今も昔も国際センスの欠如か?

平成31年2月1日
山下 輝男

1 始めに
 韓国の徴用工判決や射撃管制レーダーの海自哨戒機への照射問題を受けて、日韓関係は戦後最悪の関係になっている。この責任は、明らかに韓国側にあるのは明々白々であるが、気になるのは、日本自身の問題認識である。冷静に対応すべきだ、戦略的放置で十分だ、日本の正しさは何れ理解される筈だ等との奇妙な安心感が国民の基底に横たわっていると感じられるが、そのような対応で、生き馬の目を抜く様な国際社会で理解を得られるものなのだろうか?
 このような漠然とした問題意識を抱いている中で、新潮新書「決定版 日中戦争」(5名の歴史家による共著)を読んで、小生の問題意識の正しいことを感ぜずには居れなかった。
 以下、その要点を記し、参考に供したい。

2 日中戦争における宣伝戦の実態等
(1)中国の宣伝戦


 「決定版 日中戦争」第5章のテーマ設定は以下の通りである。  『盧溝橋事件(1937/7/7 注1)及び第二次上海事変勃発(1937/8/13)当初は、国際メディアは比較的冷静で客観的であったが、その後早い時期から変化が見られ、日本に対する批判、中国に対する同情が高まり、日本の孤立化を招いていった。そこで、本章では、第二次上海事変に対する国際メディアの論調、及び日中両国の対応と日本側の問題点について、特にアメリカを対象として考察したい。』(同書119p)

 当初は、日本に好意的だった国際世論が、変化を見せ始めた契機が、日本海軍航空部隊による渡洋爆撃であったと同書は指摘し、圧倒的に効果をあげたのは外国メディアが配信した「悲惨な写真」であるとする。
 報道写真、ニュース映画、写真雑誌・画報などを通じて、民間人殺害の惨状が伝えられることにより、アメリカ国民は日本軍の「蛮行」と非難していったのである。これらの中には、日本外務省東亜局が指摘するように、中国側の誇張や捏造も散見されており、意図的事実誤認(?)もあるようだ。
 外務省は頻繁に外国人記者に抗議を行っているが、果たして効果はどうだったのか?極論すれば、抗議は全く効果も及ぼさなかった。中韓に対する現日本政府の抗議のみの姿勢とダブって見えるが…

 下の写真が同書にも掲載されている「上海駅頭の赤ん坊」と題する米国最大の写真画報であるライフ詩に掲載された写真である。同年10月4日号に掲載され、翌年初には、読者の選ぶニュース物語ベスト10に選ばれ、この写真が切っ掛けとなり欧米では反日運動や日本製品不買運動が展開されるに至ったのである。(写真はウィキペディアから転載)確かに斯様にセンセーショーなる写真を見せられたら、殆どの者が日本軍に嫌悪感を抱くだろう。
 最近でも、一枚の悲惨な報道写真が国際世論を一夜にして変えた事例もあり、怖くもなる。尚、この写真について作為的過ぎ、やらせではないかとの疑問がいま尚指摘されている由。



 更に、注目すべきは、蒋介石が日本の軍国主義に対峙して戦う、民主主義のシンボルとして、その美人妻で英語が堪能な宋美齢が対外宣伝のシンボルとして絶大なる影響を及ぼし、支那事変における対米宣伝のヒットは宋美齢とまで評されたことである。

 日本も手を拱いていた訳ではなく、内閣報道部が写真報道事業に着手したのだが、時既に遅しの感があったし、抑々そのようなセンスが欠乏しており、効果はなかったと云えよう。何れにしろ、一旦固着したイメージは容易には払拭できないものである。




 中国は蒋介石は主導した上海戦に象徴されるように、国際世論を味方につける為、積極的に宣伝を活用した。中国側の対外宣伝指針や宣伝手法が、同書136pに記載されているが、興味と関心のある方は同書を読んで頂くとして、拙稿では割愛する。現代にも通ずる宣伝戦の極意だ。

(2)日本が宣伝戦に失敗した要因
 日本が宣伝戦に失敗した要因(同書138p~141p)として次の項目が指摘されているが、今に通じると思うが、どうだろうか?
 日本の宣伝に対する姿勢は、中国と対照的に消極的であり、これが日本の失敗の一因でもあった。当時も多くの識者によって・・日本の問題点が指摘・・

①宣伝に対する日本人の国民性
 馬淵大本営報道部長は、「・・他国の世論を有利に沸騰させるため、火のないところに煙を立てる寸法のデマ宣伝や嘘や法螺や弁明は、苟も士の採るべき手段ではないと教育・・潔癖性があり、宣伝や広告をしないのが普通である。」と述べ、石原莞爾「宣伝下手は寧ろ日本人の名誉」とまで述べていた・・
 このような国民性に加え、軍事的勝利に対する自信から宣伝を軽視していた面は、否定できない。  中国の宣伝を黙殺する傾向も強かった。


②マス・メディアの特性に対する理解不足
 日本側の報道は、日本政府検閲済みの情報による公的かつ形式的なもので、極めて無味乾燥で時宜を失していた。一方、中国は、情報の出所は曖昧であるものの、内容はセンセーショナルなもので、大衆を強く魅了した。・・日本は情報を極力制限したが、中国側は積極的に情報の科学提供に努めた・・外国メディアが自ずと中国発表を重用するように・・
 日本の宣伝は、戦闘の一場面や堂々たる軍容の記録写真を・・中国が日本軍による惨状を報道する・・
 センセーショナルな第一報が及ぼした強烈な印象は、反論によっても完全に訂正されることは難しい・・プロパガンダの特性に対する理解不足だ。


③アメリカにおける広告塔の不在
 中国は、蒋介石夫妻が大きな役割を果たしたが・・日本にはそれに匹敵する人物がいなかった。パネー号事件時の斎藤駐米大使の活躍はあったものの、残念ながら・・宋美齢には大きく及ばなかった・・


注1 盧溝橋事件(支那事変の勃発)
   1937年7月7日夜、豊台に駐屯する支那駐屯軍の第三大隊第八中隊が盧溝橋近辺の河原で夜間演習中、実弾を撃ちこまれ、兵士が一名行方不明となった。行方不明の兵士は発見されたが、散発的に射撃があり、翌朝第三大隊は中国軍が駐屯している宛平県城を攻撃した。その後小規模の戦闘はあったが、9日には事実上の停戦状態となった。・・これが以後八年間も続く日中戦争のきっかけになると予想した者は殆ど誰も居なかっただろう。・・誰が最初の一発を撃ったのか、未だによくは解らない。・・日本側が柳条湖事件のような謀略を目論んだ形跡はない。中国兵が日本軍の演習に過敏に反応したのかも知れないし、或いは中国共産党による何らかの挑発があったのかも知れない。しかし、何れにしても、この事件を本格的な武力衝突までに拡大させるシナリオは、日中どちら側にも存在しなかったと考えられる。(47p~48p)
 これが公正な見方だろう。個人的には、中国共産党による謀略・挑発説に与したい。何故なら、彼等が最も得をしたのだから。それはさておき、中国の盧溝橋中国人民抗日戦争記念館のどぎつさは何だろう。中国の宣伝戦の強烈さを如実に思い知らされる。


注2 第二次上海事件
 盧溝橋事件が華北のみならず中国全土を戦場とする全面戦争{一般的には日中戦争と称されるのだろうが、日中共に米国の中立法を気にして宣戦布告をしていない。因みに、1941年12月12日の閣議において、今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記され、支那事変と「対米英戦争」を合わせた戦争呼称として「大東亜戦争」が公式に決定している。}へと転換する契機となったのは第二次上海事変であることは否定できない。(58p)当時日本陸軍は、中国との全面的な戦争は極力避け、止むを得ない場合も局地戦に限定することを想定していた。一方、海軍は、上海海軍特別陸戦隊を設置・常駐させ、居留民の保護と日本権益の擁護に従事していた。作戦計画上はやや積極的な計画であった。  
 一方、蒋介石は、日中戦争を国際化することにより最終的な勝利を目指すとの判断のもと、第一段階として、上海を中心とする揚子江流域で決戦を行い、有利な戦いを背景として国際的干渉を誘発すること考えていた。ドイツ顧問団の指導による防衛陣地、空軍の創設、共産党掃討作戦の順調な進捗が決戦構想の根拠であった。
 盧溝橋事件後、大山事件があり、外交交渉も頓挫したため、同年8月13日の閣議において米内海相の要請を受け、陸軍の派遣が決定され、海軍は更に強硬論となった。こうした中、中国軍が積極的な軍事行動に出た。第二次上海事件は、蒋介石が手動的に導いたものであり、勃発直後の国際メディアでも客観的に報道された。蒋介石にしてやられたと云える。



3 終りに

 中国(や韓国)の宣伝戦に対する我が国の対応は、残念ながら、今も昔も余り変わっていないようだ。我々は、歴史から何を学んだのだろうか?
 個人の問題ならいざ知らず、国益にかかわる問題で綺麗事も上品さも必要ない。時にはえげつない言動すらも許されよう。相手と同じ汚い土俵で戦うことを潔しとしない日本人の潔癖さは個人としては素晴らしい資質ではあるのだが・・

(了)