「英霊に敬意を」「国に誇りを」
(山田風太郎の戦中派不戦日記を読んで)

NPO法人 孫子経営塾 代表 前原清隆

偕行記事平成28年1月号より転載 

はじめに
 「戦後レジームからの脱却」の言葉は使い古されて久しい。国会における「安全保障法制論議」では野党側の憲法違反・戦争法案の他、「自衛官のリスク」まで飛び出した。かつては自衛隊を憲法違反と決めつけ、「税金泥棒」とか「子弟の義務教育拒否」とか「住民票受付拒否」など、自衛官いじめは家族まで及んだことは決して古い記憶ではない。昨年(平成27年)の国会における議論でも一部の政治家達は「民意」と称して、あたかも「正義の旗」をかざすかの様にその手法は皮相的且つ重箱の隅を突く何時もの状況に陥った。彼岸の英霊達は此岸の我々をどの様に観ているのだろうか。医学を学びながら兵役に籍を置かず終戦時満二三歳であった山田風太郎の「戦中派不戦日記」を読んだ。風太郎は医者である父を五歳で亡くし、医者の娘であった母も後に、父の弟である叔父と再婚したが、風太郎が中学一年の時に亡くなる。叔父のことが日記に再三登場するのはその様な境遇にあったことを物語っている。本日記を読んで改めて「英霊に対する詫びの気持ち」と「国の誇り」を取り戻さなければならないと強く感じたことが本投稿のきっかけである。何故ならば、戦後の不手際が、国の誇りや国政にも安全保障にも歪を生んできたと思うからである。
 本日記は、 昭和20年1月1日(月)「運命の年明く。 日本の存亡この一年にかかる。 祈るらく、 祖国のために生き、 祖国のために死なんのみ。 ・・・ 」に始まり、12月31日(月)大雪 「・・・運命の年暮るる。日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。未だ全てを信ぜず」。で終わっている。 国家や軍の指導者及び有名を馳せた諸分野の日記は多数存在し、多く読まれている。だが、本日記が医学を目指す一国民が兵役に籍を置かずに終戦を迎えた青年が昭和20年という、正に激動の一年間に綴った物であるだけに、当時の戦中不戦派の国民が如何なる考えを有し、如何なる対応をしてきたかを「客観的?」に覗うには好材料であると考えた次第である。

上滑りの戦後70年
 昭和天皇の玉音放送を聴いた風太郎は、8月15日(水)炎天 「帝国ツイニ敵二屈ス」とのみ記しているが、翌16日(木)には膨大な記述がある。中でもエンゲルスやヘーゲルを引用しつつ、「われわれは、にがい、憂鬱な感情を以て現実論者にならなければならぬ。・・・日本はふたたび富国強兵の国家にならなければならぬ。そのためには、この大戦を骨の髄まで切開し、嫌悪と苦痛を以て、その惨憺たる敗因を追求し、噛み締めなければならぬ。・・・全然新しい日本など、考えてもならず、・・・そんな日本を作ったとしても、一朝有事有ればたちまち脆く崩壊してしまうだろう」。と指摘しながら、科学を中心とする学問的な思考法に国民全体が馴れることの必要性を説いた。その上で、「何故か? 日本人はこういう疑問を起こす事が稀である。まして、『何故こうなったのか』という経過を分析し、徹底的に探究し、そこから一法則を抽出することなど全然思いつかない。・・・一口に言えば、浅薄なのである。上滑りなのである。いい加減なのである。・・・」と述べ、日本が再び偉大な国家になるような遠大な教育を考えようと述べるとともに民族的な特性とでもいえる「上滑り」にも触れている。本日記が指摘したように、正に我が国は「敗戦の総括をすることなく『上滑り』で70年を迎えた」のではなかろうか。

鋼鉄のような日本人の子供達を作ろう
 8月16日の日記は続く。「われわれは、健康な肉体と冷徹な頭脳を持つ子供達を作ろう。一口で言うと『鋼鉄のような日本人』である。「鋼鉄のような、(美しく澄んだ感覚)(強靭な肉体)(鮮烈で確固たる頭脳)(輪になるまでも柔軟に屈し・・・激烈に戻るような)不撓不屈の意志力を持った日本人を創造しよう・・・」。と「これは言うに易く、行うは実に至難の命題であろう。ましてや敵の懐柔政策と弾圧のもとに行うのは、誠に苦難に満ちた道程であろう。しかし我々は辛抱強くなければない。そして必ずこれを行いぬかなければならない」と記している。このことは戦場に散った英霊の全てが後世に残る者に託した心からの叫びでもあったであろう。だが、連合軍の占領政策の中で検閲・日本国憲法・極東裁判・公職追放等、一連の所謂 『WGIP=War Guilt Information Program』により、戦後の日本(日本人)は「鋼鉄には程遠いガッツを失った」「平和的に歪められた社会」を築いたに他ならなかったのではなかろうか。

傍観者意識と忸怩たる観念の交錯
 降伏調印の前日である9月1日の日記では、「新聞がそろそろ軍閥をたたき始めた。・・・この新聞論調は、やがてみな日本人の戦争論、世界観を一変してしまうであろう。敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、一年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信し始めるであろう!」と記しているが、ポツダム宣言受託から未だ半月しか経過していないこの時の新聞の豹変である。正に我が国の戦後の姿を的確に予測していたともいえる。そして翌9月2日には「・・・悲壮なアナウンサーの朗読が聞こえる。それは今日午前、東京湾上の米艦ミズリー号で、マッカーサー元帥を始めとする米支ソ蘭各代表と、わが重光外相と梅津参謀総長との間に調印された降伏文書の内容だった。・・・・沈鬱な顔で耳を傾けている人々。・・・・しかしこの日の結果する恐るべき苦難と恥辱は、まだ各自の肉体には直接に迫ってはいない。・・・全てはこれから始まるのである」とある。
 風太郎は、小学校の男子同級生34人中14人が戦死した事実から、「死にどき」の世代のくせに当時の『傍観者』であり、ある意味で最劣等生であると烙印を押されたという『忸怩たらざるを得ない』 内実を吐露している。だが、疎開先での生活や医学学習、更には東京空襲を受けても住むところは失わなかった事なども含め、戦わず生き永らえ『傍観者』であり得たからこそ客観性が保ちえたのではないだろうか。そして「忸怩たらざるを得ない」心情は、当時の世相や一般的な日本国民としての「主体性や主観」を失わず、わが国民の素晴らしさも愚かさも率直に論じながら、戦後30年(1985.8.15)を期して出版された「戦中派不戦日記」(講談社文庫)の「あとがき」でそのことを述べている。

これが日本人の特性なのか?
 11.5(月)には、「東京新聞の報道によるとして『戦争責任論』に関する帝大教授の『日本は国に自衛を説きながら侵略戦を行った。この不当なる戦争』に対して、風太郎は、「では白人はどうだったのか? 戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみ説き日本の邪悪のみをあげる。それでは『人間の実相』に強いて目をつむった一種の愚論ではないか」と。更に11.10(土)には「日本のアジア解放戦は真実邪悪なる侵略戦であったのか。見よ、インドシナでは独立を叫んで英蘭軍と戦い安南はフランスと死闘を続けているではないか。・・・日本に執拗な反抗を続けた蒋介石は日本の価値と大東亜戦争の意義を遠からず骨身に徹して知るだろう。今や既に全中国で動乱の渦に巻き込みつつある中共との戦いに対して、蒋先生如何と為す。・・・」。 11.15(木)「一体教授連の異口同音は平和礼讃ことごとく敗戦の事実と掛け離る。日本に訪れし平和は、剣にて刺されたる屍の平和にあらずや」。11.17(土)「渋谷駅の石壁の張紙」の中で、一曰く「餓死対策国民大会!」。一曰く「吸血鬼財閥のコメ倉庫を襲撃せよ!」。一曰く「日本自由党結成大会!」。一曰く「赤尾敏大獅子の吼。軍閥打倒!」。一曰く「財閥の走狗毎日新聞を葬れ!」。一曰く「天皇制打倒、日本共産党!」。一曰く「10万円の夢、宝くじ!」(みかん5個五円・香典30円当時) 11.26(月)薄曇り「我々は戦争中、心ならずも真の声をあげることが出来なかった。“これからはそれができるわけである“と殆どの言論人が言っている。そこで彼らは、”今を限りと軍閥と侵略戦争を鞭打つ“のである。屍に鞭打つのだから『吾々は戦時中臆病であったことを自認する』という彼らででも平気なわけである。・・・現在ただいまインドネシアを弾圧し、仏印を強圧している英仏に何が言えるか。蒋介石と毛沢東の背後にいる米ソに何か言っているか。戦時中臆病であった彼らは、この点については未だ黙っている。戦時中の沈黙は勝利のための沈黙・・・今の沈黙は屈従のための沈黙とは言えないか」。11.29(木)(昨日の議会)「議員、戦争犯罪人を糾弾せよと吼えまくる」。「『軍として国民の前に深くお詫び申し上げる。ただ尽忠の将兵と英霊にはご同情を・・・・』と壇上手をついて首を垂れる下村陸相、野次の嵐に、ただ一人軍服に巨躯黙して語らぬ米内海相。この最後の両相の態度は悲壮見事にして、いかにも日本人らしく武士的である」。
 他人の日記等は様々な読み取り方があるだろうが、グサッと心底に受け止め得ない程の最も強いショックを以て感得したものは、20年12月24日の日記である。「敗戦して自由な時代が来たと狂喜しているいわゆる文化人達は、彼等が何と理屈をこねようと、本人達は『死なずに済んだ』という極めて単純な歓喜に過ぎない」とある。とは言え、特攻を命ぜられたが余儀なく生還を果たされた緒先輩方を始め実戦に臨んで、或いは職業軍人を目指しながら教育半ばで終戦を迎え、夫々生還された方々の中には、歓喜どころか『英霊に申し訳ない』という「自責の念」や「慙愧の念」に苛まれて人生を送った先輩も多いのではなかろうか。現在の我々は、多くの英霊と、その『単純な歓喜』ばかりでなく『慙愧の念』の上に生き続けた方々の尚その延長線上に立っているのだが、その先輩達の国民は戦後どのような選択をしたのか。

二つの安全保障の狭間での選択とその結果は
 戦後日本の安全は2大陣営の長い冷戦構造下に「憲法九条で国の平和は守られるのか」或いは「力の空白を作らないことによって平和を守るのか」の二者択一というよりも両者を混在させながら、多くの国と共に国防や国家の対立を真剣勝負的に考える必要はなく、より現実的な対応をとってきたのが実態であろう。だが冷戦後は、民族・宗教対立の先鋭化が国際テロを散発し、『力による支配』による動乱の世界を生み出している。明らかに安全保障上の国際環境は激変した。敗戦直後の言論人達と現在の言論人達の言動は余りにも似ていないか? 如何なる民族も戦いに負けると同様な振る舞いをするのだろうか。
 国際的な基準をことごとく破り、南シナ海を支配しようとする中国、クリミヤ半島を併合するロシア、国民を餓死に陥れてでも核兵器及びミサイルを開発し軍事大国を誇示する北朝鮮、歴史を捻じ曲げてでも反日を繰り返す韓国、これ等の国の言動には黙しながら、安全保障環境の劇的変化にもお構いなくマスコミを煽り、(移ろい易い)民意を捻じ曲げ、国権の最高府では政策論争ならずイデオロギー論争とでもいえる空虚な安保論議が繰り返された。これ等の選民達は冷戦期にも振りかざした第9条安保論を今回も繰り返したのであるが、新たな国際環境下では明らかに(9条安保論は)破たんしている。仮にそれが政治的信条であるとするならば、彼等に「この国の舵じ取り」は任せるわけにはいかない。

冷戦後の安全保障環境は激変した : 『重地は掠めよ』
 中華人民共和国は1949年以来どの様な行動をとってきたかを歴史的事実に照らして見ればその侵略性は歴然としている。チベット・ウイグル地区・(西沙・南沙含む)南シナ海は、「力の空白が生じた時期と場所」に「力による支配」を繰り返してきた。尖閣列島に関しても、毛沢東は「無言」で通した。だが鄧小平は「棚上げ」し“難得糊塗”(馬鹿になれ)を繰り返したが、経済力を背景にした軍事力を得た習近平は「核心的利益」を声高に主張している。米中関係でも中国は冷戦期には「ソ連への対抗」に、中ソ雪解け期には(低姿勢で強くなるまで力を隠して待つといった戦略)“韜光養晦“で「市場経済」に米国を利用し、力を得た今日では鞱光養晦をかなぐり捨てて「新型大国関係」を迫っている。これこそが老獪且つ伝統的な中国の遣り方である。
 2500年ほど前に孫子は、九地篇に於いて「重地とは敵の土地に深く入り込んで既に敵の城や村を沢山背後に有している土地(場所)」を言い、「重地は掠めよ」と述べているが、尖閣を含む南西諸島は正に『重地』化している。一方、西沙・南沙では同様な中国の遣り方で既成事実化を進めてきた。1950年代に南シナ海全域領有を主張して地図上に(九段線と称する)九本の点線を引いた。1950年代にフランス軍撤退に伴い西沙諸島の半分を占拠(ベトナムが残りの半分を占拠)し、1973年在越米軍が撤退すると翌七四年には南越軍を追い出して西沙全域を支配下に置いた(南越は75年崩壊)。更に、1980年代に在越ソ連軍が縮小されると中国は南沙諸島に進出、88年には南沙諸島六か所を占拠し、92年在比米軍撤退に伴い95年にはミスチーフ岩礁占拠、2000年代に入ると南シナ海全域に進出し2012年にはスカボロ岩礁を支配、2014年から南沙で大規模埋め立てを開始し滑走路をはじめとする軍事施設を建設中である。力の空白に浸透して既成事実化を進めてきていることが明白である。南シナ海も『重地』と化しているのである。
 若し我が国や同盟国が東シナ海で力の空白を作ったならば、尖閣諸島はおろか沖縄へと中国の触手が延びることを十分心に刻み込まなければならない。冷戦後においても、民主化の土壌が育たない所に民主化を求めてもなかなか育ちにくく、宗教・宗派の対立はむしろ先鋭化し、力の空白が生じた所に所謂「イスラム国」が育ちつつある。更にはクリミヤ半島のロシア併合等は冷戦期には考えられなかった事象ではないだろうか。正に冷戦後の「力の空白」が生み出したものである。

大東亜戦争は果たして無謀な戦争であたのだろうか?
 9月20日から24日かけての日記では、同僚との対話形式で「歴史観」を記している。「日本精神日本精神というと、日本人はすぐ軽蔑的な笑いをする。なぜそうなるのだろう? 日本が世界のために尽くそうと考えるなら、先ず日本の歴史 ― 精神史を探求し、その真髄を把握しなければ何を貢献していいかわからないではないか」という問いかけに対して風太郎は、「日本精神がそんなに毛嫌いされたわけは、過去の日本精神鼓吹者が、天下り的な、不合理な態度を持っていたことに依るんだ。例えば、神勅は絶対である、従って神州は不滅である。というような。・・・負けた重大な原因は、国民がこの不合理な、神州不滅などという詩語そのものに自ら幻惑され、陶酔していたからだ。・・・僕は天皇陛下を敬愛する。しかしその敬意を商売にしている奴は嫌いだ。正直言って天皇が居なくなっても精神的には死なない。日本人の大部分が死なないだろう。・・・精神は偉大だ。・・・・僕は日本精神というものを認めない。(ただ斥けるのではない。その鼓吹者たちの思考の偏狭な視野を排斥するのだ)。僕の認めるのは日本民族性だ。日本精神とは・・・・好意的に見て日本民族性の良いところばかり取ったエキスだ。・・・僕たちは、その優秀な素質も、またその忌むべき素質もともに含まれ、混在した日本民族そのものを子細に点検してみる必要がある」。
 伯母からの切ない手紙を受けた取った風太郎は、「戦死せる愛児還らず、年老いし母の、敗れて還る村の兵士を見つつ、悲しみ、怒り、耐え、しかも国を憂うるの心情切々として、その筆つたなく、仮名遣い違えりというなかれ。これ余らの及ばざる名文なり、真情の期せずして溢れるればなり」と。そして、「現に廟堂に立ちて、マッカーサーの鼻息をうかがいつつ敗戦の責任追及云々と叫ぶ輩よ、この日本の母の声に愧死すべし」と続けている。
 戦後の我が国は所謂『自虐史観』が定着して、善玉論・悪玉論が長く根付いた。だが、時が経つに連れて様々な資料が公開されたり、発掘されたりしてこれまで根付いていた歴史観の歪みが目立つようになってきたところも少なくない。例えば、陸軍悪玉・海軍善玉論に関してはかなりの修正が加えられるようになってきたし、南京虐殺を含む日本軍悪玉論にもメスが入るようになった。大東亜戦争に関する「戦争計画」の有無を問われたりした時間はとても長かった。現在では少なくとも戦争に関する「戦略と計画の骨組み」は明確にあったことは判明している。又、我が国は「自衛のために戦った」という証明もされたが、極最近まで、「追い詰められながら単に“やってみなければ勝敗はわからず”式の開戦だった。」ではなく、「唯一の打開策に基づく戦争戦略」が陸軍にはあったことが解るように成ったと思う。そしてまた、その唯一の打開策に基づく戦略により開戦し、緒戦(第1段階)を戦ったのだが、その戦略の枠を大きくはみ出した第二段階の戦いこそが、惨敗を招いたのではないかと考えるようになった。
 因みに、『我が国が苦境を打開し、唯一選択できる戦略』とは「主敵は英国・支配するはインド洋・進攻方向は西」であった。だが史実は「主敵は米国・支配するは太平洋・進攻方向は東」であった。企画院の総力戦研究所の国力判断はこれまでに明らかにされて居たが、無謀な開戦だったのか否かへの明快な答えが得られないまま今日まで胸の霧は晴れなかった。だが、最近発刊された「日米開戦 陸軍の勝算」(林 千勝著・祥伝社新書)により新たに知り得た『陸軍省戦争経済研究班の最終報告書』に接し、「対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案」(昭和16年11月5日)の背景が明らかになった様に思われてならない。つまり、“日米開戦は自衛のために已む無く立ち上がったのであるが、決して無謀な挑戦ではなかった” だが、“基本戦略を逸脱して敗れた”という思いである。先輩たちは決して勝ち目のない無謀な戦いに臨んだのではない。残念ながら、“戦略の誤りを戦術や戦闘で補い言えなかった“ということではなかろうか。今後とも歴史の探求には微力を以て続けることにした。

真の復興に大事な善き精神
 代表的な日本人の一人に選ばれている「内村鑑三」は、「デンマルクの話」(岩波文庫)(1861年にデンマークがドイツ・オーストリアとの戦争にやぶれたが、50年後には豊かな国に復興した例について語った内容の一端)の中で、「戦いは敗れ、国は削られ、国民の意気鎖沈し、なにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値(ネウチ)は判明する。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民雄であり、国に幽暗(クラキ)の臨みしときに「精神の光が必要になるのである。」と『善き宗教・善き道徳・善き精神があれば国は戦争に負けても衰えないと述べている。
 風太郎の日記の戻ると、昭和48年2月の「あとがき」では、「私は今の自分を『世を忍ぶ仮の姿』のように思うことがしばしばある。そして日本人の今の日本人は本当の姿なのか。又30年程経ったら、今の日本人を浮薄で滑稽な別の人種のように思うことに他ならないか。いや見ようによっては、私も日本人も、過去、現在、未来、同じものではあるまいか。げんに『傍観者』であった私にしても、現在の抜きがたい地上相への不信感は、天性があるにしてもこの昭和20年のショックで植え付けられたと感ずることが多大である』。人は変わらない。そして、おそらく人間の引き起こすことも。」と結んでいる。
 掛かる観点から、日本人の善き宗教・善き道徳・善き精神について改めて考えてみるに、敗戦直後と戦後70年という平和を享受して来た末の現在を比べて観て、『日本人の特性』を垣間見ることが出来るようでならない。決して戦前に戻れというのではない。戦後長く続いた日本の歪を是正して、「日本を取り戻す」事が出来るか否かは国民の精神に掛かっており、為政者に託されていると言いたいのである。
 戦争にならないように抑止力を高めるのが今回の安保法制であった。戦争のための法案とまで言った野党、徴兵制に進むとも言った左翼マスコミの対応、“待ってました”と、ばかりの左翼市民。安保法制が国会で成立した後には、「安倍政権を支持した有権者達は政治を自分のこととして考えたことがあるのだろうか。猛烈に腹が立った。」と、ある作家の激高文を報じたM紙。「有権者に問いたい。昨年一二月の衆議院選は、熟慮の末の投票・棄権だったのだろうか」と報じたA紙等、(少数派の)民意という御旗を掲げて連呼した一部の新聞が民意を正しく観ることもできていないのに、「反対デモに賛同する者、或いは法案に反対する者のみが平和主義者だ」などとでも言いそうな少数派、性懲りもなくマスコミはこれを繰り返してきた戦後70年。日本人は騙され易い靡(ナビ)き易い民族なのか、もっと冷静に、論理的考えられないのだろうか。「その来たらざるを恃む事無く、吾の以て待つ有ることを恃む。其の攻めざるを恃む事無く、吾が攻むべからざる所有るを恃む」(孫子九変篇)こそ、安全保障における責任ある為政者や国民に与えられた名言である。安全保障法制を整え、自衛力を整え、同盟力の信頼性を高めて『備える』ことこそ抑止力を高め、自衛隊や国民のリスクを抑え、いざという時も「短期間に危機を処理できる対処力」を平時から整えて置くことであり、我が国民がとるべき選択である。
 再度孫子に求めるならば、『凡そ戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ』(孫子勢篇)という。「正」とは正々堂々の備えを言い、「奇」とはその備えを以て国際環境などの情勢の変化に応じて対処することをいう。“正無き所に奇は生まれない”ともいえる。更に言うならば、近代以降の日米・米中関係を顧みるに、米国は日中との関係で大きな間違いを犯した結果、アジアに巨大な共産国家を生み出し、そしてこれを巨大な経済大国軍事大国にしてしまった。更に又IMFにおける中国通貨(元)のSDR化に関しても主導権を発揮しようとしている。これ等は全て米国や欧州主要国の都合上の政策であり決して我が国にとっての利益には成らないだろう。掛かる観点から、安全保障においても米国頼りを必要条件の一つとするも自主的な努力を怠って成らないのである。『正』とは自立や自主も伴ったものでなくてならず“張り子のトラ“であってはならないのである。
 だが、「反対・反対の少数派」は、「正」なる備えすら不要と言わんばかりに、あたかも多数派を装いつつ、法廷に持ち込むと共に、先ずは次の参議院選挙に持ち込むであろうが、民主主義の手法として議院内閣制を採る限りは、選挙では勝たなければならない。

おわりに
 我が国は真の意味で大東亜戦争の総括をしていない。とはいえ、戦後70年を経た今日それを総括することは容易ではない。先ずは6年8ヶ月の被占領下で経験したことが、戦後の日本人を支配し、日本人の歴史観や価値観のベースとなってきたことに徹底して気付き、歴史観の歪を正しながら敗戦に関する総合的な分析を行って置かなければ先に進めないのである。更に言えば、戦後歪められた歴史観に基づく所謂 「○○善玉論・××悪玉論」 という決めつけから正さなければならないということである。そのためには正しい知識が不可欠であり、公開された資料だけでは真実へはたどり着けないかも知れないが、未公開の資料となれば何時迄にどれ位の新たな資料が明らかになるかは不透明である。だが、最近までに明らかになった資料だけでも、戦後定着していた史観の一部でも覆すには十分とも思われるものある。従来の「陸軍悪玉・海軍善玉」に関してはかなりの部分で少なくとも「陸海軍痛み分」までは辿り着けたのかも知れない。だが、国を超えた問題では、「歴史観は国の数だけある」という現実があり、外国相手にこれを共有する等は論外であるものの、国内には歪んだ史観を自ら発信し続けるグループがあるのも事実である。自ら己の国を貶めているのである。所謂“獅子身中の虫”と言っても良かろう。これ等のグループは、サンフランシスコ講和条約締結にも反対し、60年安保にも反対してきた。教科書問題も慰安婦問題も引き起こした。そして今回の安保問題では憲法違反・徴兵制・戦争法案等を駆使して煽り、『サイレントマジョリティー』まで巻き込んで安倍政権への不信(感)へと扇動した。更に性懲りもなく参議院選に向けた安保法破棄活動に『ノイジーマイノリティー』が騒ぎ出している。複数の隣国が新たな戦い『歴史戦』を挑んできているが、これ等のグループは国内外において、これからも、これ等への協力活動を展開するだろう。これ等のグループの人達の『誇り』とは何だろう。先祖や父母、そして我が子達の祖国を貶めることに気付いているのか? 或いはそれが誇りなのか。だが、私は、『英霊に敬意を』払い、『国に誇り』を持てる小国民として、細々ながら歴史の歪を正す行動を続ける。そのためにも、史実を正しく観ることのできる知識を追い求めることに躊躇せず、「国の誇りとは」を問い続けながら、国民の休日には国旗を掲げ、孫や子供会の児童達に対して、休日や国民的行事等の意味を語り、併せて情緒的・ステレオタイプの「シュプレヒコール」に代えて、「8月15日には靖国神社にて英霊に敬意と感謝の心を込め」ながら、静かに英霊の声に耳を傾けることを選ぶ。終わり。