平和安全法制論議に異議あり!(憲法違反問題に関連して)

山下 輝男

1 初めに
 平和安全法制の論議が、どうも脱線しつつあるやに思える。憲法違反だとか、報道規制とも受け取られかねぬ発言に反発したりして、何とかしてというより、形振り構わず、この重要法案を廃案に追い込もうとしているように思える。
 この平和安全法制は果たして憲法違反なのか、またこのような国家の基本的事項に係る法案をどのように扱うべきかなのについて私見を述べたい。元より憲法を基礎から学んだ訳ではなく、精細・緻密な議論に踏み込み、迷子となりたくもないので、常識的な観点から私見を述べることとする。

2 憲法違反の大合唱
 5月22日から衆議院平和安全法制特別委で「平和安全法制」に関する審議が行われているが、その最中の6月4日、衆議院憲法審査会で自民党推薦の参考人、長谷部恭男・早大教授が政府の集団的自衛権の行使や平和安全保障関連法案は憲法違反だと意見陳述した。
 野党やマスコミは、鬼の首を取ったみたいに狂喜して、連日安倍首相等を攻めたてている。
 6月22日の平和安全法制特別委には、与野党が推薦した参考人5人が出席した。宮崎氏(民主推薦、元内閣法制局長官)と小林節慶大名誉教授(野党推薦)の2人が法案を憲法違反と指摘する一方、阪田氏(維新推薦、元内閣法制局長官)と西修駒沢大名誉教授(自民推薦)、森本敏元防衛相(公明推薦)の3人が一定の理解を示したとされ、意見の隔たりが改めて浮き彫りになったようだ。

 憲法違反論議や報道規制論議が罷り通って、残念ながら、実質的な審議が行われていない状況だ。

3 憲法違反との指摘に対する首相の反論
 安倍晋三首相は、6月26日午前の衆院平和安全法制特別委員会で、安全保障関連法案で行使が可能になる集団的自衛権の範囲について、「砂川判決にいう『自衛の措置』に限られる。砂川判決は集団的自衛権の限定容認が合憲である根拠たり得るものだ」と強調した。
 最高裁は1959年の砂川事件判決で、国の存立を全うするために「必要な自衛の ための措置」を認めている。首相はこれを踏まえ、「(安保法案は)砂川判決の考え方に 沿ったもので、判決の範囲内だ。憲法解釈を最終的に確定する権能を有する唯一の機関は最高裁だ」と述べ、安保法案を違憲とする憲法学者らに反論した。

4 幾つかの論点
(1)日本の議論は特異
 国連憲章も対日平和条約も疑いなく集団的自衛権を認めているという事実を認識すべきである。国家固有の自然権とも云うべきものを禁じるということが果たして現実的なのか、あり得ることなのか?
 また、国際的に見ても、日本の議論はかなり特異である。云うまでもなく、国連加盟国のうち、国連憲章で認められた自衛権を、個別的とか集団的とか区別している国はほとんどない。しかも集団的自衛権を行使しないと明らかにしている国は、永世中立国のスイスとか、国軍を持たないコスタリカなど3カ国位だと云われている。
 これ等のことからも、日本の特異性が明らかだろう。

(2)憲法第9条1項及び2項に集団的自衛権を禁ずるとの文言はない。
 憲法第9条は、国際紛争を解決する手段としての戦争等を放棄したと謳っているが、自衛権を放棄したとは明言していない。従って、自衛権を行使するための組織としての自衛隊は合憲であるということにもなる。
憲法9条が個別的・集団的自衛権について明言していないとすれば、どのように解釈すべきかを示したのが最高裁大法廷は、1959年12月16日、憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらずと判決した。

(3)砂川事件判決では
 安倍首相が言う通り、砂川事件判決では、国の存立を全うするために「必要な自衛のための措置」を認めている。
 判決では、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」とし、「外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」と結論している。
 ただし、本判決は、駐留米軍に関する事案ではあったが、我が国が自衛権を有することを認めた画期的な判決であり、それが個別とか集団的とか区分もしていないことから、今般の集団的自衛権の行使容認の有力な根拠足り得ると考えるべきだろう。

(4)「必要な自衛の措置」を、如何に判断し、具現化するかがポイント
 砂川判決で云う「必要な自衛のための措置」というものを、必要最小限の個別的自衛権の行使に限定するという判断もあろうし、所謂フルスペックの集団的自衛権行使も可能である考えることも可能である。如何なる自衛の措置を取るかは、安全保障環境等の状況や国家目標、国益、国力や国民の意識等々を基礎とした政策判断であると云える。
 憲法が規定しているのは、必要な自衛のための措置を取ることであり、いかなる措置を取るかは国家・国民が決めるべきことである。
 憲法は国家や時の政府の暴走を抑えるための規定、国家権力を規制するものであるという側面があるのは確かであるとしても、逆に言えば、国家権力に必要な権力行使の根拠も与えている。国民にさまざまな義務を課したり、時に権利を制限する場面もあるのであり、断定的に云うべきではない。
 何れにしても、憲法が必要な自衛のための措置を取ることを認めていることは明白である。

(5)必要最小限度とは
 我が国は、今までは必要最小限の個別的自衛権の行使と日米同盟をもって我が国の平和と安全を確保しようとしてきた。それが出来るような安全保障環境でもあったので、それを我が国策として採用してきたのだ。
 必要最小限度という意味は、安全保障環境との関係で変化するものである。情勢が変化すれば、その変化に応じて変わるべきものである。
 個別的自衛権を最大限に行使しても、我が国の平和と安全を確保できないのであれば、許容される集団的自衛権の行使も躊躇すべきではない筈だ。従来は必要最小限度を超えるので集団的自衛権は認められないと言っていたとしても、現下の情勢に対応するには集団的自衛権行使にまで踏み切らざるを得ない。
 安倍首相は、6月26日、憲法解釈上、限定的集団的自衛権の容認を可能とする今般の法案が解釈の限界であると述べたが、本来は解釈の問題ではなく国策選択の問題である筈だ。政府も苦しいのだろう。

(6)違憲か否かの判断は、最高裁判所の権能であり、憲法学者にはその権限はない。
 憲法が最高法規であり、違憲立法審査権(法律・命令・規則・処分が憲法に適合するか否かを審査する裁判所の権限)は、最高裁判所が終審裁判所としてその権限を有することとされている。憲法裁判所の要否については議論があり、現在では最高裁がその役割を担っている。自衛権については、砂川判決が唯一の判例であり、集団的自衛権の容認の根拠足り得る。
 尤も、一次的な憲法解釈権が国権の最高機関たる国会にあり、それが矛盾を来した場合に最高裁の違憲審査権があると云われる。
 憲法学者の意見に謙虚に耳を傾ける必要はあるにしても、彼等に違憲と断罪する権限はない。
 本来政府の一機関たる内閣法制局が事実上憲法解釈の権威となっているのは異常だとの指摘も少なからずある。民主党もそう言っていた筈だが、ある元内閣法局長官が違憲だとコメントしたら、欣喜雀躍しているのは可笑しい。他の元内閣法制局長官は、法案には理解を示しつつも、機雷掃海に疑問を呈したとされ、法制局長官経験者ですら、異なる見解を有している。法制局長官が違憲審査権を有している訳ではないことは指摘しておかねばならない。

(7)国家存立に係る法律が、違憲審査に馴染むかどうか疑問
 国民の安全に責任を持つのは、国家であり、その為に如何なる措置を講ずるかを決定するのは国権の最高機関たる国会である。講ぜられた措置・法律が、一見明白に違憲と判定できる場合を除き、違憲判断は為されるべきではないし、違憲立法審査には馴染まないと考えるべきだろう。
 民意を代表する国会こそが国家の基本的事項を決定できる権能を持っている筈だ。何故か、日本の国会議員は、そのことを等閑視していないか。もっと、国民の常識と自らの識見を信じるべきではないか?
 自らの生存を自らが責任を持って決断するという気概こそが重要であり、そういう観点で見渡した時、従前とは異なる環境に我々が直面しているのは歴然たる事実であり、その為に、新しき酒を新しき皮袋に盛るべきなのだ。

(8)まず、国策を判断し、次いで憲法を考量すべき
 国家統治の基本の一つとして国家安全保障に関する法整備を行った結果、仮にそれが明白に憲法に違反していると判断される場合、制定整備しようとしている法律を破棄すべきなのか、それとも憲法を修正すべきなのか、何れが正しいのだろうか?
 国家として、憲法の文言一字一句を遵守して滅亡する違憲性があるのであれば、それは憲法に問題があるのであり、修正されるべきであると考える。憲法は言うまでもなく不磨の大典では決してない。我が国には未だに憲法絶対主義が蔓延っている。
 勿論、今次法制が憲法違反という積りは毛頭ない、物の考え方としてどうあるべきかを問うた積りである。
 憲法遵守義務と憲法改正を論じることが矛盾するとは思えない。

5 終わりに
 このような見解は傲慢との誹りも受けようし、憲法軽視論と非難されるだろうが、そんなことはない。常識的な判断こそ重視されるべきである。
 異例とも云える延長に政府与党の決意を感じ、しっかりした説明により国民理解を得つつ成立に万全を期して貰いたいものである。
 後ろから鉄砲を撃つような非常識な、緊張感のない政治家には猛省を促したい。

(F)