史料紹介―最後の御前会議における昭和天皇御発言全記録

元陸上自衛官 中垣秀夫

 本稿は、大東亜戦争の終戦を決定した鈴木内閣の内閣書記官長(現在の内閣官房長官)であった迫水久常(さこみづひさつね)氏が戦後(昭和30年5~6月)語った内容を昭和天皇崇敬会がまとめたものを紹介するものである。

 原本というかオリジナルテープは国会図書館に所蔵されており、正規の手続きを踏めば閲覧可能であるが、一般の国民には仲々アクセス困難である。一方、同趣旨・同内容の出版物が幾種類か出ているので、多くの国民は断片的には見聞の機会があるとも考えられる。しかしながら、今回の内容は現場の緊張感・臨場感に溢れた心を打たれる貴重な資料である。せっかくの機会なので、改行や旧仮名遣いや現在の表記法では誤記に当る記述等を原文のまま忠実に、全文を紹介したい。併せて、せっかくの機会なので、本件にかかわる関連資料や注釈・現代語訳を加え、本件総括資料としてまとめておくこととする。

終戦に対する八月九日の御前会議の状況と大御心の有難さ

 最高戦争指導会議におきましては、議論は二つに分かれたのであります。即ちポツダム宣言を無条件に受諾してここに戦争を終結すべしという意見と、このまま本土決戦を覚悟して戦争を継続すべしとの意見が対立したのであります。
 この決戦論者も唯連合軍側がその時のままの状況で停戦し、我軍隊も無条件降伏という形をとらず、それぞれの地点から自発的に撤退復員することで満足し、保障占領軍も我本土に上陸せず又戦争裁判を日本国の手によって行うことを承知するならば、戦争をやめてもよいというのでありますが、それは出来ない相談でありますから、結局戦争を継続するというわけであります。閣議に於いては経済関係閣僚からそれぞれ国内の経済力、軍需力の話がありいずれも戦争終結を主張されましたが、内務大臣はここで戦争をやめるとなると、右翼が騒動を起す恐れがあって国内治安が心配であるといい、又阿南陸軍大臣は関東軍は遺憾乍ら対ソ戦を実行する力なく、このまま推移せば二ヶ月にて関東軍は全滅するだろうと言われました。
 この間に、長崎に第二回目の原子爆弾の攻撃が行われました。閣議は午後八時に至るも議決しませんので一応休憩しました。
 この時総理は私をおよびになり、どうしょうと御相談がありました。私は「誠に懼れ多いことと存じますが、陛下の御聖断を得て事を決する外はございますまい」とお答えいたしますと、総理は「実は自分もそう考えて今朝拝謁しましたときに、いよいよの場合は陛下にお助けを願いますということをお願いして来た」と言われます。私は総理の用意の良さ、陛下の有難さに感激致しましたが、偖て(さて)問題は陛下の御聖断を如何なる方法で受けるかということであります。
 即ち総理が参内してそこで陛下の思召しを伺つて、大臣その他に伝えるのも一つの方法でありますが、そういうことをすると、陸軍の若い人達など総理はうそを言っているといって、どういう事態が起こらないともがぎらない、と思いましたので懼れ多いと思いましたが、御前会議を開いてその席で御聖断を承るようにしようと決心しました。
 所が御前会議を開く為には、陸軍参謀総長、海軍々令部総長の同意を必要とします。両総長は政府及び軍の意見が統一しない限り、御前会議を開くべきではないといって同意が得られません。私は当惑しましたが遂に強引な手段を取りまして、半ば両総長をだますようにして二人の署名花押をとり、御前会議を開くこととしたのであります。
 御前会議は八月九日夜十一時から開かれました。
 列席者は総理・外務・陸軍・海軍の四大臣、陸軍参謀総長・海軍々令部総長、平沼枢密院議長の七名が正規の構成員でありまして、陪席員は私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計画局長官の四名、合計十一名でありました。
 会議場は宮中防空壕内の一室で約十五坪程のお室でありました。地下十米であります。
 一同席について陛下をお待ちしました。
 陛下は足取りも重く、お顔は上気したる如くにて、入って来られました。
 今も深く印象に残っておりますのは髪の毛が数本額に垂れておられたことです。
 会議は総理が司会致しまして、先ず私がポツダム宣言を読みました。日本に耐え難い条件を読むのでありますから全く堪らないことでした。次に外相が指名されて発言しました。その論旨はこの際ポツダム宣言を受諾して戦争を終るべきであるということを言葉は静か乍ら断乎申されました。
 次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、荘重に涙と共に今日迄の軍の敗退をお詫びし、併し今日と言えども、必勝は期し難しとするも必敗ときまってはいない、本土を最後の決戦場として戦うに於いては、地の利あり人の和あり死中活を求め得べく、若し事志と違うときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると存じます、と言われました。
 次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意でありますと言われました。
 平沼枢密院議長は列席の大臣、総長にいろいろ質問されたのち、外相の意見に同意であると言われました。
 参謀総長・軍令部総長は略ゝ陸軍大臣と同様の意見であります。
 この間約二時間半陛下は終始熱心に聞いて居られましたが、私はほんとうに至近の距離で陛下の御心配気なお顔を拝して涙のにじみ出るのを禁じ得ませんでした。
 一同の発言の終ったとき、私はかねての打合せに従って総理に合図致しました。
 総理が立ちまして徐ろに「本日は列席者一同熱心に意見を開陳致しましたが、只今まで意見はまとまりません。とかし事態は緊迫して居りまして全く遅延を許しません。誠に懼れ多いことでは御座いますが、ここに天皇陛下の御思召しをお伺いして、それによって私共の意見をまとめ度いと思います。」と述べられ静かに歩を移して陛下の御前に進まれました。
 その時阿南さんはたしかに「総理」と声を掛けられたと思います。併し総理はおきこえになったのかおきこえにならなかったのか、そのまゝ御前に進まれまして丁寧に御礼をされまして「「只今お聞きの通りで御座います。何卒お思召しをお聞かせ下さいませ」と申し上げました。
 陛下は総理に対し席に帰って煎るやうにと仰せられましたが、総理は元来耳が遠いためによく聞き取れなかったらしく、手を耳にあてて「ハイ」という風にして聞きなおしました。この間の図は聖天子の前に八十の労宰相君臣一如と申しますか何とも言えない美しい情景でありました。
 総理は席へ帰えりました。
 天皇陛下は少し体を前にお乗り出しになるような形でお言葉が御座いました。緊張と申してこれ以上の緊張は御座いません。
 陛下は先ず「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。
 その一瞬を皆様、御想像下さいませ。場所は地下十米の地下室、しかも陛下の御前。
 静寂と申してこれ以上の静寂はございません。
 陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような気がしました。
 次の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
 建国二千六百余年日本の始めて敗れた日であります。
 お言葉はそれで終りかと存じました。然るに陛下はしぼり出すようなお声を以って「念のため理由を言って居く」と仰せられました。
 このことは私今日まで公開の席で申し上げたことは御座いませんが、今日は申し上げます。
 陛下の次に仰せられましたことの要領は次の通りであります。
 大東亜戦争が初まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆んど出来ていないようである。又先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有様である事が判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が将来再び起ち上って貰う外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまゝ戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である。
 陛下のお言葉は人々の号泣の中にとぎれとぎれに伺いました。日本国民と更に世界人類の為に自分のことはどうなっても構わないという陛下の広大無辺なる御仁慈に対し、唯ひれ伏すのみでありました。
 陛下のお言葉は更に続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者に対するお心持、又遺族の事更に外国に居住する日本人即ち今日の引揚者に対して又戦災に会った人に対して御仁慈の御言葉があり、一同は又新に号泣したのであります。陛下のお言葉は終りました。
 総理は立って陛下に入御を奏請し陛下はお足取りも重く室をお出になりました。
 後に残りまして一同は協議致しまして、陛下のお思召しに従い、ポツダム宣言を受諾する方法によって戦争を終結することとし、唯一つ米国側に対し「このポツダム宣言の諸条件の中には、天皇の国家統治の大権を変更する要求は、これを含まないものと諒解するが、この点について明確なる返事をして欲しい」という留保をつけて「ポツダム宣言を受諾する用意がある」旨を中立国を通して、連合国に通知致すことにしたのであります。即ち国体護持を唯一の条件として、終戦を決定したのであります。

八月十四日の御前会議の経過と天皇陛下の御発言

 さてこちらから十日の早朝打ちました電報に対する返事は仲々参りません。しかもこのことは公表致して居りませんので、東京市内の各所では家屋の強制疎開の為家を引き倒して居ります。私は身を切られるような気が致しました。
 流石に米軍の空襲も十日、十一日には御座いませんでした。十二日朝サンフランシスコの放送によって先方の回答の内容を知り得たのでありますが、正式の経路を通ずる回答は十三日朝到着致しました。
 この間に於ける諸般の情況は詳しく申し上げておる時間がございませんが、天皇陛下は皇族・重臣・元帥・軍事参議官などを次々にお召しになってお考えをおさとしになりました。この際、東条大将は陛下にもう一度御考え直しを願ったという風に聞いて居ります。
 十三日には正式回答を議題として閣議が開かれました。先方の回答は長いものでありましたが要点は次の二つであります。
(イ)日本国天皇及び政府の統治権は或る場合には連合軍司令官の制限の下におかれることがある。
(ロ)日本国最終の政治形態は日本国民の自由なる意思によって決定せられる(即ち国体は日本人がきめるにまかせる)というのであります。
 先方の回答の遅れた理由は連合国間に意見が分かれたためであったのです。後で聞きました所でありますが、ソ連は勿論、英国も支那も天皇制の廃止を主張したが、米国だけ前駐日大使のグル―さんなどの知日派の人々の働きによって、とうとうこういう回答になったのだそうであります。
 後で米国国務省の役人がきて私に話したのでありますが、こちら側からの回答に天皇制のことについて留保がついてきたときには、ほんとうに驚いた。実に堂々としていて一体これが敗戦国の態度かと思った、同時に日本には何か含みがあるのではないかと疑ったが、グル―さんなどが鈴木さんの人格からいって、決して何もたくらみがあるのではないと言ってがんばったので、他の国をやっと説得したというのであります。後から考えてみると正に米国側の主張が正しかったわけだったと申して居りました。
 この回答に対して大部分の大臣はポツダム宣言を受諾する当然の結果として、国体が変るわけではないということを、先方が承知したものであるとして終戦に賛成でした。唯陸軍大臣及び両総長はこの回答では明瞭でないから、もう一度先方にたしかめてもっとはっきりした返事が来ればよいが、そうでない限り国体を護持し得るかどうか、明瞭でない以上飽くまで戦争を継続せよと主張した。
 平沼枢密院議長などは、先方が国民の自由なる意思によって天皇制を維持するかどうかきめよというのはおかしい。天皇の御地位は神ながらきまっているものであって、国民の意思によってきまったものではないのであるから、これでは国体に反するという議論をされました。そしてこれももう一度はっきり先方にたしかめよというのであります。
 この間米国側から盛んに日本の回答の遅延を責めて参ります。もう一度先方の意向を問い合わせたのでは、到底交渉の糸が切れてしまうことは明かであります。
 よって私は総理にもう一度陛下のお力におすがりする外はないと申し上げました。
 しかも両総長の同意を得られない限り、御前会議を開く途はありません。畏れ多いことながら陛下よりお召しを願うことにしたのであります。
 総理は十四日早朝参内して拝謁して陛下の方から十六人の大臣全部、枢密院議長、陸海軍の総長をお召しを願って、おさとしを頂くことにお願い申し上げお許しを受けました。
 十四日午前十一時一同はお召しによって参内、先般の御前会議の室に集まって陛下の御出席を待ちました。私も出席致しました。今度は全部で二十三人であります。
 総理より経過の概要を説明したあと、陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長からそれぞれ先方の回答では国体護持について心配である、しかし先方にもう一度たしかめても満足な回答は得られないであろうから、このまゝ戦争を継続すべきであるという意見を越え涙共に下って申し上げました。
 陛下は総理の方に向かって外に発言するものはないかという意味の御合図があって後「皆のものに意見がなければ自分が意見をいわう」と前提せられお言葉がありました。
 「自分の意見は先日申したのと変りはない、先方の回答もあれで満足してよいと思う」と仰せられました。
 号泣の声が起りました。
 そして陛下は玉砕を以って君国に殉んぜんとする国民の心持はよく判るが、ここで戦争をやめる外は日本を維持するの道はないということを、先日の御前会議と同じように懇々とおさとしになり、更に又皇軍将兵戦死者、戦傷者、遺族更に国民全般に御仁愛のお言葉があり、しばしば御頬を純白の手袋をはめたお手にて拭われました。
 一同の感激はその極であります。椅子に腰かけているにのに堪えず、床にひざまずいて泣いている人もありました。
 しかし私共を現実の敗戦の悲しみを超えて、寧ろ歓喜にひたらせたものはこの次に仰せられた陛下のお言葉で御座います。
 陛下は「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それはむづかしいことであり、時間も長くかかるであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する。」と仰せられました。
 この言葉を拝したときの心持は高天原に於て、天照大神が天岩戸をお開きになってお出ましになったときのそれをお迎え申した、八百万神のお心持もかくやと、しのべるような気が致しました。尊きを知って只高く仰いでいた陛下はやはり国民と共にある陛下でありました。私はこゝに新日本建設の黎明を感じたのであります。陛下は我等国民を御信頼なさって、我等に日本再建を御命じになったのであります。
 しかし陛下のお言葉の中には全く他日の復讐を期するというお心持はないのであります。広大無辺な御仁慈は国民のみならず広く、人類の安心平和幸福を希い給い、又将来日本が国際社会の一員として世界平和の確立に大いに寄与するため、新しき日本が新しき民主主義の基礎の上に、道義の香り高き文化国家を再建することを希い給うたのであります。
 陛下は更にお言葉をおつづけになり一般の国民には、ラジオを通じて親ら(みづから)さとしてもよいと仰せられ、又内閣に於いて速かに終戦に関する詔勅の草案を作つて、手許に差し出すようにとのお言葉がございました。これにて御前会議を終り閣僚は内閣に帰つて終戦の議を決定し更に終戦の御詔勅の草案を審議致しました。
 かくして内閣は終戦の詔勅を起草することになりましたが、実は終戦の詔勅は内閣に於て起草すべき性質のものでありましたから、私はその責任者として既に十日の夜から、十三日の夜まで夜半その起草に着して居りました。原稿用紙は涙のあとで一杯でした。即ち九日夜の御前会議の陛下のお言葉をそのまま文語体に改めたものであります。私の乏しい漢文の知識でまとめたものでありますので、通常の詔勅よりやさしいのであります。唯文法の誤りがあってはと思い、安岡正篤、竹田瑞穂先生に見て頂きました。有名な「万世の為に太平を開く」という文句は、安岡さんが支那の古典の中の成句を教え下さつたのでした。このものに十四日御前会議の陛下のお言葉によって、修正したものを議題として審議致したのであります。
 午后八時審議を終了しそのまま陛下のお手許に差し出し、御嘉納がありまして一切の詔書公布の手続きを終了しましたのは、十四日午后十一時でありました。即ち大東亜戦争の公式終了の時間は昭和二十年八月十四日午后十一時であります。直ちに米国にポツダム宣言を受諾した旨電報致したのであります。御詔勅は陛下の御心持をそのまま表していると思います。一度朗読させていただきます。

詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
  御 名 御 璽
   昭和二十年八月十四日
                   内閣総理大臣 男爵  鈴木貫太郎
                   海軍大臣       米内光政
                   司法大臣       松坂広政
                   陸軍大臣       阿南惟幾
                   軍需大臣       豊田貞次郎
                   厚生大臣       岡田忠彦
                   国務大臣       桜井兵五郎
                   国務大臣       左近司政三
                   国務大臣       下村宏
                   大蔵大臣       広瀬豊作
                   文部大臣       太田耕造
                   農商大臣       石黒忠篤
                   国務大臣       安倍源基
                   外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
                   国務大臣       安井藤治
                   運輸大臣       小日山直登

[中垣現代語訳]
 私は、深く世界の大勢と日本国の現状とに思いを巡らし、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良な全国民に申し述べる。
 私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、ポツダム宣言を受諾することを通告するよう下命した。そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々の天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いからであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
 ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海軍将兵の勇敢な戦いも、多くの公職者の奮励努力も、一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我が国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(注 原子爆弾)を使用して、無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。これ以上戦争を継続するならば、遂には我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いのだろうか。これこそが、私が日本国政府に対しポツダム宣言を受諾するよう命ずるに至った理由なのである。
 私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、更にはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
 考えれば、今後日本国が受ける苦難は並大抵のことではないであろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思う。私は、国としての形を維持することができるならば、善良な全国民の真心を拠所として、常に国民と共に過ごすことができる。もし誰かが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したりあるいは仲間を陥れたりして、互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
 ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければなりません。
 あなたがた国民は、これら私の考えをよく理解して行動して下さい。

[関連参考資料]
① 最後の御前会議と場所
 終戦直前の昭和20年8月9日にポツダム宣言受諾の可否について御前会議が行われ、鈴木貫太郎首相から乞われる形で宣言受諾の御聖断が下された。その後8月14日に再び御前会議が開かれ、再び御聖断の形でポツダム宣言受諾の最終決定がなされた。この2回を特別に「最後の御前会議」と称している。
 この2回の御前会議は、宮中「望岳台」近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で行われた。地下10メートル、部屋の広さは15坪ほどであり、天皇皇后両陛下の寝室・居間のある吹上御文庫地下壕からは90メートル離れており、地下道でつながっていた。陸軍工兵隊により50トン爆弾に耐えられるよう作られた。
② 御前会議の制度的位置付け
 御前会議については「御前会議法」というような制度上の法的根拠がないため、御前会議の位置付けは不明確であり、当然、開催が制度化されたものでもなかった。また、たとえ開催され天皇が出席しても発言しないことが建前であった。帝国憲法は「君臨すれども統治せず」を前提としていたからである。したがって憲法上の天皇の立場は、政務は各大臣の、軍令は参謀総長と軍令部総長の輔弼(補佐)を得て「上申を承認する」つまり賛否を言わずに「解った」と述べるだけであった。
 一方、帝国憲法は第13条において「天皇が開戦と終戦を決定する」と定めていた。しかしこの場合も、立憲主義の建前から天皇による意思の表明・発動は好ましくないとされ、特に開戦に関しては天皇自身に戦争責任が及ぶため天皇が直接決することはなかった。そこで政務と軍令を統括する御前会議がその役割を果たしたのである。しかもこの場合ですら、御前会議の決定が直ちにそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について閣議での諮問を経てから正式決定となる制度であった。最後の御前会議の決定事項も改めて詔書に各大臣が署名花押して正式決定とされたのである。
③ 迫水久常内閣書記官長
 迫水久常氏は終戦時、鈴木貫太郎海軍大将が組閣した内閣の内閣書記官長であり、現在の内閣官房長官に相当する立場にあった。迫水氏は明治35年生まれ、鹿児島市出身で、東京帝大卒業後、大蔵省に入り、岡田啓介内閣の首相秘書官を歴任した。迫水氏は、岡田啓介元首相の女婿であり、岡田元首相の指示を受けながら、東条政権打倒に尽力した。そして鈴木内閣では、内閣書記官長として、終戦のための手続きや段取りのすべてを取り仕切った。迫水氏は戦後、参議院全国区で当選4回、衆議院鹿児島1区で当選2回を果たし、この間、郵政大臣、経済企画庁長官などを歴任した。
④ ポツダム宣言
 ドイツ降伏後の1945(昭和20)年7月1日から8月2日まで、ベルリン郊外のポツダムにおいて米英ソの3カ国首脳が集まり第二次世界大戦の戦後処理に関しての会談が行われた(ポツダム会談)。ポツダム宣言はこの会談の期間中の7月26日にトルーマン大統領、チャーチル首相及び蒋介石国民政府主席の3者の共同声明として発表された。なお蒋介石を含む中華民国の要員は会談に参加していなかったが、無線で了承を得たとされている。
 内容は、要旨次のとおり。
1 米国大統領、英国首相及び中華民国主席は、自国の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争終結の機会を与えることに合意した。
2 欧州方面の陸海空軍によって、数倍にも増加された米英中の兵力は、日本全土に対し、最後の打撃を加えようとしている。この軍事力は、日本国が抵抗をやめるまで、日本国に対して戦争を遂行しようとする全連合国の決意によって、鼓舞され持続されている。
3 自由を希求して奮起する世界の諸国民の力に対し、ドイツが重ねてきた無意味な抵抗の結末は、日本国の国民にとって、極めて解り易い見せしめである。現在、日本に向かって集結しつつある軍事力は、全ドイツの国土と産業、生活様式を荒廃させた軍事力よりも強大なものである。我が軍事力の全面的な発動は、日本国軍の不可避にして完全な破壊と、同じく日本本土の完全な焦土化を意味する。
4 日本が引き続き、無分別により自国を滅亡の淵に追い詰めた強情な軍国主義者に支配されたままこの戦争を続けるか、あるいは道理に従うか、決断する時期がきた。
5 我等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩もしないし、またこれから外れることもない。執行の遅れは認めない。
6 日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯した勢力を除去する。
7 日本に新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまで、日本国内諸地点を占領する。
8 日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにこれらに付属する諸小島に限らなければならない。
9 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる。
10 戦争犯罪人は処罰される。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重が確立される。
11 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段を保有できる。また将来的には、国際貿易に復帰できる。
12 日本国民が自由意思により平和的・責任ある政府を樹立できる。この項目及び記載した条件が達成された場合、占領軍は撤退する。
13 我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について十分な保障が提供されることを要求する。
⑤ ポツダム宣言発表後の経緯
 ポツダム宣言は日本側に降伏の条件を示し、また降伏しない場合の徹底的攻撃を示したものであり、7月26日に公表された。日本側は翌27日に内容の詳細な検討に入った。政府としては、この内容を即座に受諾は出来ないものの、明確に拒否することは終戦の機会を逸するものとして、ポツダム宣言には回答せず、また新聞への発表も、宣言の訳文のみを載せ、政府のコメントなしという形でなされた。こうして、ポツダム宣言の内容は28日の新聞で国民に明らかにされた。しかし軍部は反発し、鈴木首相に宣言を無視し、戦争貫徹に邁進するという正式なコメントを要求した。鈴木首相はこの圧力に屈する形となり、ポツダム宣言の黙殺、断固抗戦という旨の首相談話が7月30日の新聞に公表された。
 実際のところは、日本政府は、仲介を依頼していたソ連の回答を待っていたので、回答を留保したのであるが、「ノーコメント」(withhold comment, remain silent)という姿勢が、各種報道のなかで「黙殺」(would be ignored, reject, kill it with silence)という表現に変化して各国首脳に伝わったと言われている。その結果、連合国首脳の反発を招き、結果的にソ連の対日参戦を早め、原爆投下を招いたことは返す返すも残念である。
⑥ ソ連参戦
 8月になり、政府(特に鈴木首相と東郷外相)は依然終戦への道を模索していた。ポツダム宣言が米英中の3カ国首脳の名の下に発表されたことを受け、政府はソ連を仲介とした講和を目指していた。日本政府はスターリンがポツダム会談に参加していたことは情報として承知していたが、当時は日ソ中立条約が有効であり、政府はソ連の対日参戦はないと考えていた。日ソ中立条約は1941年に締結され、1946年までの5年間有効であった。その後の延長については、条約期限切れの1 年前までに破棄通告なき場合自動延長とされていたが、1945年4月5日、ソ連が条約不延長を通告してきた。しかし、1946年4月までは有効であり、8月は有効期限内であった。8月に入り、本国の訓令を受けて、当時ソ連に駐在していた佐藤大使は、ソ連を仲介とする講和締結のため、ソ連外相のモロトフとの面会を目指していた。モロトフは、8月2日まで行われていたポツダム会談に参加し、6日モスクワに帰還した。モロトフ外相との面会を要求していた日本側に対し、ソ連側は佐藤大使との面会を8日午後5時と指定した。そして佐藤大使がモロトフ外相を訪れたその場で、モロトフ外相はソ連の対日宣戦布告文書を読み上げたのである。この宣戦布告をうけ、ソ連軍は翌9日、満州との国境を越え、日本軍への攻撃を開始した。
⑦ 原爆投下
 こうした動きの中で6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。これを期に、政府は最早戦争の継続は不可能であり、早期の終戦を計ることとなった。東郷外相が8日、昭和天皇に拝謁し、原子爆弾投下に関わる事情を上奏した際、天皇陛下は「終戦に向け努力するように」と言われたと伝えられている。
 広島への原爆投下とソ連の参戦を受け、9日午前、最高戦争指導者会議が開かれた。最高戦争指導者会議は鈴木首相、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、東郷外相、梅津陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令総長の6人で構成され、戦争に対する最高の意思決定機関である。会議では、ポツダム宣言の受諾にあたり、どのような条件を付けるかが論争の的となった。首相・外相・海相は「国体護持」の1条件のみを付けることを提案したのに対し、陸相と2人の総長は、国体護持に加え戦争犯罪人の処罰、武装解除の方法、占領軍の進駐に関する3 条件の付加を求めた。戦犯処罰は連合国のみが戦犯を処罰しないよう求める条件であり、武装解除は前線での即時の武装解除は困難であるという主張であり、占領に関しては短時間かつ少数の兵力であることを連合国側に要請するという主張であった。この会議は最後まで意見が分かれ、午後1時散会となったが、奇しくもこの会議中、11時2分に長崎に原子爆弾が投下された。そしてこの日午後、ポツダム宣言受諾に関する閣議が開かれたが、ここでも外相と陸相の対立は解決せず、ついに深夜、前述の御前会議が開催されることとなったのである。
⑧ 連合国側の回答と日本の対応
 日本側の条件付きポツダム宣言受諾の通知は10日午前、当時中立国であったスイス及びスウェーデン経由で行われた。連合国側の回答は12日に行われたが、当時米国務長官であったバーンズの名を取り、「バーンズ回答」と呼ばれている。
 バーンズ回答に対して日本側で2点が問題となった。1点目は、「the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers(天皇と日本政府の統治権は連合国軍最高司令部の隷属下に置かれる)」という記述である。この点に関しては、外務省が「subject to」を「制限下に置かれる」と意訳し軍を説得した。この記述では国体護持が守られるか否かが曖昧であったため、最後まで議論の対象となった。受諾反対若しくは国体護持を再照会しようとの立場は、陸軍大臣及び両総長。
 2点目は、「the ultimate form of the Government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people(日本国政府の最終的形態はポツダム宣言に従い日本国民の自由な意思に基づき決定される)」という記述である。この記述も、現帝国憲法で天皇に行政権・立法権があるにもかかわらず、政府の形態を国民の自由意志で決定するという記述は国体に反するため、国体護持に適合していないのではないかと問題に挙げられた。発議者は平沼枢密院議長。
 いずれにせよ、前述のとおり御前会議における陛下の御聖断によりポツダム宣言受諾は決定した。これを受けて14日23時、スイス及びスウェーデン経由で連合国側に受諾を通知、ここに遂に終戦を迎えることとなった。
⑨ 関連資料
 14日の2度目の御聖断の発言の全てが含まれる記録は「昭和天皇発言記録集成(防衛庁防衛研究所戦史部監修)」に記載されている。また、尾形健一陸軍大佐侍従武官の日誌である「尾形健一大佐業務日誌」は太平洋戦争下の宮中の状況を知る貴重な史料である。ただし、原本は防衛省防衛研究所戦史部図書館が所蔵しており、一般には非公開である。なお、尾形大佐は御前会議に臨席していないが、上司の蓮沼侍従武官長が会議場に居たので、蓮沼武官長からの伝聞を記述したものと思われる。迫水氏の証言を補強する意味で、業務日誌の中の陛下の御発言部分を以下に紹介する。
 今回の回答に依り自分の先般の決意に変更なし。先般の決意は、内外の情勢、我国が戦力等を十分省察して決定せるものである。又国体護持に関しては、先方は之を認めて居るものと信じ不安を有せず。又国民の自由意志に基づく政体の決定も、外交上の用語を見るを適当と信じ、余りに疑念を抱くことは適当でないと信ずる。保障占領に関しては相当の不安あるも、夫れが為、更に戦争を継続することは、結局国体の護持も出来ず、唯玉砕するのみの事となり、固より国の体面上、保障占領の如きは洵に残念な事であり、又今迄身命を犠牲にして働いて呉れた軍隊の武装解除を要求せられ、場合に依りては忠良の子臣も罰せねばならぬのは、自分としては洵に残念であり、忍び得ざる処である。然し此の際、涙を呑み、忍び難きを忍び、明治天皇の遼東還付の御心を忍びつゝ、此に戦争を終結に導き、我国体を保持し、万民を塗炭の苦より救ひ度しと決心せる次第。皆も残念であろうが、自分の気持ちを察して其様に運んで貰ひ度。国民には速に夫れに関して詔書を出す様に、又陸海軍にも詔書を出す様取計って貰い度。要すれば自ら放送しても良いと思ふ。
⑩ 天皇の皇太子への手紙
 以下は天皇陛下が穂積重遠東宮大夫に皇太子の元に届けるように命じた手紙のコピーである。この手紙のコピーも野田代議士から一緒にいただいた。ちなみに、皇太子殿下は当時11歳の学習院初等科で奥日光に疎開されていた。

 手紙をありがたう しつかりとした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます。
 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ
 我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
 穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ
 寒くなるから 心体を大切に勉強なさい
  九月九日                父より
明仁へ

(了)