特攻の母 鳥浜 トメ

ホタル館 富屋食堂
館長 鳥浜 明久

 悠久の煙を噴き上げる桜島の麓、60万都市鹿児島市は、南九州の最大の都市であります。その鹿児島市より、南へ車で1時間どこまでも続く曲がりくねった山道を走ると、知覧と言う小さな山間の町があります。68年前この小さな町には、陸軍最大の特攻基地がありました。

トメと特攻隊員

 4月1日沖縄に、上陸したアメリカ軍に対し爆弾を積みこんだ飛行機にて、艦船に体当たりをするという、人類史上類のない作戦が、行われたのです。知覧を中心とする陸軍887機、鹿屋を中心とする海軍940機、沖縄戦だけで3千名を超える若者たちが、沖縄へと出撃帰らぬ人となりました。
 そんな知覧特攻基地の近くに、特攻隊員から母親のように慕われた女性がおりました。軍の指定食堂富屋食堂の女主人「鳥浜トメ」。実はトメの食堂は、昭和17年知覧に出来た、飛行学校の指定食堂になり、空に憧れた少年達のお世話をしたのがきっかけでした。ふるさとを遠く離れた少年達にとって、当時40才のトメが母親のように思えたのです。少年達はトメを「お母さん」と、呼び慕っておりました。そして、立派に成長飛行兵となり戦地へと、旅立って行ったのです。

 ところが、昭和20年3月立派に成長した、かつての少年達が知覧へ帰って来たのです。顔つきは変わり、二十前後になっていました。みんながトメの食堂に、会いに来てくれました。しかし、厳しい戦いを経験し生き残った若者達の任務こそが、特攻攻撃隊だったのです。特攻隊員の出撃は軍の機密、両親にさえも居場所を伝える事はできなかった。しかし当時、大本営陸海軍部は特攻隊員を「軍神」としました。いずれ本土上陸を、目指すアメリカ軍に対し「本土上陸を許してはならない。特別攻撃隊は、軍神としてにっこり笑って機上の人となった。我々国民も一億総特攻軍神に続け。」と。国民を戦意高揚させたのでした。

勝又勝男少尉

 富屋食堂を訪れた勝又勝男(21才)は、最後にトメにこう言い残しております。「おばちゃん、俺は沖縄に行く。そんなに、泣かないで喜んで見送ってくれよ。日本は勝つ、だって俺の名は、勝又勝男だよ。俺が、行くんだから必ず勝つから。心配しないでくれよ。人生50年というから残り30年、おばちゃんにあげるよ。だから長生きをして、将来の日本に僕達の姿を、伝えて言ってくれよな」と、トメの涙は止まることはなかったのです。勝又少尉は、翌日沖縄の海へと散って来ました。

中島豊三軍曹

 特攻隊員はトメにだけは、真実を語りました。中島豊三軍曹は、軍用トラックで知覧に着いた時、富屋食堂の前でトメを見つけ大喜び、トラックを飛び降りたのです。その時、右腕を負傷、出撃の延期を言い渡されました。しかし、知覧教育隊時代からの戦友、松本軍曹と「どうせ死ぬなら、一緒に行きたい」と、願いました。しかし松本軍曹の出撃は決定、中島軍曹は富屋食堂の中で1人泣きじゃくりました。そしてトメにこう言っています。「早く行かなければ、日本は負けてしまうよ。沖縄は、大変な事になっているんだよ。」すると、松本軍曹はエンジン不調により帰ってきました。中島軍曹は近くの、自転車屋からチューブを買い、右腕をかばうように首から操縦桿へ巻きつけ、松本軍曹とともに出撃して行きました。トメは、「俺達の出撃を両親に伝えてくれ」との二人の願いを聞き、ご両親様に手紙を書くことにしました。出撃地を知らせる事は、スパイ行為、見つかれば、どうなるかそれでもトメは「ご両親様、最後に何を食べたいかと尋ねると、しいたけと卵の吸い物が食べたいと、申しましたので、喜んで食べてもらいました。無事出撃いたしました。鹿児島の知覧という飛行場より」と。卵もお米も貴重品でした。トメは若いころから集めた、着物やタンスを売り、卵やお米に替えたのです。せめて最後に、好きな物を少しでもと。

穴沢利男少尉

 アメリカ軍の攻撃は激しく何度も帰ってくる、特攻機も続出しました。穴沢利男少尉も、その一人でした。そんなある日、知覧高等女学校の生徒(なでしこ隊と呼ばれ特攻隊の兵舎片づけ洗濯等をしていた。)に、ひそかに手紙を渡しました。「これを郵便で出してくれ」と、なでしこ隊の中にはトメの次女「礼子」もいました。基地内から一切書類も、持ち出してはならぬとの命令を、少女達はやぶったのです。

穴沢利男少尉と智恵子さん

 その手紙は、婚約者智恵子さんへの手紙でした。特攻隊員は軍神です。女性への未練も、生きることへの未練も、捨てなければならないのです。その頃智恵子さんは、東京から穴沢少尉を追いかけ、東京から宮崎・都城基地まで、追いかけて来ていました。都城基地の門兵に聞くと、その部隊は出撃したと言われ、泣きながら南の海へ手を合わせ、東京へと帰って行ったのです。しかしその時、穴沢少尉は知覧にいたのです。5度目の出撃でした。なでしこ隊の少女達桜の小枝を振る中、穴沢少尉は出撃、帰らぬ人となりました。

桜を振り見送るなでしこ隊

 東京へ帰った智恵子さんに、手紙が届いていました。軍の検閲を逃れた、少女達が命をかけて民間の郵便で出した手紙でした。「智恵子 穴沢はもはや、この世には存在しない。俺のことは忘れて新活面を見出し、明るく朗らかに暮らしていって欲しい。俺はそのために行く。一つだけ、わがままを言いたい。会いたい、話したい、智恵子 俺は、笑って行く。お前の笑顔を願いながら。さらば、智恵子よ」
 トメは、語りました。「笑って行った人など1人もいない。愛する人と暮らしていたかった。でも、もはや本土上陸目前だったから、愛する人を守るんだと、私にはっきり言ったよ」と…

上原良司少尉と手紙

 長野県出身の上原少尉は、トメに食堂で「日本は、負けるよ。近いうちにね」と。上原少尉はいわゆる特攻隊員が書く「一撃轟沈・皇国必勝・悠久の大儀」という、遺書を書くことを拒否し、ひそかに報道隊員に、7枚の手紙を渡しています。「自由な国の勝利は明らかです。日本が負ける事は、国民の方々にとっては、とてつもない事が、訪れますが、しかし私は嬉しい。早く負けて、自由で闊達な国に、生まれ変わってほしい。特攻は一機械です。そんな私に、何も言う権利はありませんが、愛する日本を偉大な国へと導いてくれることを、国民の方々に願うばかりです。明日は自由主義者が、この世から去っていきます。彼の後ろ姿は寂しいですが、心中満足でいっぱいです。さらば、永遠に」上原良司少尉は、日本が負ける事を知りつつ、将来の日本の平和を願って出撃したのでした。

藤井一中尉と奥さんと子供

 そんな中、若者達を送り出した、飛行学校の教官も、志願しました。教え子達だけ、行かせるわけには行かぬと。29才藤井一中尉でした。しかし、却下されます。操縦を教えていたわけじゃなく、当時の軍人精神を教えていたからです。「飛行機に乗れない特攻隊員などあるか」と….それでも志願、中尉には妻も子もおりました。ある日、妻福子さんは、夫の特攻志願を知り泣いてすがりついて、反対しました。「俺が、行かずにどうする。本土上陸を許せば、お前達もこのままでは守れなくなる。今しかない。わかってくれ」と。奥さまは、夫のあまりにも固い決意を知り、生後4カ月の赤ちゃんと3才の2人の女の子に、晴れ着を着せ「私たちが生き残っていては、心残りになるでしょう。お先に行って待っています。」と、近くの荒川の橋から身を投げました。

知覧飛行学校の教官と教え子達

 翌朝、妻と子の冷たくなった遺体が発見されました。指先を、切り裂き血染めの志願書を軍に提出。操縦のできない教官が、教え子の隊長に任命され知覧へと、転属。教え子達に「いざこの国を守らん」と、訓辞し、二人乗りの飛行機の後部座席にのり、沖縄へ知覧を離陸。最後の電文が入っております。「我が突入せり」と、宛先のない手紙が残っていました。それは国の為とか一言もない、亡き我が子への手紙でした。


藤井一中尉の手紙

 「荒川の河原の露と消えた、お前達の命が愛おしい。父も近く戦地で、立派な手柄を、立ててからお前らの所へ帰ってきます。今度こそ、お父さんの温かい胸で抱っこしてねんねしようね。一子ちゃんも千恵子ちゃんも、お母さんの事をよく聞いて、少しだけ待っていてちょうだいね」教え子達の命の尊さ、そして妻や子を守ろうとした中尉の最後でした。


宮川三郎軍曹とトメ

 6月になるとアメリカ軍は、ほぼ沖縄を攻略。6月5日新潟県出身の宮川軍曹はトメに言いました。「おばちゃん短い間だったけど本当にありがとう。明日、出撃します。でも又、おばちゃんの所へ帰って来ます。ホタルになって帰って来るから、その時は『宮川、来たか』と、追わないでくれよ」と。目に涙を浮かべ、トメに遺品を渡すと灯火管制の、暗闇へと消えて行きました。そして6月6日の夜、富屋食堂に一匹のホタルが飛びこんで来ました。トメは、叫びました。「このホタルは、宮川三郎さんですよ。同期の桜を歌って下さい。」と。出撃を待つ特攻隊員、トメと娘達と、みんなで泣きながら同期の桜を歌ったのです。


富屋食堂

 そして、6月11日を最後に組織的な特攻作戦は、中止され本土上陸用の特攻が、準備されました。南九州の特攻基地もアメリカ軍の空爆により、多くの被害を出し、アメリカ軍が上陸してくるとのうわさが広がり、トメも死を覚悟しました。

 それからわずか2カ月後、日本は、敗戦国となったのです。「『愛する人を守るんだ』と、若者達は私にはっきりと言いました。彼らが最後この国を、守ったのです。」トメは、1人飛行場跡に、木の墓標を立て、祈り続けました。そして10年が過ぎ、昭和30年知覧特攻平和観音堂が、建立されましたが、訪れる人はなく、私達鳥浜家の参拝の日々は何十年も続きました。そして、全ての真実を、私達 孫に伝えると、平成4年4月22日89才でこの世を去って行きました。

開聞岳とトメ

 今、現在日本は、表面上自衛隊の守る平和な国となっております。しかし領土問題は、一発触発の可能性もあり、海外での邦人へのテロ、北朝鮮のミサイル問題など、我が国を守るという、自衛隊の真の活動が大きく制限されております。戦争は二度と繰り返してはなりません。自衛隊の一つの命も失ってはなりません。若くして命を散らした特攻隊隊員、そして300万人を超える戦没者の為にも。我が国の自衛隊という組織がより以上安全に迅速に行動出来るよう法律や憲法の改正が、必要な時が来ているのかもしれません。過去の過ちを、絶対繰り返さぬ為にも、トメと暮らした31年間、全てを伝えられた私は、これからも語り継いでまいります。今、現在「富屋食堂」は資料館として、生まれ変わりトメの残した、検閲を逃れた写真・手紙が展示されております。我々日本人の真実を、知らなければならないのです。命の尊さ・戦争の愚かさを教えてくれた、過酷な時代に、生き死んで逝った若者達の為にも。

ホタル館 富屋食堂

館内で説明をする館長