「第63回掃海殉職者追悼式」に参加して

チャンネルNippon理事 山田道雄

はじめに
 平成26年5月31日、この年の最高気温を記録したというこの日、例年のとおり、いわゆる「こんぴらさん」、香川県琴平市琴平神宮境内の「掃海殉職者顕彰碑」前で、海上自衛隊三木伸介呉地方総監の執行により、例年どおり「第63回掃海殉職者追悼式」が行われた。この碑は兵庫・香川両県知事はじめ、海にゆかりのある32都市の市長(下表)が発起人となって建立されたもので、碑文は当時の首相、吉田茂氏が揮毫したもの。
 筆者はこの15年間毎年この行事に参加しているが、今回特に感じたことを思いつくまま綴ってみたい。

発起人名簿

番号職 名 等番号職 名 等
1兵庫県知事18(山口県)防府市長
2香川県知事19(〃  )宇部市長
3(新潟県)新潟市長20(〃  )山陽小野田
     (旧小野田)市長
4(福井県)敦賀市長21(〃  )下関市長
5(京都府)舞鶴市長22(香川県)高松市長
6(大阪府)大阪市長23(香川県)坂出市長
7(兵庫県)神戸市長24(愛媛県)新居浜市長
8(〃  )姫路市長25(〃  )今治市長
9(〃  )相生市長26現北九州市
(福岡県)
旧 門司市長
10(岡山県)玉野市長旧 若松市長
11(広島県)尾道市長旧 戸畑市長
12(〃  )三原市長旧 小倉市長
13(〃  )呉市長旧 八幡市長
14(〃  )広島市長27(福岡県)福岡市長
15(山口県)光市長28(大分県)別府市長
16(〃  )下松市長29(〃  )大分市長
17(〃  )周南(旧徳山)市長30(〃  )佐伯市長

開式に当たり黙祷をささげる執行者(三木呉地方総監)とご遺族

行事の認知度は?
 毎年この時期に行われる追悼式のことが広く国民に知られているとは言い難いが、今年は前日高松港で行なわれた掃海母艦「うらが」での艦上レセプションも含めて国会議員と自治体の首長の出席が目立った。5名(うち代理1)の衆・参議員と地元香川県はじめ8名の県知事・市長・町長(うち代理4)が参加したが、地元の琴平町を除き何れも碑建立の発起人となっている自治体である。
 発起人の自治体からはこの他弔花や電報が届いているが、おそらく毎年事務的に処理されているのが殆どで、筆者の経験から言えば首長ご本人はこの行事があることすら知らされていないのが実情であろう。因みに13年前の例を挙げれば、当時の呉市長はこの行事の案内も発起人の首長の一人であることも知らなくて、直接出席を懇請したところ痛く恐縮されスケジュールを調整して東京出張の帰途、行事に参加していただいた。
 このような状況の中、山陽小野田・坂出・今治の3市長の参加は近年異例のことである。また、前日の艦上レセプションで4名の国会議員が挨拶を述べたが、内容はかなり濃くて戦後の航路啓開・掃海作業の細部にまで言及していたのも異例であった。
 第1回の行事の趣旨からも国または自治体が主催して行うべきことから当然と言えば当然の成り行きではあるが、この傾向は関係者にとっては嬉しい事であろう。それにしてもこれだけの年中行事を、地元のメディアすら報道しないのは何故だろうかといつも思う。主催者側の努力不足かそれともメディアの理解不足か、或は敢えて無視しているのか?

追悼の詞
 今回は参列者の中から5名の方が「追悼の詞」を述べたが、式典の趣旨、意義、経緯を最もよく表している掃海隊群司令岡浩将補と水交会代表勝山拓氏の「追悼の詞」を以下掲示し、紹介する。

追悼の詞を述べる岡掃海隊群司令

追悼の詞

 本日ここに、新緑に陽光注ぐ金刀比羅宮の神苑において、第63回掃海殉職者追悼式が挙行されるに当たり、海上自衛隊掃海部隊を代表し、謹んで追悼の詞を申し上げます。
 顧みますれば、太平洋戦争末期、我が国の主要港湾及び海域に日米両軍が敷設した機雷は、その数、六万七千の多きに上るものでありました。中でも、米国が対日飢餓作戦において、瀬戸内海、関門海峡、伊勢湾及び東京湾の各海域に敷設した感応機雷約一万個は、四面環海の我が国の命脈を繋ぐ海上交通を途絶に追い込んだのであります。そのため、終戦後はこれらの機雷を残らず排除し、海上交通の安全を確保することが国家再建上喫緊の課題でありました。敗戦の混乱と虚脱の中にあって、当時の掃海従事者は、困難かつ危険に満ちた任務に敢然と立ち向かい、新生日本の航路を啓いて、今日の平和と繁栄の礎を築いたのであります。
 ここで眠られている79 柱のご英霊も、本来であるならばご家族と、そして新しく引き継ぐ命と共に幸せな家庭を築けたところ、その職に殉ぜられましたことは、痛恨の極みでありましょう。輝かしい航路啓開の偉業と共に、途半ばにして壮烈な殉職を遂げられた皆様のあったことは、我々掃海部隊の末裔のみならず、すべての日本国民の心にとどめられ、その歴史は長く語り継がれることでありましょう。
「歴史とは、現在と過去との不断の対話である。」という歴史学者の言葉があります。歴史を離れて現在はあり得ず、現在を離れても歴史はありません。
 掃海部隊は、航路啓開業務以来、先輩の皆様の努力の歴史があって現在があると認識しています。
 平成3年には、掃海部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣され、危険かつ困難な業務を安全かつ適切に遂行し、先輩から受け継いだ伝統をもって任務を完遂されました。
 当時、掃海母艦「はやせ」砲術長として、この湾岸派遣に従事したことが、その後、掃海部隊にお世話になることとなった私ですが、気温が50℃近くに上り、砂塵が舞い、油井が燃える臭いの残る中、任務を完遂できたのは、航路啓開業務に従事された皆様以来の実任務や実機雷処分訓練を始めとする諸訓練の継承に他ならないと、当時の幕僚の方々に教えていただいたことを思い出します。また、私自身、ペルシャ湾に向かう時は、ほとんど出会うことがなかった日本の商船でしたが、機雷の除去が完了し、ペルシャ湾の航行の安全が確保され、帰国の途についた時は、ホルムズ海峡、インド洋、マラッカ海峡、南シナ海から日本に至るシーレーンを、これほど多くの日本の商船が行き来しているのかと、その多さに驚くと共に、海上交通の復活ぶりに航路啓開の意味を肌で感じることができました。
 東日本大震災においては、全掃海部隊が直ちに出動し、入り組んだ沿岸部において、捜索救難の任にあたるとともに、陸路が絶たれ半島や島に孤立する住民の皆さんに対し救援物資を輸送する任務にも従事しました。これも北海道南西沖地震等での活動の歴史が繋がっていると考えます。

 安価で使用の容易性を持つ機雷の脅威は、戦略的かつ心理的な兵器であり、事実、これまで世界の紛争等において多く使用されています。これは歴史上今後も不変でありましょう。
 このような環境の中、引き続き皆様と現在の我々との不断の対話が、歴史と不変の精神を後輩に伝えていくことにつながると考えます。
 そのためにも、いついかなる任務が与えられようとも、これを整斉と遂行し、以て国民の負託に応えるべく、日々精進し、精強・即応の態勢を維持する覚悟であります。
 本日ここに、改めて、身命を賭してその使命を完遂されました皆様の偉業を忍びつつ御霊の安らかならんことをお祈りすると共に、海上自衛隊掃海部隊の任務完遂に一層のご加護を賜らんことを祈念して追悼の詞といたします。

平成26年5月31日

海上自衛隊掃海隊群司令
海将補 岡  浩


追悼の詞を述べる勝山呉水交会会長

追悼の詞

 緑したたるここ金刀比羅宮神苑において、第六十三回掃海殉職者追悼式が挙行されるに当たり、水交会を代表して謹んで御霊前に申し上げます。
 想えば、大東亜戦争終結以来六十九年の歳月を経て、時の流れと共に世相は移り変わりましたが、敗戦直後のあの混乱のなか、ひたすら国家再建を念じつつ、機雷の海に命を賭けた男達がいたことを忘れることは出来ません。
 顧みるに、昭和二十年八月、祖国未曾有の敗戦を迎えたとき、周辺海域には、我が軍が沿岸防備用に敷設した係維機雷五万五千余個と、米軍が「対日飢餓作戦」において敷設した感応機雷の未処分機雷六千六百余個が残存し、このため国内外を結ぶ主要な航路は悉く塞がれ、海上交通の要所、関門海峡や瀬戸内海は沈没船で埋まり、もはや船の行き交うことの出来ない「死の海」と化しておりました。
 同年九月、海軍省軍務局に掃海部が設けられ、全国に地方掃海部を設置するとともに、海軍軍人約一万名と残存せる小型掃海船等をもって、海国日本の復興に着手したのであります。
 二十一年五月には、第二復員省所管のもと、全国から掃海船や徴用漁船など百隻余りが下関方面に集められ、「臨時関門掃海部隊」を編成し、困苦欠乏に耐えながら、航路、港湾の掃海作業に従事し、関門海峡の再開と、下関、大阪間の主要一貫航路が切り拓かれたのであります。
 以来、所管省庁も変遷を重ね、二十三年五月には、運輸省内に海上保安庁が創設され、掃海作業も航路啓開業務として、瀬戸内に限らず我が国の全海域で組織的に行われるようになりましたが、岡山県牛窓沖で旅客船「女王丸」が触雷沈没したほか、瀬戸内海を中心に、十五隻二百名に上る犠牲者が出たことに鑑み、航路啓開業務は重点海域を再び瀬戸内海として行われたのであります。
 二十五年六月、朝鮮戦争が勃発するや国連軍の要請に応え、佐世保港外及び東京湾口の日施掃海と連合軍艦船の水路誘導が始まり、十月には、朝鮮海域における掃海作業に協力することとなり、「日本特別掃海隊」が編成され、冬の日本海で酷寒風浪に耐えながら、元山、群山、仁川などの掃海に従事したのであります。このことは、当時交渉中であった対日講和条約の締結に大きく貢献することになり、時の吉田茂首相から、「諸君の行動は、国際社会に復帰せんとする日本の行く手に大きな光を与えたものであった。」と激賞されたのであります。
 昭和二十七年、わが国の主要な航路と百箇所に余る港湾、総面積五千平方キロメートルに及ぶ海域の掃海作業が遂に終了し、国民待望の安全宣言を世界に向けて発することとなり、之を契機として日本の産業経済の再建が始まったのであります。
 終戦からの七年に及ぶ期間、航路啓開隊員は、木造の小型船に乗組み、風浪寒暑と闘い、黙々として危険かつ困難な作業に挺身されました。この間、触雷沈没などの凄惨な事態により、業務半ばにして壮烈な殉職を遂げられた七十九柱の御霊に思いを馳せるとき、痛恨の情、切々として胸に迫り来るのを禁じ得ません。今日の我が国の平和と繁栄を見るとき、それは正に国家再建の礎となられた御霊の尊い犠牲の上に打ち立てられたものであり、その偉業は、掃海殉職者顕彰碑と共に、永く後世に伝えなければならない歴史上の一ページであります。
 最後になりましたが、今後も、我が水交会がその偉業を称え、御霊の慰霊顕彰に努めていくことを固くお誓い申し上げます。
 ここに、御霊の安らかなご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様のご健勝とご多幸をご祈念申し上げ追悼の詞といたします。

平成二十六年五月三十一日

呉水交会会長
勝山 拓


伝えていくことの意義
 第1回は「慰霊祭」として昭和27(1952)年6月23日、琴陵宮司が斎主となって執り行い、祭主岸田兵庫県知事、運輸大臣代理山口船員局長、柳沢海上保安庁長官、地元世話人兼香川県知事、遺族五十余名はじめ関係者400名が参列して厳粛に行なわれた。以後、毎年5月の最終土曜日に執り行われるとことされ、今年で63年になる。人の世代で言えば2世代にわたる。
 初回は自治体・国の機関が主催していたこの行事は時が経つにつれ、防衛庁(海上自衛隊)の海上幕僚長主催から更に呉地方総監執行となり現在に至っている。現在も必ず海上幕僚副長が海上幕僚長代理として参列するほど、海自はこの行事を重視している。
 しかし、海自は殉職者たちの所属していた組織の後継機関であり、いわば身内の隊員の慰霊顕彰を行う形であり、この行事も発起人の当初意図するところとかなり異なったものになって来ている。この間、行事が神社の境内で行われることから政教分離の問題も生じ、紆余曲折を経て宗教色を排した現在の「追悼式」の形となっている。
 今年は7家族13名のご遺族が参加されたが、ご遺族の高齢化に伴い年々参加者は減少している一方、世代交代が進み若いご遺族の参加が目立っている。遺族代表で謝辞を述べたO氏は殉職した隊員の甥にあたる方であるが、中学生の時から父親に連れられて参加していたご子息は防衛大学校から海上自衛隊に入り、今は3等海佐で防大で指導教官をしている。
 中学生で初めてこの式典に参加し、ちょうどペルシャ湾から帰国したばかりの落合派遣部隊指揮官や横山はやせ艦長から話を聞き、迷わず海自を志願したという。その彼の、3等海尉に任官直後の遠洋航海の行き先がペルシャ湾だったというのもまた奇縁である。

参列したご遺族の記念撮影

「掃海ファミリー」と呼ばれる人たち
 式典が行われる朝日岡入り口の参道階段脇に、「掃海殉職者顕彰碑建立の由来」を示す案内板が立っている。平成13年5月、第50回掃海殉職者追悼式を記念して呉航啓会の発案により掃海関係者有志の浄財により設立されたものだ。「航啓会」は戦後の航路啓開業務に従事した者が中心となって構成された任意団体であるが、平成19年に解散されるまで掃海殉職者の慰霊顕彰等に極めて大きな役割を果たしてきた。現在は水交会がその精神を引き継ぎ、追悼式では水交会代表が慰霊の詞を奉唱している。
 このような人たちを中心とする海自現役隊員を含めた所謂「掃海ファミリー」(悪い言葉で言えば「掃海ゴロ」)には一種独特の文化がある。それは戦後機雷の海に命を賭けた男としての矜持と、死生を共にした仲間意識に由るものであろう。護衛艦や哨戒機が主流である海自の中で、長い間彼らは報われる事もなくひたすら術科研鑽と地道な掃海訓練を重ねてきたが、一躍脚光を浴びることになったのが平成3年のペルシャ湾派遣である。現在でこそ常態化した国際貢献任務にさきがけて派遣されたのは、護衛艦でも哨戒機でもなくまさしく掃海艇の部隊だった。
 式典で献花の際、現役の掃海隊群司令は別として、「元掃海隊群司令」として指名されて献花をするではなく、「掃海関係者」として元幹部学校長(海将)も元ペルシャ湾派遣掃海部隊指揮官(海将補)も昔の仲間たちと一緒に献花をする。彼らにとってそれが自然であり、また文化なのだ。

ある「触雷沈没報告」から
「掃海殉職者顕彰碑建立の由来」の案内板に採用されている写真は、式典当日配布された資料にも載っている。昭和24年5月23日関門海峡で触雷した掃海艇MS27 号にMS22号が船首を着けて救助している臨場感あふれる写真である。
 今回、現在は大変貴重な歴史的瞬間となった写真と昭和24年5月30日付けの「触雷沈没報告書」を呉水交会(旧航啓会)から入手したので以下紹介する。


触雷沈没報告書

昭和24年5月30日

船種船名 掃海艇MS27総噸数 150トン機関及公称馬力 中速デーゼル400馬力
所属 海上保安庁住所 下関市吉見町 門司海上保安本部掃海部
艇長 四方健治発航港 下関到達港 掃海面満珠島東方海面
事実発生 昭和24年5月23日午後1時47分発生場所 33°58′48″N 131°03′83″E


事実の顛末

 本艇は24年5月23日0740掃海のため下関唐戸岸壁を離岸出港掃海面(満珠島東方海面)に 0845 到着、電源艇(電源艇)MS17 の誘導により横掃海(東西方向)実施中、当時操艇者艇長 四方健治、操舵員○○○○、見張兼信号員○○○○にして、1340 MS17 の回頭信号により左回頭、1343定針路(W方向)の信号により対艇距離約200㍍保持速力2.5節にて掃海実施中、1347 北緯33°58′43″東経131°03′83″本艇の左舷後方約10㍍の付近で一大音響とともに機雷爆発大なる衝撃を受け、後部マスト、後部構造物、船体の一部を吹き飛ばされ瞬時にして機械室に進水沈下、前部居住区及び艇長室の一部に浸水す。
 当時艇長は一時失神したるも直ちに気づき MS17 及び付近僚艇に救助を依頼し負傷者の救助及び重要書類の搬出を命ず、1400 MS22 本艇の艇首に達着乗員の移乗及び一部物品を移載するとともに負傷者は MS08 に移し下関に回航、直ちに人員の点呼を命じ調べたるところ4名が行方不明にして捜索するも見当たらず、本艇は南東方向に向首しつつ約300㍍圧流され 1410 頃船首方向S60度、前部マスト、煙突及び船橋の一部を露出して沈没着底せり沈没地点 北緯33度58分51秒 東経131度04分00秒 当時の天候 曇り風向W風速1㍍、潮流 東流1.5節 死亡者4名 負傷者3名 以上


おわりに
 この行事を63回も連綿と続けている海自の姿勢には頭が下がるが、「掃海」を主要な任務の1つとして継承している組織としては当然な事かもしれない。しかし、意外とこの行事が海自部内では知られていない。筆者もそうであったが、今回海幕長代理で出席した海上幕僚副長も初めて知ったという。式典には近隣部隊の自衛隊指揮官の他、海自掃海部隊の掃海隊群司令以下隊員数十名が参加しているが、海自部内でも掃海関係者以外にはほとんど知られていないのが実状。掃海術科や機雷戦のノウハウの伝承と同様、国家再建の礎となった戦後掃海の陰には79名の尊い殉職者が居たという事実を、部内外に「広く伝えていく」ことが今後の課題であろう。

哀しみの譜が新緑の神苑に流れて(追悼演奏を行う呉音楽隊)


写真提供:海上自衛隊呉地方総監部、呉水交会(旧航啓会)