憲法9条と自衛隊

平成30年5月8日
中垣 秀夫

 5月4日、新聞各紙は憲法記念日に行われた改憲派と護憲派の集会や主義・主張について報道した。その中では保守の中でも意見が分かれている「憲法9条の1、2項を残して自衛隊を明記する案」(安倍首相が提唱した案。以下A案と表記)と「2項を削除して国防軍を設置する案」(従前からの自民党改憲創案で、石破茂・元防衛大臣が強く主張している案。以下B案と表記)の議論が興味深かった。A案は火箱元陸幕長が支持しており、B案は冨澤偕行社理事長や古庄元海幕長が支持を表明している。身の回りの自衛官OBや自衛隊支持者もA案とB案に賛否が分れている。一方で、私としてはg(グラム・重さ)とCm(センチメートル・長さ)を比べているようで、何となく違和感があった。つまり同じ改憲案であっても、A案は実行の可能性からの提案であり、B案は必要性からの提案である。通常の政治活動や社会生活においては甲案と乙案が対立する場合、利害得失をとことん議論して、最終的には双方が少しずつ譲り合い、妥協した案に統一する。これが話し合いによる民主的解決法である。しかし、必要性と可能性の対立は「足して2で割る」訳に行かない。
 そこで、改めて憲法9条改正の必要性及びA案とB案の是非について、歴史的考察を含め、私なりの考えをまとめておくこととした。

1 憲法9条改正の必要性
 まず、改憲の必要性は前文、9条、緊急事態対処、教育への国家補助、参議院選の合区解消、発議条件の緩和等が叫ばれているが、その中でも9条に関する論争は、憲法改正の最大の焦点である。自民党は自主憲法制定が結党以来の党是であり、その中でも特に、「自衛隊・国防軍の明記」及びこれに伴う「軍事裁判所の設置」が憲法9条改正の主要な論点であった。
 平成6(1994)年、自民党と社会党の連立政権が誕生し、社会党党首の村山富市氏が首相になり、つまりは自衛隊の最高指揮官になったため、「自衛隊は合憲である」とするまで、同党の方針は「自衛隊も日米安保条約に基づく在日米軍も違憲」であった。従って、それからは一件落着したかというと、現在でもその流れをくむ福島瑞穂参議院議員は「自衛隊が合憲か違憲かは決めていない」と先祖返りしている 。また、安保法制制定の際に明らかになり、私も驚いたが、我が国の憲法学者の約8割が安保法制のみならず、その前提である自衛隊そのものを違憲としている。また安保法制についての徹底討論会で相手側の論客3人(比嘉共産党参議・中島元社民党代議士、鎌田民主党熊本県連代表)とも「安保法制の前提である自衛隊そのものが憲法違反」と発言した。かつて50以上年昔、私がまだ防大の学生であった頃、NHK教育TVの討論会に出演したことがあるが、その際も私以外の全学生が多少のニュアンスの違いはあっても「自衛隊は憲法違反だ」と主張した。
 一方最近では、東アジア情勢の緊迫と東日本震災や熊本地震への災害派遣等を経て、多くの国民が自衛隊を好意的に見ており、その支持率は8~9割にのぼっている。これは諸外国の軍隊と比べても、自衛隊の過去の支持率と比べても比類ないほどに高い支持である。
 このような情勢下にあって、特に私が自衛隊・国防軍を憲法に明記することの必要性を感じるのは、国防や自衛隊という国の在り方に関する基本的事項において「合憲か・違憲か」と揺れる状態は国家と国民にとって不幸だと思うからである。更に、実際に国を守る自衛官にとってはやりきれない状態である。このような状態は、自衛隊・自衛官の士気に悪影響を及ぼし、また国家に対する忠誠心・愛国心も育たない。
 私は現憲法制定時の経緯を知れば、論理的に自衛隊は現憲法でも充分に合憲と考えっているが、問題はそれを説明するのに多くの時間と労力が必要であり、しかも一般の人にとってはその説明が難渋過ぎることである。更に言えば、歴代の内閣や憲法学者が不勉強なため、合憲であるとの説明に不備があった。特に問題なのは、合憲を証明するのに多くの言葉を必要とするのに比べ、違憲論を唱える人々は「徴兵制になる」「戦争に巻き込まれる」「子供たちを戦場に送るな」等のように、短いフレーズで訴えることができ、更にそれを聞き、拡大する人々は論理的思考が苦手で、感情に訴え、感情的に判断・行動する傾向がある。こういった手合いには何を言っても無駄で、木石に向かって念仏を唱えるのと同じである。
 憲法9条に関わる改正・護憲の論点を整理しておくと、改憲の積極的な賛成者は、近隣諸国からの侵略からの防衛や抑止のために、また国際貢献のため海外派遣している自衛隊が円滑に活動できるようにするため、自衛隊・国防軍の保持を憲法に明記することにより、疑いなく合憲にしようと主張している。一方、9条改正反対を唱える人も詳細に見ると、①自衛隊の強化・軍拡につながるから反対、②防衛を標榜する先制攻撃(戦争)につながるから反対、③理屈もへったくれもなく自衛隊を廃止すべきという人、④現行憲法で十分であり現時点での改正は不要という人に分かれている。
 そういう意味では、与党である公明党は、こと9条に関しては前記④と同じ立場で、つまりは改憲反対の勢力に入る。ただ公明党は憲法制定時には想定してなかったプライバシー権や環境権などを付加する方向(いわゆる「加憲」)では改憲に賛成であり、明言はしていないものの、「9条の1、2項を残して自衛隊を明記するA案」は、理論上は加憲であり、反対の仕様がないと思われる。安倍首相が昨年の憲法記念日に唐突に、党内に諮らずにA案を提唱したのも公明党のかかる立場を忖度したからであり、それまでの自民党案では「改憲論議が少しも進捗しない」との焦燥感からである。安倍首相は今春の防大の卒業式において、自衛隊の最高指揮官として卒業生に訓辞をしたが、その中で、恐らく訓辞の原稿にはなかったと思われるが、ホームカミングデーのため卒業式に家族で参列していた19期生に対し、「皆さんは現職時代、心ない誹謗中傷を受けたかもしれませんが、そのような状況下において責務を完遂されましたことに対し、心から感謝と尊敬を捧げます」と言及している。安倍首相の改憲の動機付けを語るエピソードとして印象深い。ただし、残念なことに、公明党の支持母体である創価学会の中には「9条は現状のままで良く、自衛隊明記の加憲は時期尚早」の声が根強い。いずれにせよ、首相自身が言っているように、「改憲の議論を前進させるために一石を投じた」ことには間違いない。
 以上の考察を踏まえ、個人としては本来であれば、諸外国と同じ国防軍と明記して欲しいと思っている。防衛に携わった者なら、誰でもが求める信条であろう。しかし、これはゼロから新しく創る場合の方策であり、日本は民主主義国家及び法治国家が定着しており、現憲法が憲法を最高規範と定めている。憲法の規定に従えば、改憲には過半数の国民の支持を得なければならず、先ず改憲発議のためには両院で2/3の賛成が必要とされている。そうであれば、改憲案は多くの国民と2/3の衆参国会議員の支持を得なければならない。戦後から現在までの国会の勢力図を見てみると、2/3の賛成を得るのは極めて困難が伴う。特に参議院において、その傾向が顕著である。そうであれば、結論として、ベストではないが、今よりはベターで、かつ多くの支持を得られる改憲案でなければならず、現実主義的立場として、つまりは民主主義を全うするための妥協の産物として「9条の1、2項を残して自衛隊を明記するA案」を賛成に落ち着かざるを得ない。
 参考までに付言しておくが、日本は民主主義国家であるが、それは国民の過半数の支持が大前提であるけれども、もっと広い目で見れば、歴史的経緯と資源小国から、同時に諸外国の信頼、具体的には「法の安定性」と「政治の継続性」も求められる。日本は独裁国家や革命国家ではなく、万世一系の皇統をいただき、永い歴史を有する文化国家なのである。そうであれば、憲法改正も憲法の規定に基づき民主的に行われなければならない。何故このようなことをワザワザ説明するのかというと、「両院で2/3の賛成を得なければ発議すらできないというのは民主主義の原則に反している。そうであれば、現憲法を両院で廃止する旨を決議しよう。そうすれば、新しい憲法を作れる」との趣旨を石原慎太郎氏が東京都知事時代に言い出し、保守本流の中でも真剣に検討されたことがあるからである。もっとも2/3の賛成が全て民主主義に違反しているかというと、そうではなく、たとえば「選挙で選ばれた議員を議会で失職させる場合」あるいは「米国のような連邦国家では州が国家の役割を果たしており、州ごとに法律があり、州兵が居る。従って、米国憲法の改正は連邦議会2/3の賛成」と規定されており、民主主義の原則にも例外があるのを承知した上での話である。
 一方、憲法の他の条項から考察して、9条改正の論を主張することが可能であるので、それほど重要と考えている訳ではないが、念のために付言しておく。憲法12条、13条及び29条は国民の生命・自由・財産権・幸福追求といった重要な基本的人権の尊重が保証されている条項であり、憲法では至るところで個人の権利が重視されている。しかし他国からの侵略があった場合、侵略国が日本人の人権や日本の憲法を守る筈がなく、そうであれば、多くの個人の権利が踏みにじられる。つまり現憲法に違反した状態が現出する。そうであれば、自衛戦争も認めないと主張することはイクオール「自らが憲法の人権規定に違反することに加担する」ことに他ならない。

2 憲法制定時の経緯
 まず断っておかねばならないのは、私は「憲法は米国の押し付けだから、憲法を直ちに否定する」という立場には立っていない。何故なら押し付けか否かにかかわらず、憲法が60年以上にわたり日本の法体系の屋台骨を支えて来ており、その期間も日本は法治国家であった。改正の必要性は、あくまで、憲法の不備を正し、かつ時代に合わなくなり不具合事項が顕在化したから、これを修正するのに他ならない。
 ただし、その不具合の理由の中に、押し付けられたが故に根源的な欠陥があると考える要素はある。たとえば、「英語の直訳が多いため、助詞や副詞の使い方が間違っている」とか、「国民と住民と我々はどう違うのか」とか、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を受けて作られた第9条がそうである。そうであれば、改正して自主憲法を作ろうという意図の背景説明になるので、押し付けか否かについて考察する。
 昭和20年10月17日(ワシントン時間16日)、米国のバーンズ国務長官からGHQ政治顧問のジョージ・アチソンに対し、憲法改正に関する最初の米政府の公式指示電報が発信された。その中の一つが、「1945年10月16日、ワシントン発。米国務長官よりアチソン補佐官補へ。もし天皇制が廃止されない場合には、軍隊の全閣僚はシビリアンでなければならず、彼等(軍人)が天皇に接近しうるあらゆる特権は排除されねばならない」である。しかも、米国務省・陸軍省・海軍省の政策調整委員会(SWNCC)による第228号指令(ワシントン時間、昭和21年1月17日付)によれば、ご丁寧にも「この指令書は公開してはならない。最終的にGHQ司令官が声明を出す場合でも、憲法改正等の改革を完全に日本自身がやったように見せることを阻害せぬようにせよ」と補足されている。
 同年2月1日、毎日新聞の一面に幣原喜重郎政権の松本烝治委員会が起草した憲法改正試案をスッパ抜いた。それを見たマッカーサー元帥は激怒した。内容が明治憲法の辞句の修正を超えるものでないことがハッキリしたからである。マッカーサーは、「今や自分が介入すべきである」と考えた。それまでは、マッカーサーはSWNCC-228号指令を踏まえ「憲法は日本人自身の手で作った形にすべきで、銃剣の下で作成した憲法など、占領を長持ちさせるものではない」と考えていた。早速、マッカーサーは弁護士あがりで最も信頼していた民生局長のホイットニー准将を呼び、日本側の松本草案を蹴り返し、「マッカーサー3原則」を示してGHQ案を作るよう命じた。ホイットニーは、直属の部下である民生局次長のチャ―ルス・ケーディス大佐や彼の幕僚達とともに2月4日から起草作業にかかり、7日間の突貫工事で2月10日に書き上げた。
 以上の事実は、正に現憲法が押し付けであったことを証明している。しかし、制定時の経緯の中で最も重要なのは、マッカーサー3原則を受けてケーディス大佐が起草した憲法草案が自衛権と自衛隊を合憲としている事実である。
 「マッカーサー3原則」というのは別名「マッカーサー・ノート」とも言われ、昭和21年2月3日、マッカーサー元帥がホイットニー民政局長に指示した憲法草案の指針である。注目すべきは、この中で天皇を元首と明示している点であり、更には、紛争解決のための(侵略)戦争と自己の安全を保持するための手段としての(自衛)戦争とを区別して列挙し、「自衛のための戦争をも放棄する」として、自衛権も明確に否定している。これらの点は重要なので、原文付で紹介する。
 「マッカーサー3原則」のポイントは次のとおり。
① 天皇は国家の元首の地位にある。(The Emperor is at the head of the State.)皇位は世襲される。
 天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
② 国権の発動たる戦争は、廃止する。(War as a sovereign right of the nation is abolished.)
 日本は、紛争解決のための手段としての戦争、及び自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。(Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security.)
 日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
 日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
③ 日本の封建制度は廃止される。
 貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。
 華族の特権は今後国又は地方のいかなる政治的権力も包含するものではない。
 ケーディス大佐は、このマッカーサー3原則を基に民生局の総力を挙げて7日間で憲法草案を起草したが、この段階で、生粋の軍人である同大佐は「自衛のための戦争をも放棄する」との文言は、「国際法上認められている自衛権行使まで憲法の明文で否定するものであり不適当だ」として、GHQ草案には盛り込まなかった。ちなみに、ケーディス大佐が起草した草案でマッカーサーが実際に修正したのは、第3章「国民の権利及び義務」の中の労働者のストライキ権の一箇所だけである。マッカーサーは公務員のストを認めてなかったので、「スト権」を「団体行動をする権利」に修正した。要するに最も重要な事は、これ以外の草案つまり「自衛戦争は放棄しない」ことをGHQ総司令官であるマッカーサー元帥も認めたということである。

3 芦田修正と極東委員会の措置
 現憲法が制定された第90帝国議会衆議院で、後に首相となる芦田均・憲法改正小委員会委員長は、9条第1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言を挿入し、更に第2項に「前項の目的を達するため」という文言を追加する修正を行った。これを芦田修正と言う。
 昭和21(1946)年、憲法改正委員会の芦田均委員長は前記修正を行いGHQの了解を取り付けるためにケーディス大佐を訪ねた。ケーディス大佐は直ちに「異議なし」と答えたので、芦田は「このような重要な修正をホイットニーやマッカーサーに相談しなくてよいのか」と念を押した。ケーディスは当時、国連軍や国連警察機構の話題が進んでいたので、そのための修正と考え、自衛権云々とは考えなかったのであろう。ちなみに、それまでも日本側からの20箇所くらいの修正提案があり、これを容認していた。しかし後日、民生局政治課長のハッシー中佐は「あのような歴史的文書の修正は民生局全員で検討し、修正理由を明記して残しておくべきだった」とケーディスの独断専行に反発している。
 一方、当の芦田自身は修正を行った憲法制定議会の論議の中で、修正の趣旨について発言しなかったため、修正の真意をめぐって憶測を呼んだ。芦田は後年、「当時の情勢では説明すれば逆効果であったので、一つの含蓄をもって修正を提案した」などと自衛権により再軍備できることを担保したかのような説明をしたが、これは後知恵と思われ、多くの学者は、「修正当時に、芦田委員長が明確に、その意思を持って修正した」との見解には否定的である。
 いずれにせよ、我が国の国会での論議では争点にならず、余り注目されなかったものの、GHQの上位組織である極東委員会としては芦田修正により自衛のための軍隊を持つことが想定されたため、「このままでは大変なことになる」としてGHQに指示し、国会は極東委員会の指示を受けたGHQから要請(注:要請と言うと聞こえが良いが実際は強制)に基づき、急きょ、第66条2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」との規定を挿入した。つまりこの時点で極東委員会とGHQは日本が自衛のための軍隊を持つことを想定していたのである。だからこそ、「大臣は文民でなければならない」、つまり裏を返せば「軍人は大臣になってはならない」と要求したのである。
 ちなみに、文民(シビリアン)の反対語は制服(ユニフォーム)であり、世界の普遍的な解釈・常識では軍人を指す。憲法制定当時、帝国陸海軍は武装解除後、解散しており、もちろん後に自衛隊となる警察予備隊もこの当時はまだ発足してなかった。当然、「文民以外の者とは誰か」と論議になった。政府はここで良く考えるべきであったのに、「かつて職業軍人であった者及び民間人であっても軍国主義に染まっている者を指す」と説明した。そしてその延長で、警察予備隊発足当初も自衛官は文民であるとされていた。憲法上、制服自衛官が文民でなくなったのは、憲法制定から実に17年後、警察予備隊発足から14年後の昭和40年、第一次佐藤栄作内閣の時である。
 要するに、せっかく極東委員会とGHQと特にケーディス大佐が自衛のための軍隊を持つことを想定してくれていたのに、肝心の日本政府がそのような憲法解釈を取らず、「自衛権は国家固有の自然権として憲法も否定しておらず、最小限の武力は持てる。自衛隊は憲法9条2項が禁止する戦力には当たらない」と説明したのである。このため、自衛隊は軍隊ではないとされ、戦車を特車、大砲を特科装備品などと称したし、世界共通である階級の呼称も大佐や大尉ではなく、1佐・1尉などと称して、今日に至っている。

4 憲法9条と自衛隊を考察する上での基礎知識
(1) 戦争の歴史的観察と国家の役割
 19世紀末のフランスの作家でもあり哲学者でもあるヴィクトル・シェルブリエによると、紀元前1500年から紀元1860年までの3,360年の間に署名された平和条約の数は約8千である。しかし、そのどれもが恒久的な平和構築に有効だと思われながら、現実に効果があったのは約2年間だった。以上のことは裏を返せば、“一年間に2.4回”の戦争があったということになる。 このような状態は今後もそれほど変わらないだろう。日本人の多くは「第二次世界大戦後、戦争はなくなった」と考えているが、現実には朝鮮戦争、ベトナム戦争、中越戦争、中印紛争、4次にわたる中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、数えきれないほどのアフリカでの戦争・紛争等が生起している。
 曽野綾子氏によれば、「敵は泥棒と同じで、警報装置があったり、獰猛な犬がいたり、夜通し起きている変人の小説家がいる家には入らない。楽に入ることのできる所に侵入する。この世に泥棒が居るなら、敵も居るということだ」と述懐している。
 国家を国家たらしめている三つの要素は、「①国防・安全保障、②豊かさ、③国民の精神・アイデンティティ・歴史と伝統・価値観」と謂われている。つまり、国家の任務は、国の独立と安全を守り、国民に経済的・精神的豊かさを提供することである。これは、近代ヨーロッパの思想家、カントやヘーゲルやルソー等が言っている。この中で一番重要な「国の独立と安全を守るための国防・安全保障」の具体的な機能は、「①国民の生命財産、②領土・領海・領空及び③主権」を守ることである。主権というのは解り難いが、要するに「自分(自国)のことは自分(自国)が決める。他国の干渉は受けない」ということである。侵略された事態とは、国防・安全保障の機能が破綻し、国の独立と安全が守られていない状態のことである。当然ながら、その状況下では、憲法もへったくれもない。
 憲法が自らを国家の根本規範と位置付けるからには、自から自己の絶対性、永遠性を主張する。しかし、それは虚構である。虚構と知ればこそ、改正のことが規定されている。一方、「ルールによる支配」は、制裁を受けることを覚悟の上で侵犯する者が居ることを予期しなくてはならない。それを予期しないと言うなら、一切の制裁措置つまり警察も裁判も刑務所も要らないということになる。そして、ルール違反が大規模かつ激甚となるのが外国からの侵略やテロである。この危機を克服する構えがないなら、憲法は自己の永遠性や絶対性を担保することができず、そんなものを国家の根本規範とみなす訳には行かない。つまり、憲法自体が危機が起こりうることを認識できず、それゆえ危機発生時に憲法を救出する方策を準備していないなら、憲法は自己管理能力をあらかじめ放棄していることになる。国際社会は「平和」という甘い言葉で対処できるような生易しい社会ではない。たとえば、国内向けの「平等と福祉」を国際社会でも言い続けるなら、日本の国益や豊かさは、たちどころに“むしり盗られて行く”だろう。また平和主義の美名の下に戦争状態にある友好国に“高見の見物”を決め込むなら、日本が類似の状態になったとき、国際社会は冷淡に見ているだけとなろう。以上、「憲法が自らを国家の根本規範と位置付け~」以降は、西部邁著「私の憲法論~真正保守による改正試案」1999年(徳間文庫)から抜粋した。

(2) 改正派と護憲派の背景の分析・考察
 両者の考えの差異は何故生じたのか。要は、実際の国際社会を如何に見るのか、つまり「リアリティを持って現実的に捉えるか」、又は「国際社会は理想社会であるか、今はないかも知れないが、理想社会実現を目指して日本が先頭に立って世界をリードしていかねばならないと捉えるか」の差である。
 ちなみに、民主主義が定着した国家においては、後者のような考え方を支持する人々が結構の数いる。しかしいずれの国でも過半数を超えることはない。その上、なお仔細に見ると理想郷を目指す多くの人々は、国連軍や世界警察機構の設置を前提・ワンペアで唱える人が多い。単純な武力放棄は日本だけに見られる特異現象である。ましてや、多くの民主主義発展途上の国や独裁国家では無視されるか又は論外である。現在、軍隊を保有していない国は、モナコ公国、アイスランド、リヒテンシュタイン、アンドラ、コスタリカ、ハイチ、パラオなど、小国か最貧国でしかない。なお、ヴァチカン市国は自国の軍隊は持っていないが、スイス軍が警備している。
 護憲派の人達と議論していてやり切れないのは、「日本は憲法9条があるから戦争を防げた」の一点張りで、ここで全思考が停止し、これより先、相手の論に耳を傾けない。これは一種の“信仰の世界”つまり宗教である。戦前は「日本は神の国だから、イザとなれば神風が吹く」と固く信じられていた。それと全く同じである。ベクトル的には正反対かも知れないが、空想に依拠する点では同類である。本当に憲法で侵略を防げるなら、「台風は来るな。地震は来るな」なども書くべきである。
 しかし護憲派は、現実に関する状況判断と認識を一切放棄した上で、絶対平和主義を主張する。簡単にいえば「武器を手にするくらいなら死んだほうがまし」という宗教者の選択をしている。「自滅する覚悟」を実践するのは特殊な宗教者にのみ可能なことで、それを1億3干万人に期侍するのは無理がある。要するに、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義」とか、9条1項の「正義と秩序を基調とする国際平和」とかいったような美辞麗句に託して、戦争反対の気分を表明する。それが戦後における平和論の実像なのである。そこでは雰囲気が支配し、公正、信義、正義、秩序などといった言葉の意味について理論的に詰められた気配はみじんもない。その証拠に、絶対平和主義にあっては、公正のための戦争、信義のための戦争、正義のための戦争、秩序のための戦争がありうるということについて配慮されたことがない。イラクのフセインがクェートに武力侵攻したため、これを排除すべくアラブ諸国を含む国際社会が反撃した湾岸戦争をどう定義するのであろうか。
 しかし、国際法が規定する「国際紛争を解決する手段としての戦争」イクオール「侵略戦争」という定義を多くの国民が知っていないのも事実である。従って、「自国の安全を保持するための戦争は放棄しない」と書かれていれば、両者の違いに誰しも気付くであろうが、そうでなかったので、戦争全般の放棄と勘違いするのも止むを得ない。

(3) 自衛権放棄が意味するもの
 そもそも論で言えば、「自衛権の放棄」は前文の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」ことに違反するし、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ということにも違反する。国際社会では、自衛権を放棄した国家には、不名誉しか与えられず、軍事的空白は国際軍事情勢を不安定化させる。そのような国は、ソマリア、ハイチ、イエメン、イラク、アフガニスタン、キルギスのように、国家が国家として成り立たなくなり、国際社会のお荷物・厄介者とみなされる。それが国際社会の相場である。
 「自衛権の放棄」は、憲法を制定することの意味それ自体を疑わしいものとする。国家の根本規範をワザワザ制定するのは、その国家の存続を願えばこその処置である。誰が願ったかといえば、その憲法を制定した当時の国民であり、そしてその憲法を破棄せずに持続させているそれ以後の国民である。自衛権を放棄したものが自分の存続を願って拠るべき根本規範を定めるというのは、自殺志願者が長寿の秘訣を伝授するのと同じで、要するに“悪い冗談”である。

(4) テロ
 次に、新しい戦争形態として、近年重要度を増してきたテロについて考察する。近年の憲法改正議論の中で、テロにより流動化した現在の国際情勢においては、テログループなどを対象とした国防・治安維持を想定に入れる必要があり、憲法9条は現在の状況にそぐわないとする意見が提示されている。
 日本政府及び日本人は、テロの実態がよく判っていない。テロの本質は戦争である。しかも心の戦争である。テロリストは見えないし、テロには戦場も戦線もない。敢えて言うならば、人々の心の中が戦場である。この戦争では血が流れるよりも、一般の人々の心に受ける傷の方がダメージが大きい。テロリストは恐怖によって人々の心を支配するのである。
 クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、「戦争は物理的暴力をもって行う政治の延長である」と述べているが、これを敷衍すれば、「精神的暴力をもって行う政治の延長」がテロなのである。今まで、日本人は「テロは犯罪であり、治安維持を任務とする警察が対処すれば十分だ」と考えてきたが、現在、世界中で吹き荒れている国際テロの本質は戦争であり、9.11で判ったように警察の対処能力を超えた事態なのである。今後は核兵器や生物・化学兵器を用いるテロをも想定すべきであり、自衛権・自衛戦争の概念もテロを含まざるを得ない。

(5) 日本の国連加盟
 日本は昭和31(1956)年、国連に加盟した。日本は昭和27年、サンフランシスコ条約により主権を回復した年に、直ちに国連加盟を申請した。しかし、当時は東西冷戦の真最中であり、ソ連の拒否権により加盟が否決され続けた。昭和31年10月に日ソ間で共同宣言が発せられ、ようやく同年12月18日に、全会一致で80番目の加盟国として国連加盟が認められた。
 ところで、国連の最大の目的・任務は「国連加盟国全体により世界平和を維持すること」であり、このため「平和を破壊する国や行為に対しては、武力を含むあらゆる手段により、それを阻止する」ことにある。そして、「国連が有効に機能するまでの間、加盟国は個別的かつ集団的自衛権により侵略から自国を守り、そのことを安保理に報告する義務がある」と規定している。つまり、日本が国連に加盟した時点で、国連の要請に基づき軍隊、日本の場合は自衛隊であるが、これを紛争地に派遣し、侵略者による被害国への侵略を阻止しなければならない義務を負ったのである。つまり国外の戦闘に参加しなければならなくなった訳である。これを直ちに戦争と呼ぶかどうかは別にして、戦闘参加つまりは武力行使しなければならなくなったのである。この場合、「日本には憲法9条があるから戦闘に参加できません」となれば、もし我が国に侵略があった場合、他の国連加盟国が日本を助けてくれるだろうか。これらのことを考慮すると、要するに憲法上、自衛隊を海外に派遣し武力行使することの是非は、国連加盟時に決着しておくべき問題点であった。
 軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加については、これまでの政府の憲法解釈では、正規の国連軍については研究中としながらも、いわゆる国連多国籍軍の場合は、武力の行使につながる可能性のある行為として、憲法第9条違反の恐れがあるとしてきた。しかしながら、憲法第9条が国連の集団安全保障措置への我が国の参加までも禁じていると解釈することは適当ではなく、国連の集団安全保障措置は、我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。国連安全保障理事会決議等による集団安全保障措置への参加は、国際社会における責務でもあり、憲法が国際協調主義を根本原則とし、憲法第98条が国際法規の誠実な遵守を定めていることからも、我が国として主体的な判断を行うことを前提に、積極的に貢献すべきであろう。もし憲法9条を盾に国連の集団安全保障体制への参加を拒むのであれば、日本は国連を脱退すべきである。皮肉なことに、左翼の学者・マスコミは過剰なほどに国連を信奉・賛美している。

(6) 自衛隊の英語表記
 最後に自衛隊の英語表記について付言しておく。自衛隊を英語に直訳すると「the Self‐Defense Forces(セルフ・デイフェンス・フォース)」であるが、これは「自警団」を意味する。このように自衛隊が外国人に誤解されることは日本にとっても諸外国にとっても不幸であり、誤解や錯誤の元となる。そうであれば、直ちに、「陸自⇒Ground Forces(グランド・フォース)、海自⇒Maritime Forces(マリタイム・フォース)、空自⇒Air Forces(エアー・フォース)」と修正すべきである。極端に言えば、誰の許可もいらない。防衛省と外務省の職員が、外国人と話す際に、そう表現すれば済むだけの話である。
 ちなみに、既に師団はDivision、大隊はbattalion、普通科はinfantry(歩兵)、1佐はColonel (大佐)、1尉はCaptain(大尉)と英語表記されており、何の問題も生じていない。

(了)