武士道もて悪宣伝を越えよ!

山下 輝男 
(平成26年6月24日 記)

 某国によるネガティブキャンペーンが過激度を増しているようだ。
 先般参加した地財問屋片岡秀太郎氏主宰の懇話会で話を伺った作家板谷敏彦氏の著作「日露戦争、資金調達の戦い」を読了した。非常に参考になった。その所懐の一端を述べるのは本稿の趣旨ではないが、敢えて言えば、(1)日露戦争が如何に薄氷を踏む想いで戦われたかの再確認 (2)戦費調達の可能度と戦況とのリンク確認 (3)軍事戦略と政治戦略の密接な連携協働の重要性の再確認であろうか。
 閑話休題
 ワールドカップにおける日本人サポーターが自分達のゴミを持ち帰っていることが称賛を浴びている。一方、常に感じているところだが、日本の隣国にはマナーの悪い国があるようだ。唾、痰は平気で吐き、ゴミを散らかすのは平気の平左、ブーイングや光線照射等競技観戦のマナーの悪さも戴けない。こんなことを考えていたら、板谷氏の著作に同じようなエピソードが紹介されていた。その内容を簡単に紹介したい。
 日本人の美徳を再認識し、我が武士道精神に基づくポジティブ宣伝により、彼のネガティブ宣伝を越えることを期したいものである。

(1)戦艦と共に旅順口外で轟沈戦死したマカロフ中将に追悼の意を表す日本人(149p~154p 項目名は筆者の独断による。)
 日露戦争初期、旅順艦隊の基地がある旅順において、解任された司令長官に代わり新たに赴任したステパン・マカロフ中将(ネルソン提督に比肩するとも言われたロシア海軍の逸材、当時名将の名を恣にしていた。)は、兵員の士気と練度維持のため積極的に旅順口外に進出し、日本海軍と小競り合いを繰り返していた。ところが、1904年4月13日マカロフ座乗の戦艦「ペトロパブロフスク」が旅順郊外において日本海軍の敷設した機雷に接触し、マカロフもろとも轟沈してしまった。
 この頃、時の米国大統領ルーズベルトと懇意であったので米国における政府公報の役目を担っていた金子堅太郎は、ニューヨークで開催したパーティの演説の最後に「・・・我が国は今やロシアと戦っている。しかし、一個人としては誠にその戦死を悲しむ。敵ながら我輩はこのマカロフが死んだのはロシアのためには非常に不幸であると思う。・・・」とマカロフに対する弔意を述べた。
 当時、ロシアの駐米公使のカシニーは買収資金をつぎ込み、米国の新聞紙上において、黄禍論や宗教論争を持ち出して、あけすけなネガティブキャンペーンを張っていた。その対極として、この騎士道精神をも匂わす金子の礼儀正しさ、敵の名将を称賛してその不幸を弔する演説が新聞紙上で好意的に取り上げられたのは当然であった。
弔意を述べたのは金子だけではない。日本の在外公使や海軍関係者も同様に各地で弔意を述べている。

(2)ロシアバルティック艦隊の引き起こしたハル事件と蔚山沖海戦の乗員救助の対比(248p~253p 項目名は筆者が適宜に)
 旅順要塞陥落が早いか、ロシアバルティック艦隊の日本近海への来航が早いか、世界が固唾をのんで注視する中、同艦隊は10月15日バルト海のリバウ港を出港した。艦隊はロンドンとエジンバラの中間あたり、ハル河の河口を遡上した通称ハル市の漁師多数が漁場とする北海のドッガーバンクを航行中、疑心暗鬼となっていたのだろうが、英国漁船団を日本海軍の水雷艇と勘違いし襲撃し1艘撃沈、5艘中破、2名死亡、6名負傷させた。
 友軍相撃すら起こしている。誤射に気づきた後も被害を受けた漁船の救助もせずに立ち去ってしまった。
 一方、この事件の少し前の蔚山沖海戦では、日本海軍上村彦之丞中将率いる艦隊がロシア巡洋艦「リューリク」の乗員を積極的に救助し、イギリスでも美談として話題になっていたので、余りにも対照的な出来事であった。
この頃から英国が露骨にバルティック艦隊の東航に嫌がらせを始めるようになった。

(3)旅順開城における乃木将軍の対応(259p~ 267p 上述②③に同じく項目名は筆者独断)
 1904年6月1日乃木第3軍司令部は宇品を出発、8月6日には旅順要塞の包囲も完成した。8月第1回総攻撃、10月第⒉回総攻撃何れも失敗、児玉総参謀長現地進出、12月5日日露双方が争奪を繰り返した、焦点の二〇三高地を遂に確保、1月1日ロシア軍降伏、1月13日日本軍の旅順入城となった。
 乃木将軍は要塞陥落前にステッセル要塞司令官に降伏勧告状を送っていた。このやり取りは公開され、アメリカでは人気を博したという。“日本の天皇は人が死ぬことを非常に悲しんでいる。今降伏すれば、武人としての名誉を守り帯剣のまま北方へ開放するだろう。”と。この武士道精神に米国世論は感激した。
 これに対し、ステッセルも『吾輩は決して降伏せぬ。臣はここに祖国に対し最後の決別をなす。臣は旅順をもって墳墓の地となさんと決心す。』と回答し、これがニコライ二世にも電送され、米国の新聞にも発表された。武人としての潔さもまた米国人の感動を呼んだと云われる。皇帝も感激したのだろうが・・
だが、ステッセルは反対する配下司令官を振り切り降伏し、身綺麗な服装(兵は破れた軍服に、破れた靴で、ボロボロになって現れた。)で登場したが、これが非常に悪い感情をもたらした。これ以上引用するのも嫌になるが、降伏後ロシアへの帰途、長崎に立ち寄り夫人と共に5,000ドルほどの土産や美術品を買ったと報道されるに及びアメリカでの評判は最悪になった。

(了)