集団的自衛権考!

山下 輝男

 集団的自衛権に関する論議が喧しい。間もなく、安保法制懇の答申が出されるのだろう。自民党も勉強会を始め、政権与党の公明党幹部も自民党を牽制すべく解釈変更に慎重な意見を表明し、民主党は煮え切らぬ。何時もの反対政党は何時もの調子・姿勢である。維新やみんなや結の党にも若干の温度差がある。主要紙にも賛成、反対があり、世論調査も拮抗している。それにしても永年の懸案事項であった集団的自衛権議論が盛り上がり、解釈変更が視野に入ってきたことは喜ばしい。
 幾つかの論点について述べたい。

1 国際情勢が激変したので、解釈を見直すべきとの論について

(1)国際情勢の激変は認めるが、抑々今まで認めてこなかったことが誤りではないのか保有はしているが行使は認められないとされてきた集団的自衛権であるが、保有しているのであれば認めるべきであった筈だ。政治の連続性上は、過ちであったと云えないのだろうが・・。堂々と言うべきだ。国際情勢の変化云々は口実に過ぎないと云われても仕方ない。
(2)認めた集団的自衛権をどのように行使するかは政策判断でいいのではないか。
(3)国際情勢の激変が、認めてこなかったことの誤りを気付かせてくれのである。

2 フル容認論と限定容認論

 国益・国家安全保障上必要があれば行使すべきものであって、憲法上フルとか限定とかの議論は無意味ではないのか?
 ケース検討は頭の体操上は必要でも、そのケースしか認めないということに繋がり不具合を生じる懸念ある。
 権限の行使を当初から手枷、足枷にしてしまうとそのことによって不具合が生じる可能性がある。公明党に遠慮しての足枷解釈変更には反対だ。
 権力は暴走する、だから予め制約を加えるべきだとの論もあるが、制約を加えられたことによる弊害が大きいのではないだろうか?
 政権が暴走する可能性を全く排除しないが、それに対する歯止めは米国の戦争制限法と同様の仕組みを作ればいい。

3 憲法解釈の変更は不可論

 憲法とて不完全なものである。憲法の想定していない事態・事情には柔軟に対応すべき。文民条項の解釈変更、私学助成制度、靖国神社公式参拝等解釈変更の事例あり。度々変更してはならないのは当然だとしても、全く解釈変更も出来ないというのでは可笑しい。解釈変更ではなくて、改憲でというのは筋ではあるが、それは現状にそぐわず、眼前の危機に対処できない。

4 集団的自衛権の定義上の問題

 自国が直接攻撃を受けていなくても、自国が攻撃を受けたものと見做して反撃するとされる集団的自衛権であるが、これを政府見解では「自国が直接攻撃されていないにも関わらず、実力を持って阻止する権利」であるとし、「自国が攻撃を受けたものと見做して」の部分を恣意的にオミットして、歪めている。関係国に対する攻撃が自国に対する攻撃と見做しうるような場合に実行する権利であるのであり、自国の安全に関係のない場合にまで対応するのではない。地球の裏側まで行くことはあり得ないだろう。
 云うまでもなく、自衛権の行使は我が国を防衛するための権利である。我が国防衛の必要性上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止するのである。

5 軍事、防衛に関する規定等が抑制的に過ぎるのは如何なものか?

 何故か、日本では防衛とか軍事と云うと非常に抑制的に規定しようとする。出来るだけ、運用の幅を持たせておいて、事態に応じて合理的に判断すべきものである筈だ。防衛・安保に対する考え方が真っ向から違うのだから、止むを得ないのだろうとは思うが、可笑しな話である。