ロシアにおける国際会議に参加して

山崎 眞

はじめに
 昨年7月初め、ロシア科学アカデミーに所属する友人から突然のメールがあり、10月にウラジオストックにおいて開催を予定している国際会議(21世紀におけるアジア・太平洋の安全保障)に参加していただけないか、とりあえず参加可能か否か知りたいということであった。添付書類として会議の概要が付いていたが、主催者がカーネギー・モスクワ・センターであり、ロシア・中国・米国・豪州・日本・韓国が参加するということ以外、その詳細については不明であった。ただ、管理事項として航空賃・宿泊費等の経費は全てロシア持ちということであった。
 これに釣られた訳ではないが、古くからの友人の打診でもあり、ロシアが開催する安全保障関係の国際会議ということに興味をひかれたので、とりあえず個人としての参加なら可能という返事を出した。その後は、カーネギー・モスクワ・センター(以下CMCと表記する)の担当者との詳細打合せに入り、まず私の発表題目の調整をした。
 会議の趣旨等から「日本の海洋戦略(Japan’s Maritime Strategy)」について述べるのが適当と考え、先方に打診したところOKの返事が来た。使用言語はロシア語か英語のみということなので、英語によることとして原稿を作成したが、やはり拙い英語では理解困難な面もあるだろうと考え、多国籍の聴衆の理解を助けるためにパワーポイントを使うことにした。様々な写真や図を使用し、英語で表記するのは私単独では時間的にも無理があるので、恐るおそる海幕指揮通信情報部長大塚将補に電話したところ、そういうことならと即座に快諾をいただいた。私は、既にある英語の説明資料を組み合わせていただければと考えていたが、大塚部長には、御多忙中にもかかわらず山下防衛部長とも調整されて、素晴らしいパワーポイントの資料を作成していただき、大いに感激した。
 次に出入国手続きに入ったが、これが意外に面倒で、ロシアはビザが必要でこれの取得には行く先からの公式招待状がなければならないということであった。退官後の2000年と2001年に、現役時代に友達となったロシア海軍太平洋艦隊司令官ザハレンコ大将の招待により夫妻でロシアを訪問したことがあるが、その時はロシア海軍の威力によりこれらの手続きは一切不要であった。(2000年は、当時護衛艦隊司令官であった勝山海将、2001年には退官したばかりの藤田前海幕長夫妻と一緒であった) CMCが送ってくれた公式招待状を持参して狸穴のロシア大使館で申請をすると、1週間後にパスポートをとりに来いということであった。OBとなってからこれまで仕事や国際会議等で数十回海外へ行ったが、自分でこのような手続きをしたのは初めてであった。日本からは、私の他に河東哲夫氏(元ウズベキスタン大使)が参加されることが分かったがお目にかかったことがなく、在モスクワ防衛駐在官の新田1佐から氏のバイオを教えていただいた。いよいよ出発となり、10月15日午後、成田空港の遥か外れにあるウラジオストック航空の待合室にたどり着いた。飛行機は予想に反して真新しいエアバスA300で、2時間余りの飛行を快適に過ごした。ウラジオストックとの時差は2時間である。

ウラジオストック
 10月15日夕刻、予定どおりウラジオストック空港に到着した。空港の建物はすっかり新しくなっており、12年前に行ったときとは全く違っていた。CMCの担当者が出迎えに来てくれており、その場で河東元大使に初めてお目にかかった。CMC担当者の運転する車は、先月のAPECに間に合わせるため突貫工事で完成させたという長さ10キロメートルのアムール湾大橋を渡ってウラジオストック市街に入った。空港から約50分のドライブであった。この間、河東元大使との会話が弾んだが、大使からは予想外に海上防衛や海上自衛隊に関することの質問攻めで、その要点を掴んだ質問には敬服した。宿舎は、予め連絡をもらっていた韓国系ホテル・ヒュンダイであった。ウラジオストックの中心部に位置する一流ホテルである。部屋は、通常の米国式ホテルの造りで、トイレは韓国製ウオッシュレットだった。当夜は、河東氏の友人であるS商事のウラジオストック所長との会食に同席させていただいた。ホテルの横にある真新しい感じのするイタリアンレストランだったが、以前ウラジオストックに来たときにはこのようなレストランは皆無であった。経済発展があり、APECにも備えて市街の近代化が急速に進んだのであろう。会議中にも、ウラジオストックは今後も多くの投資がなされ中心都市になるという発言があった。プーチン大統領がAPECの開催地にウラジオストックを選んだのは2007年だという。これに合わせてロシア政府は極東開発の一大プロジェクトを組んだ。APECはこの一部を成すに過ぎない。このための経費は2兆円に近い。またAPEC関係の建設工事のための労働力は、中国や北朝鮮から数万人を採用したという。ロシアがこのような巨額の経費をかけて極東開発に踏み切ったのはまず、後に会議にも出てくる貿易である。エネルギー資源の対EU向け輸出は債務問題により頭打ちとなり、極東へシフトする必要がでてきた。もう一つはヨーロッパ方面と極東との格差の是正であろう。ウラジオストックの市街から登れる高台からは、眼下に巨大な斜張橋が見える。これが金角(ザラトイログ)湾横断橋である。さらにその遠方にはもっと大きい橋桁が見える。これがAPECの開催地ルースキー島へ渡るためのルースキー島大橋である。ザラトイログ横断橋が長さ1900メートルなのに対してルースキー島大橋は3100メートルある。斜張橋の橋桁は300メートルの高さを誇る。ルースキー島はかつて金角湾と同様それ自身が軍事機密であり、立入禁止区域であった。現在は、そこで国際会議を行うまで解放されたのである。日本企業は、橋の事業において、最新技術の適用について参画したということである。エネルギー資源については、日本はサハリンの石油・ガス開発に8B$を投資し、ロシアから国内消費量の約10%を輸入するに至っている。但し、ロシア極東の港は、殆どが私有であり、ウラジオストック港もクレーンが私有物ということで、貿易も儘ならない面があるということである。それでもホテルのロビーでは、木材等の商業活動で訪れた日本企業の面々を多数見かけた。

国際会議
 10月16日、いよいよ国際会議の開催である。会場は宿泊しているホテル・ヒュンダイであった。会議のチェックインをして会場へ行くと、かなり広い部屋に巨大なスクリーンが準備され、今回の議題である「Asia-Pacific Security in 21st Century」の文字が写されていた。部屋の一角には同時通訳のブースがあった。同時通訳のサービスはロシア語・英語のみであった。会場のセッティングはこれまで米国等で参加した会議とほぼ同じであった。参加国はロシア、米国、豪州、日本、中国、韓国であり、参加者(発表者)は、私を除きすべて学者及び外交官であった。30人は座れるU字型のテーブルに河東元大使と着席し時間を待った。伊藤伸彰在ウジオストック総領事もオブザーバー参加をした。テーブルの後方には椅子席が用意され数十人の聴講者が着席した。間もなく、会議の主催者であるCMC所長のデミトリ・トレーニン氏が我々の所に表れて快活に話しかけた。極めて流暢な英語であった。彼は、現在ロシアの著名な政治学者であるが、元は軍人である。
 CMCは、米国に本部を置くカーネギー財団のモスクワ支部であり、1993年に設立された。ロシア及び旧東欧で顕著な研究・分析等を行っているロシア唯一の本格的シンクタンクである。今回は、CMCとロシア科学アカデミーが中心的役割を果たした。開催に当たってロシア科学アカデミーのビクター・ラーリン所長が挨拶を述べた。その主旨は、アジア・太平洋は今センターステージに立っており、もはや第2線ではないこと、時代が変わりアジア・太平洋の協調が重要になってきたこと、しかしながら先般のウラジオストックAPECにより何が残ったのか分からないこと、アジア・太平洋において今後ロシアの果たすべき役目は何かなどについてであった。
 会議は、4つの連続したパネルから成り、「パネル1」の議題は「アジア・太平洋地域における21世紀の安全保障についての見方」であり、その討議項目は、①アジア・太平洋地域の国々の安全保障に対するチャレンジは何か? ②これらのチャレンジの方向性についてどのような変化が起きつつあるか? ③これらのチャレンジにどのような優先順序をつけるか? ④アジア・太平洋地域の安全保障の見方と世界の安全保障の見方をどのように関連づけるか? ⑤アジア・太平洋の安全保障は国際関係の何処に位置づけられるか? であった。
「パネル2」は、「アジア・太平洋の安全保障に関して、各国は如何なる安全保障政策をとっているか?」であり、その討議項目は、①アジア・太平洋各国は国家安全保障のチャレンジに如何に対応しているか? ②国家間の考えにどの様な相違があるか? ③アジア・太平洋各国間の緊張と紛争の理由は何か? ④この様な緊張はどの様にして除去できるか? ⑤緊張を和らげられなかった時、紛争の結果はどうなるか? であった。このパネルにおいて、私が「日本の海洋戦略」についてパワーポイントを使用して発表した。重点事項は、1998年以来、ロシア海軍と海上自衛隊は友好関係を維持し、共同訓練も実施していること。リンパック12に初参加したロシア艦隊が、8月から9月にかけて舞鶴を訪問したこと、動的防衛力等防衛大綱の考え方と内容、日本の海洋権益、兵力整備の考え方、海上自衛隊の国際的活動等とした。ここで、海洋権益に関連して領土問題に対する我が国の主張についても発言した。
「パネル3」は、「北東アジアにおける安全保障要因としてのロシアのエネルギー資源」であり、その討議項目は、アジア・太平洋における価値ある安全保障部分となるエネルギー分野において如何にして協調を成し遂げるか? エネルギーの供給者と消費者の利益を如何にして調和させるか? これに関して、ロシアの役割と責任はどのようなものか? であった。
 最後の「パネル4」は、翌17日に場所を変えてホテル・ベルサイユにおいて開催された。ヒュンダイと違い歴史を感じさせる重厚なホテルであった。会場は、少し狭くなったがホテル・ヒュンダイと同様のセッティングであった。
「パネル4」の議題は、今回の会議の最終目的とも言うべきもので、「アジア・太平洋の地域安全保障フレームワークに向けて」であった。討議項目は、①アジア・太平洋地域のために包括的な地域安全保障フレームワークが必要か? ②このようなフレームワークを作ることが現実的か? ③これはどの様なものでどの様な機能を持つものか? ④EASI(Euro-Atlantic Security Initiative)の経験が良い事例になるか? ⑤アジア・太平洋地域において如何にしてスタートできるか? であった。
 会議は、1日半をかけて順調かつ活発に経過した。この間、昼食会と夕食会が開催され、昼食会においては在ウラジオストック米国総領事のスピーチがあった。夕食会は金角湾内を一望できる見晴らしの良いレストランにおいて開かれたが、ロシアではつきもののウオッカによる乾杯合戦は無く、ワインとロシア料理を中心にした極めて和やかな懇親会であった。会議後、17日午後には市内のバスツアーがあったが、私はこれには参加せず、10年来の友人であるポルートフ博士夫妻、ソツコフ元海軍少将と市内見物、会食をエンジョイした。ここでは、昼間からウオッカの一気飲みをやって思い出話に花を咲かせた。ソツコフ少将がアイホンでモスクワに在住しているザハレンコ大将を呼び出してくれ、久しぶりに彼の豪快な笑い声を聞くこともできた。
 会議における各国の発言は、それぞれの国の立場がうかがえる大変興味深いものであった。ここで個々の発表・発言を挙げる事は出来ないが、今回の会議のまとめは、次のようになる。

  • 2012年のロシアAPECは、単なる政治的アピールの場であり、中身はなかった。
  • 中国とロシアの同盟については、レシピがない。
  • 中国とロシアは戦略的パートナーであるが、それがどのようなものかは依然として模索中のままである。
  • 中国の極東ロシアへの経済的進出、人口流入、軍事的増強等に対して、ロシアの警戒心が強い。
  • 中国は軍事力を増強し、拒否的なアクション・リアクションを繰り返しつつあるが、これは危険なサイクルである。「近接阻止・領域拒否(A2/AD)」は軍事衝突の危険性を増している。
  • 米国と中国の間の軍事チャンネルは後退しており、冷戦時と同じ接触である。現実には戦争に向かっている。
  • 米国、中国共に「米中軍事関係の構築」が安全保障上の鍵であり、アジアの安全保障の将来を決めるという認識である。
  • 中国は、米国に対しては軍事的協調、ロシアに対しては平和的協調を唱えており、ロシアと同様に国境での脅威の存在を感じている。
  • 北朝鮮の新戦略、外交上のアプローチの変化について、各国が注目している。
  • 中国は、6か国協議を開催し、北朝鮮を招くのがよいと考えている。
  • ロシアは、債務問題によりEUでのエネルギー資源の輸入が減少したことにより、アジアへエネルギー市場を転換した。
  • ロシアは、日本に対するエネルギー資源の輸出拡大に期待している。
  • 日本の石油・ガスの国内消費量の約10%はロシアから輸入するに至っている。
  • 今回、ロシアが開催国であるにも拘らず、ロシアの安全保障についての発表がなかったことは残念であった。
  • ただし、ロシアはアジア・太平洋の安全保障について、もっとアクティブになり、何らかの役割を果たし存在感を強めることを望んでいる。
  • 今回のような安全保障に関するオープンな国際会議をロシア主催で開催したことは、それ自身大きな価値があったものと考える。

 

あとがき
 会議がつつがなく終了し、10月18日朝帰国の途についた。帰りも幸い河東元大使と一緒の便であった。CMCが準備した車で再びアムール湾大橋を渡ってウラジオストック空港に着いた。準備された航空券は、帰りは来た時と違って成田直行便ではなく、ハバロフスク経由の便であった。車中で、河東元大使はハバロフスク経由と知ったときはやや不安を覚えたと言われた。というのは、氏は過去にロシア国内便で何度も散々な目に遭ったというのだ。6~7時間の遅れはザラであり、その説明のアナウンスもなくただじっと我慢して待つしかないということだ。我々の便はハバロフスク空港で4時間待ちとなっていた。ウラジオストックからは定刻に到着し、いざ乗換の段になると何処へ行けばよいのか表示がない。勿論英語の表示も全くない。私はロシア語が読めないから元々何も分からない訳であるが、河東元大使が女性の係員に流暢なロシア語で聞いても要領を得ず、ただ遠くを指差して「あっち」というだけである。ソ連時代の面影を残して、しゃべるのも超過勤務という感じである。河東元大使の長年のロシア感で、恐らくあの建物だろうということで、教会のような形をした水色の特徴ある建物に向かって2人でスーツケースを引っ張りながら凸凹道を歩く事数分、その建物には人の気配がなかったがガラスドアを思い切って開けてみると確かに成田行きの受付があってホッとした。荷物のチェックをする女性の武装した係員たちは意外とにこやかで愛想が良かった。若干の椅子があったのでチェックイン開始まで小一時間暇をつぶし、チェックイン後は待合室で待機した。簡単な売店もあった。3時間程待つ間に、青空がにわかに暗くなり吹雪が吹き出した。流石にハバロフスクはもう寒かった。この間、また大使との会話が弾んで時間を持て余すことはなかった。天候も回復して、成田行きA300は定刻に離陸した。4日間のロシアでの出来事を思い返しているうちに疲れが出たのか深い眠りに落ちていた。
(終)

日本代表団
日本代表団
金角湾横断橋
金角湾横断橋
国際会議場
国際会議場