている人間がそれを慰め得る」という一種の宗教的見解を含んでいるとされる。
 “霊を慰める”の、「慰める」を如何に解釈すべきなのか、戦陣に斃れたことが無念であった、或いは犠牲になったからその霊を慰めると云う意味なのか?その思いをここに留めないで安らかに眠って欲しいと云うのが慰霊なのだろう。が、抑々戦没者は犠牲になったのか?犠牲というと無益な死であるとの意味が言外にあるような気がしてならぬ。戦死された方々の死が無益・無意味なものであろう筈がない。
イ 「追悼」とは、「死者の生前を偲んで、悲しみにひたること」「弔う」と辞書にはある。特定の宗教的立場に立たない用語であるとされる。確かに、8月15日に挙行される「全国戦没者追悼式」は、追悼式であって慰霊祭ではない所に苦心があるのだろうか?
ウ その他、一寸関連事項を
①浄土真宗では「追悼」の語句を使用すると云う。
②慰霊と追悼は一般的には同義と見做すとの説がある。
③鎮魂:戦死者の無念さ・愁嘆さ・怒りを鎮める。
④追悼は、通常死と異常死の両者ともに該当する。
⑤供養:死者の冥福を祈って回向する。
これらを追求し始めたら、迷宮に入り込みそうである。


(3)死と儀礼について
ア 死には、「通常死」と「その他の死」がある。通常死の場合には夫々の社会の伝統的な葬送儀礼により死者の肉体と霊魂は落ち着くべきところに落ち着くものとされる。
 事件や事故による死亡或いは戦死者等がその他の死に該当し、その他の死の場合には通常の葬送儀礼とは異なる儀礼が必要とされる。
 事件や事故の場合には、犠牲となった者の霊は無念極まりないので、慰霊祭が執り行われるのは無理なく理解できる。
 では、戦時における将兵の戦死等はどうか?国家の命により戦時に赴いて斃れたのであり、その死に対しては、国家としての適切な葬儀、墓地及び追悼施設の設営が当然準備されるべきであるが、その具体策はその国家の伝統や死生観・祖先観により多種多様である。
イ 日本における死者祭祀
(ア)一般に死者の霊魂を「神」と捉え祭祀することは、古代から近世までの日本・東アジアの宗教的な習俗であった。
(イ)日本人・民族の祖先観・死生観
 祖先の霊をある時は仏として尊び、或る時は神として崇めるのが日本人の祖先観である。
(ウ)御霊信仰と平田篤胤
 日本には、御霊信仰がある。人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり、非業の死を遂げた人間の「怨霊」の仕業と見做して畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。即ち、「御霊信仰」によって、戦没将兵を神として祀るという信仰と習俗が出来たとする説がある。
 他方には、平田篤胤の説いた「御国の御民」の思想とそれに基づく御霊信仰なるものに源流をみる説がある。(以下「民俗学からみる慰霊と追悼」(新谷尚紀氏)から抜粋)「御国の御民」の思想とは、“天皇を神の子孫として現津御神と位置付ける一方で、一般の人々をもまた神の子孫に他ならないとする考え方”である。(中略)この延長線上に、伝統的な仏教式の葬儀による死者の供養と成仏という方式とは異なる、神道式の葬儀、神葬祭による死者の御霊が祖霊としてさらには神として祀られるという方式が・・定式化され・・
 村社会レベルでの仏教式供養成仏と国家と軍隊レベルでの神道式英霊祭祀といういわばダブルスタンダードが相反的でありながら、それが同時に相補的に存在したのであり、それこそが近代国民国家における死者儀礼の特徴であった。(抜粋終り)
ウ 戦没将兵に対する儀礼
(ア)戦没将兵等に対する儀礼を如何に行うかは、須らくその国家自身の問題である。
(イ)戦没将兵の慰霊・顕彰等は、軍国主義の象徴とか復古主義とかの批判があるが、仮に戦意高揚の一環として英霊崇敬が推奨されたことが非難されるとしても、それは、手段・方法論としてのそれが誤ったと云うだけであり、戦没将兵に対する感謝と敬意は忘れてはならないことである。目的・趣旨の重要性は聊かも損なわれるものではない。我が国の議論はためにする議論が多く、本質論から外れる。
(ウ)“靖国で合おう”を合言葉として
 特に大東亜戦争においては、出征将兵は「靖国で合おう」を固く誓い、合言葉にして共に戦い、本邦に帰還したら先ず戦友に会うために靖国神社に詣でて、静かに戦友と語らってきた。それが、靖国神社であった。


(4)英霊
 英霊とは、死者、特に戦死者の霊を敬っていう美称語。また、英華秀霊の気の集まっている人の意で、才能のある人、英才を指す。
 幕末水戸藩藩士、水戸学藤田派の学者である藤田東湖(1806~1855)の漢詩「和文天祥正気歌」の一節「英霊未ダ嘗テ泯ビズ 長ク天地ノ間ニ在リ」(えいれいいまだかってほろびず ながくてんちのかんにあり)が幕末志士の間で広まり、特に日露戦争以降、特に国に殉じた人々、勇戦忠死の英霊という形で一般化することとなったとされる。特に靖国神社誌が祭神を「英霊」と呼んで以降、靖国神社と英霊は不可分の関係となった。
 我が国の今日があるのは、苛烈を極めた戦いの中で、多くの将兵が家族を思い、祖国の安寧と民族の幸せを念じつつ戦場に赴き、雄々しく戦い、散華されたその礎があったればこそである。
 これら戦禍の犠牲となった市民をも含む250万に近い英霊のお陰で、今日のわが国の平和と繁栄があることに思いを致す時、戦没者に対し敬意と感謝の念を忘れることなく慰霊の誠を捧げ、それを次の世代に伝えていくことこそ、今に生きる私達国民の責務であろう。

3 招魂社から靖国神社、護国神社
(1)招魂祭と招魂社、東京招魂社の創建
 1863年(文久3)に長州藩の高杉晋作は、奇兵隊の賛同を得て隊員共同の櫻山招魂場(現・櫻山神社)を設置し、招魂場で藩による招魂祭が営まれた。長州藩は領内各郡に招魂社を1ヶ所ずつ設置し、16ヶ所の招魂場では、春秋に祭典が行われた。この長州藩の招魂社の発想は、その後全国に広がった。
 幕末~明治維新の激動期に死んだ多数の犠牲者を慰霊する意味で、明治新政府は招魂社を設立した。初めは、明治1 (1868) 年京都東山に設けられた。が、明治天皇の思し召しにより、東京にも招魂社創建することとなった。
 東京招魂社の候補地に上野寛永寺も挙がったが、見送られた。次いで九段坂上三番町通元歩兵屯地跡が社地の候補に挙がった。明治2年6月12日、検分の結果、大村益次郎等はこの地に招魂社を建てるべきと上奏した。
 1872(明治5)年、東京招魂社が東京九段上に建てられて、各地から合祀され,1879(明治12)年靖国神社と改称され,別格官幣社としてその後の内乱,外征の戦死者に対する国家的合祀社となった。同名の神社がその後各地にでき,1939年護国神社に改称された。


(2)東京招魂社の創建
 当時、歩兵屯地跡は東京府が所有していたが、軍務局は九段の社殿建立予定地を東京府から譲り受けた。
明治2年6月19日、招魂社の仮本殿、拝殿が起工。
明治2年6月28日、明治天皇は皇居神祇官代にて祭典を執行。
明治2年6月29日午後2時、霊招の式が行われた。
 こうして明治2年6月29日、九段に「東京招魂社」が鎮座した。


(3)東京招魂社への合祀
ア 明治5年5月、東京招魂社の本殿が造営され、第1回合祀祭では戦没者3588名が合祀された。
イ 幕末冤死者、台湾征討戦没者、西南戦争戦没者等が逐次に合祀され、また合祀枠の拡大も図られた。


(4)明治12年 別格官幣社「靖國神社」の創建
 国家の忠臣の御霊を祀る神社のなかで、特に由緒ある神社は「別格官幣社」(全28社)の社格を受けている。靖国神社の目的は唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にある。


(5)護国神社
 全国の招魂社は、東京招魂社の別格官幣者靖国神社への改編に併せて、1939(昭和14)年に招魂社から「護国神社」に改称された。
 戦前は内務省によって管轄されていたが、戦後は独立の宗教法人となった。指定護国神社は東京都と神奈川県を除く道府県に建立され、その道府県出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神としている。


(6)靖国神社の現在の合祀数
 国難に際し、国家防衛のために亡くなられた方々の御霊が祀られ、その数は、246万6千余に及ぶ。祀られているのは軍人ばかりでなく、従軍看護婦や女学生、学徒動員中に亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間人も数多く含まれている。
 身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られている。

4 陸・海軍墓地について
(1)概要
 陸軍墓地・海軍墓地を総称して軍用墓地という。陸軍は、陸軍埋葬地、後に陸軍墓地と呼び、海軍は一貫して海軍葬儀場と呼ぶ。両者の総称については明確なものはないが、原田敬一氏の提起に従い、「軍用墓地」と呼ぶ。
 軍用墓地は、平時の軍人を埋葬する墓地として出発したが、その後の戦争によって戦没者を埋葬する墓地ともなり、様々な追悼行事が行われた。
 「陸軍墓地・海軍墓地・戦争遺跡そして靖国神社参拝」
http://nippon-gokoku.sakura.ne.jp/bochi.html)によれば、明治4年に大阪真田山に最初の陸軍墓地が設置され、以後全国各地に陸軍墓地が造られ、終戦時には80ヶ所以上が存在した。原田敬一氏の調査資料では陸軍墓地68ヶ所となっている。海軍墓地は7ヶ所又は8ヶ所(改葬前の墓地を含む)である。


(2)管理について
 戦前は、陸・海軍省(師団や鎮守府)が厳重に管理し、清掃も行き届いていたとされる。終戦に伴い、陸海軍所属の土地、施設等一切の国有財産は大蔵省に引き継がれたが、陸海軍省の廃止に伴い、軍用墓地の管理をどうするかが課題となった。
 廃止に先立ち、陸軍墓地は厚生省に移管することとなった。昭和21年6月29日付の通達によれば、『旧軍用墓地は都道府県または地元市町村に無償貸与するものとする。維持管理祭祀は、地方の実情に応じ都道府県又は当該地方長官の承認を受け市町村、宗教団体、遺族会等において行ふものとする。』とされた。
 このように、都道府県に丸投げされた軍用墓地の維持管理であるが、陸軍墓地の多くは管理する者が居なくなり、墓地は荒れていると云われる。一方、海軍墓地は何処もよく整備されている。
 務台俊介衆議院議員のオフィシャルサイトの記事
https://www.mutai-shunsuke.jp/policy270.html)旧陸軍墓地管理の課題について述べている。
 同様記事「荒廃する軍人墓地」 (http://blue-black-osaka.hatenablog.com/entry/20090511/1242100323


(3)動き出した軍人墓地の管理??
 2009年(平成21年)4月24日、参議院決算委員会において衛藤晟一参議院議員が 質問に立ち、戦没者追悼についての一切の法令、制度が破壊された結果、明治維新から日清・日露、大東亜戦争に至る国内82ヶ所の軍人墓地の管理は地方自治体に丸投げされた状態で、その多くが荒廃していることを指摘。改めて国家として管理すべきではないかと追求した。舛添厚労大臣は、「大きな意味での戦後処理での一環ですから、これは関係省庁と連携を取りながら、国の責任としてきちんと管理していきたいと思っております」と応えた。
 然し残念ながら、大臣の明言にも拘らず、軍用墓地の維持管理が改められたとの報に接していない。小生のみが寡聞にして知らぬのだと信じたいが・・


(4)陸軍墓地で行われた慰霊祭に関する最近の記事
ア 陸軍墓地で鎮魂の「万灯会」墓碑5100基にろうそく 朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASK8G6QJNK8GPTIL02J.html 2017/8/17

イ 我が国最大の旧陸軍墓地「真田山旧陸軍墓地」で慰霊祭 産経ニュース 
http://www.sankei.com/west/news/161030/wst1610300045-n1.html 2017/10/29

5 忠霊塔、忠魂碑等
(1)地域社会における戦没者の慰霊・顕彰の萌芽
 一般的には、戦没者の葬儀は市町村葬などの公葬の形態が採られ、戦没者は合同で慰霊されていた。この様な慰霊祭は、真言宗、浄土宗、曹洞宗等、各宗合同の形で行われていた。


(2)地方にける戦死者慰霊顕彰施設としての「忠魂碑」や「忠霊塔」は、一般に「ムラやマチの靖国」と言われる。
忠魂碑は戦死者の魂を祀り、忠霊塔は内部中央に納骨室を持つものである。表忠碑、弔魂碑、戦没者慰霊碑、平和記念碑とされるものもある。忠霊塔は、戦没者の納骨施設を包含するものであるので、陸海軍墓地と同様の墓地と見做す考え方もある。


(3)忠霊塔
 忠霊塔の本格的な建立は、日露戦争後の支那大陸での建設であり、内地においては死那事変を機にした昭和期に一般化した。特に、昭和期の忠霊塔の建設は、大日本忠霊塔顕彰会(昭和14年7月発足)によって推進された。忠霊塔の建設数は、道府県により、大きなばらつきがある由。
 大日本忠霊塔顕彰会は、一市町村一基、外地においては主要戦場への忠霊塔の建設を目標とした。日本が中国(満州を含む)に建設した忠霊塔は13基である。内10基は満州に、他は北京、上海、張家口に在る。
 近代における忠霊塔の始まりは、日清戦争の戦死者の遺骨を安置した護国寺忠霊塔であるとされる。忠霊塔の前身である忠霊堂は、明治35年(1902)秋の建立。明治27年から8年にかけての日清戦争で戦死された軍人の遺骨を埋葬。唐金の多宝塔を建立し、その前に拝殿として建てられた。
 全国に忠霊塔が如何ほど所在するのか、データは手元にはない。


(4)忠魂碑
 忠魂碑は、明治維新以降、日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した、地域出身の兵士の記念のために製作された記念碑である。日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられはしたが、忠魂碑として日本全国に普及していくのは日露戦争以後のことで,大正・昭和天皇の即位記念事業として、市町村の在郷軍人分会が献金を募集し,小学校の一角に建立したものが多い。
 碑の裏や下部に戦死者の氏名を刻み、表の碑銘碑文題号の揮毫者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行された。
 現在は神社の敷地などに多く残る。GHQは忠魂碑を単なる慰霊碑ではなく、国家主義や軍国主義的な意図を有するものと捉え、第二次世界大戦後にかなりの数を撤去させた。しかしまた、数は少ないが戦後に新しく設置されたものもある。
 戦後は自治体が忠魂碑に関して公金支出をすることは、憲法第20条および89条の定める政教分離原則上問題になる場合があり、箕面忠魂碑訴訟など、いくつかの憲法訴訟の判例がある。自衛隊は忠魂碑又は忠霊塔を宗教上の礼拝所とは解していないので、部隊参拝を容認している。


(5)現況について
ア 忠霊塔や忠魂碑が現在どの程度現存しているのかは、小生の調査能力不足もあり残念ながら不明である。
イ 小生が勤務した富士学校周辺の忠魂碑等
富士紀行(89) 深き鎮魂の誠を捧げよ! (H13/8/19記)
http://yamashita2.webcrow.jp/fuji089.pdf

ウ 新座市所在
因みに小生が居住する新座市には、6基の忠魂碑(彰忠碑)等がある。

6 戦没者祭祀に係る論点等
(1)靖国神社への合祀
ア 政教分離について
 靖国神社を国家による公的な慰霊施設として位置づけようとする運動があり、及びそれに付随して玉串奉納等の祭祀に関する寄付・奉納を政府・地方自治体が公的な支出によって行うことなどに関し、日本国憲法第20条が定める政教分離原則と抵触しないかとされた。反対論者は、公職にある者の公的な靖国神社参拝は、第20条第1項において禁止されている宗教団体に対する国家による特別の特権であると主張している。
 確かに、靖国神社は法律上は、単立宗教法人ではあるが、所謂宗教とは無縁の慰霊施設である。戦没者慰霊は日本の伝統に従って、神道式で行っているに過ぎない。

イ A級戦犯合祀に関して
 極東国際軍事裁判(東京裁判)において処刑されたA級戦犯とされた人々が、1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されていた事実が、1979(昭和54)年4月19日朝日新聞によって報道された。
 このことが、1995(平成7)年8月15日の日本社会党の村山富市内閣総理大臣(首相)談話(村山談話)に基づいた政府見解に反するとして問題視された。
 また、天皇の靖国神社親拝は昭和天皇による1975年(昭和50年)11月21日が最後となっている。この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を持っていたと指摘されている。
 慰霊・追悼を政治問題化させる愚を犯すべきではない。首相の靖国神社参拝は当初は何ら問題化していなかったが、これを外交カードとして使えることに気付いた中韓(告げ口をしたマスコミがあったが・・)は、これに飛びついた。内政干渉であると毅然と言うべきだ。
 抑々、東京裁判に正当性があるのかが問われねばならない。また、昭和28年8月3日は、戦犯の赦免に関する国会決議で名誉も回復され、法務死は戦死と見做(恩給法の改正)すとされており、戦死であり、合祀は全く問題はない。これらについては右も左も賛成している。ご遺族の同意云々の話もあるが、靖国神社への合祀は遺族の同意を必要とするものなのだろうか?

ウ 合祀に係る法廷闘争
 宗教上もしくは他の理由によって、靖国神社への合祀を拒否し、裁判所に提訴されるケールが多々ある。
①靖国神社合祀取消訴訟(2011年11月最高裁判決:棄却)
②沖縄靖国神社合祀取消訴訟(2012年6月最高裁判決)
③霊示簿からの氏名抹消等請求事件(2006年提訴 大阪地判平21.2.26)
④合祀絶止訴訟(2007年2月提訴 東京地判平18.5.25)
⑤靖国合祀イヤです訴訟 (2006年提訴)
⑥自衛官護国神社合祀事件(1988年6月最高裁判決)


(2)靖国神社参拝 (首相及び閣僚の参拝と中韓の反発)
 政治指導者の参拝をめぐっては2つの大きな論点がある。
 1つ目は、憲法が定める「政教分離」の原則に反するかどうかである。憲法20条は政府が宗教活動に関与することを禁止している。靖国神社という一宗教法人に首相が参拝することは宗教活動に当たるのではないかという指摘がある。
 この論争を回避するため、1975(昭和50)年、三木武夫首相は私人としての参拝であるとしてて、終戦記念日に靖国を参拝した。
 中曽根康弘首相は85(昭和60)年、宗教色を薄めて「公式参拝」に踏み切った。この参拝が注目を集めた結果、2つ目の論点が浮上した。
 2つ目の論点とは「A級戦犯の合祀」である。靖国神社は78(昭和58)年、A級戦犯28人のうち東条英機元首相ら14人を祀った。これに対して、A級戦犯を合祀した神社を首相が参拝するのは「侵略戦争を正当化する」と、中国や韓国が猛反発した。
こうして中曽根首相の公式参拝以来、首相や閣僚による靖国参拝は外交問題にもなってきた。
 不思議なのは、首相の伊勢神宮参拝が何ら問題とされないということだ。中韓からの反発がないということは即ち政教分離に係る問題ではないという証左だ。歴史認識問題だが、抑々歴史認識はその国自身の問題である。


(3)追悼懇の答申問題等
 2001(平成13)年8月13日、小泉首相が靖国神社に電撃参拝したことで内外の反対派の反発を招いたことを契機として、福田康夫官房長官(当時)が、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(追悼懇)」を設置した。追悼懇は翌年12月24日に報告書を提出した。その内容は、宗教性のない追悼と宗教性のある追悼を区分し、宗教性のない追悼のみを国立施設で行うべきであるとするなど、中途半端であった。
 また、靖国神社問題の解決策として、新しい「国立追悼施設」の在り方を検討することを目的として、2005(平成17)年11月9日に「国立追悼施設を考える会」が発足した。設立時の会長は山崎拓(自民党)、副会長は冬柴鐵三(公明党)及び鳩山由紀夫(民主党)である。
 形式としては特定の宗教によらない全国戦没者追悼式の常設、施設としては千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充案なども議論された。
 何れにしても、靖国神社とは別の無宗教の追悼施設の建設について、その後の議論は進展していない。


(4)軍用墓地や忠霊塔等の管理
 軍用墓地や忠魂碑・忠霊塔の管理責任が明確でなく、管理態勢も整っていない。よしんば、或る程度管理されているとしても、それは有志のボランティアによるものであり、国家の義務として、何をどうするのかを早急に検討する必要がある。


(5)将来における日本防衛作戦における戦死者の取り扱い
 幸いなことに、戦後70年余、日本自身の努力と日米安保によって、日本は平和を享受してきた。従って、自衛隊が日本防衛作戦に出動することもなく、一名の戦死者も出ていない。が、将来起きるかもしれない防衛出動における戦死者の祭祀を如何にすべきか、明確に定まっていない。また、自衛隊が海外任務を遂行する際に戦死にも匹敵するような死者が出た場合の祭祀はどうするのかも定まっていない。


(6)靖国神社の国家護持について  所謂「靖国神社法案」が、1969(昭和44)年から73年まで連続国会に付託されたが、廃案となって現在に至っている。
 この法案は、靖国神社を日本政府の管理下に移し、政府が英霊を慰める儀式・行事を行い、その役員の人事は国が関与し、経費の一部を国が負担及び補助する事を規定している。
 また、政教分離規定への抵触を防ぐため、靖国神社を宗教法人から特殊法人に変え、神道祭祀の形式において宗教色を薄めるとしている。このため、『この法律において「靖国神社」という名称を用いたのは、靖国神社の創建の由来に鑑みその名称を踏襲したのであつて、靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない。』(第2条)、また『靖国神社は、特定の教義をもち、信者の教化育成をする等宗教的活動をしてはならない。』(第5条)と規定している。
 左派からは、戦前復古であるとして反対論が展開された。他の宗教団体も国が靖国神社を特別視するものだとして反対論が表明された。
 一方、本案を支持する全国戦友会連合会や日本遺族会などは、「靖国神社国家護持」を嘆願する署名を2000万筆集めた。小生など、本法案の内容を見るに至極穏当妥当な案だと考える。速やかな成立を望みたい。


(7)未帰還戦没将兵の帰還を果たし、英霊を祀る努力を!
 大東亜戦争における海外戦没者数(硫黄島、沖縄、シベリア抑留戦死者を含む)は約240万人であり、平成29年3月31日現在の状況は下表の通りである。

海外戦没者概数 約240万人 収容遺骨概数 約127万柱
未収容遺骨概数 約113万柱
 うち[1]海没遺骨 約 30万柱
   [2]相手国事情により収容が困難な遺骨 約 23万柱
 上記[1]、[2]以外の未収容遺骨(最大) 約 60万柱

 (注1)遺骨収集事業による収容遺骨数  約34万柱
 (注2)千鳥ヶ淵戦没者墓苑納骨数    約36万柱
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido01/index.html

 収集可能な御遺骨数は、未だに約60万柱余である。国の命により戦地に赴き、家族そして日本のために、日本の将来を信じて、亡くなられた 多くの方々の霊は南方のジャングルや泥地で本邦への御帰還待ち望んでおられる。遺骨を速やかに収集し、国家として感謝の気持ちを込め、慰霊を行うべきである。
 戦没者の遺骨収集の推進に関する法律(平成28年法律第12号)が施行され、戦没者の遺骨収集の推進に関する基本的な計画(平成28年5月31日閣議決定)も策定された。遺骨収集を国の責任と明確にし、そのために集中期間を設定し、遺骨収集に任ずる指定法人として推進協会を設立した。
 一応の態勢は整ったのだが、60万柱の御遺骨の送還を期すには余りにも心許ない。
 尚、筆者も平成29年1月、硫黄島における遺骨収集に従事した。その状況は、拙稿JPSN記事「硫黄島 戦後未だ!」http://www.jpsn.org/report/iwo-to/を参照して頂きたい。
 参考までに:
未帰還戦没将兵は、「未帰還者に関する特別措置法」による戦時死亡宣告により、公務中の受傷罹病が原因で死亡したと見做され祭神たる資格を有している。が、御遺骨が未帰還であるのは、日本人の心情としては許し難いことである。


(8)戦没者に係る事業の総合一体的・組織的体制構築を!
 過去の戦争に於いて、尊い生命を捧げられた戦没者に対する慰霊は、国家として極めて重要な義務である。
 然しながら、その責務を果たすべき体制は余りにも脆弱である。厚労省が戦没者慰霊事業に係る幾つかの事業を担任しているが、脆弱であることは否めない。
 専従機関や実行組織を創設する必要があろう。戦没者慰霊を民に任せておくべきではない。勿論、民との適切な役割分担はあろうが、・・・

7 終わりに
 戦後70年を経て、国民意識も変化し、戦没者に対する祭祀に関する国民意識も次第に変わりつつあるように思える。ご遺族もご高齢になり、慰霊・追悼事業も逐次に困難となりつつあるのではないか。戦没者祭祀に係る国の責務と役割を明確にし、我が国独自の戦没者慰霊・追悼策を確立し、先人の想いを後世に伝えることが我々の責任ではなかろうか。最近、靖国神社に詣でる若い人が多いことに意を強くする。更にその輪が広がるべく然るべき措置が必要だろう。

(了)