神風特攻から70年
 武丈の花の精うけて~「敷島隊等特攻戦没者追悼式」

チャンネルNippon理事 山田 道雄

 毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開催され、今年で40回を数える。今回は昭和19年のこの日敷島隊の戦闘機5機が特攻突入してから70周年の節目に当たることもあり、前夜愛媛特攻戦没者追悼会主催、西条市・西条市教育委員会後援の海上自衛隊呉音楽隊による演奏会が西条市総合文化会館大ホールで行われた。
 呉音楽隊は昭和61(1956)年の創設以来広島県下をはじめ、近畿・中国・四国・九州東部において演奏活動を行っている。広報演奏のほか、「大喪の礼」「即位の礼」「皇太子同妃両殿下の結婚の義」等国家的行事や、海上自衛隊が初任幹部の教育並びに国際親善を図るため毎年実施している遠洋練習航海にも、練習艦隊音楽隊員として参加し、現在までの訪問国はすでに64か国を数えている。例年西条市でのこの行事にも追悼演奏を行なって来ているが、市民を対象とした演奏会は初めて。
 演奏会は休憩をはさんで2部に分かれ、第1部は「日本民謡組曲わらべ唄」、「川の流れのように」等日本の伝統的な曲目と翌日追悼演奏として演奏される曲が披露された。
 第1部の圧巻は「関中佐の歌」(関中佐功績顕彰歌)で地元の旧制西条中学校出身、海軍兵学校70期の敷島隊長、故関行男海軍中佐を顕彰する歌。「武丈の花の精うけて 大和心の敷島隊」で始まる歌詞を隊員2人が演奏に合わせて歌唱した。毎年楢本神社の式典で演奏されるおなじみの曲だが、おそらく殆どの観客はこの日初めて聞いたに違いない。

 第2部は雰囲気が一変して「A列車で行こう」「Run For Cover」等の軽快なジャズ音楽のオンパレードとなり、ジャズの代表作「ザ・チキン」で締めくくった。アンコールとして2曲演奏されたが、最後はお決まりの行進曲「軍艦」。2時間足らずの演奏会であったが、約700名の市民はおそらく初めて接する海自音楽隊の演奏を堪能した。最後は関中佐の出身大町小学校の女生徒から北村音楽隊長に花束が贈呈され、一段と大きな拍手が起こった。演奏終了後は隊員が客席を通って出口から退場、玄関で退出してくる観客を見送るというしゃれた演出に観客は親近感を持ったようだ。


 開けて10月25日。昨年は台風の影響で暴風雨となり式典は中止されたが、今年はやや曇り空ながらよい天候となった。しかし、追悼飛行のため飛来予定だった海自徳島教育航空群からのフライトは、基地周辺の天候不良のため中止となった。それでも式典の始まる頃には松山赤十字飛行隊のセスナ機4機が飛来し会場上空をローパスして華を添えた。毎年この日、敷島隊の突入した時刻10時35分に合わせ追悼飛行が実施される。

 開式の辞のあと、「君が代」が演奏され国旗・軍艦旗が海自隊員の手によって掲揚される。そして「鎮魂の礼」として奉賛会の女性により追悼文が朗読され一同黙祷を捧げ、今年88歳になる寺田幸男奉賛会会長が式辞を述べた。当時二十歳前後の若者たちが家族や国のことを思い死んでいったことを知らない現代の若者たち、それを教育しない戦後の世相を痛烈に批判し、英霊に対するお詫びと将来の子供に対する教育を託す切なる願い。この式典を最後に次回からは若い世代に申し送ると言う特攻隊の生存者、寺田会長の心情を吐露した式辞である。
 続いて「追悼の辞」を西条市長、西条市議会議長(代理)、3名の国会議員が奉読。国会議員の参列はここ数年では異例であるが、特に地元以外の西村慎吾議員の参列は、前日の東京・晴海港における海自練習艦隊によるソロモン諸島戦没者御遺骨引渡式に続いてとの事。
 会長、ご遺族に続き呉地方総監伊藤俊幸海将が献花の後、海自の儀じょう隊が「捧げ銃」の敬礼の後弔銃を3斉射発射した。斉射の都度、第24航空隊のラッパ隊による「命を捨てて」が奏される。来賓による献花に続いて地元の婦人合唱団「エコー大町」による大正琴の追悼演奏と「関中佐功績顕彰歌」「同期の桜」「若鷲の歌」の合唱が行われた。

 追悼電報が披露されて呉音楽隊による追悼演奏となり、最後の「海ゆかば」を参列者全員で合唱する。今年も普段は寂しい楢本神社の境内に、参列者約400名の大合唱が響き渡った。

~海征かば水漬く屍 山征かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ~

 「万葉集」の大友家持原作のこの歌はかつての日本では軍部主導により戦意高揚のため盛んに歌われたが、ここでは老いも若きも、その歌の真意を知る者も知らない者も、時代を超えて毎年自然な形で歌われる。
 続いて、遺族代表の神雷部隊第五健武隊の曾我部少尉のご遺族が謝辞を述べ国旗・軍艦旗が降納され式典は滞りなく終了した。

 最後の閉式の辞で挨拶に立った愛媛県遺族会高橋副会長は、寺田会長の思いを代弁し、特攻隊員の「家族や国を思う犠牲的精神」すなわち「特攻の精神」は、先般の御嶽山噴火災害において亡くなった登山者にも垣間見られた事例をあげ、その日本人の伝統的精神を綿々と次世代に引き継いでいく必要がある事、その意味でこの式典の意義を強調して締めくくった。

 関行男は、ここ西条市で誕生し、大町小学校、西条中学から海軍兵学校に入校、海軍士官となり航空操縦分野に進み、霞ケ浦航空隊では飛行教官を務めた。
 碑文によれば、神風特別攻撃隊第1陣は、第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、昭和19年10月20日、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。この攻撃隊18機(うち半数は直掩隊)は10月25日出撃し、6機は敵護衛空母に命中し、3機は至近弾となって敵艦を損傷した。中でも関大尉は敵の護衛空母セント・ロー(14000トン)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉功を奏す。これら神風攻撃隊員は、いずれも戦死後2階級特進し、「軍神」と称された。
 関大尉がその教へ子に残した辞世は遺書の中に、

  教へ子は散れ山桜  かくの如くに

とある。
 昭和50年、関親子をよく知る海軍出身の石川梅蔵(楢本神社宮司)が中心となり、関行男慰霊碑を建立、海軍航空の先輩で元航空幕僚長の源田實参議院議員が除幕した。
 その後昭和56年には、関が率いた敷島隊の4名も含め「五軍神祀碑」として建立され、毎年10月25日に慰霊祭が行われている。関行男は行年23歳、他の隊員はいずれも19・20歳の若者で、関のみが妻帯し新婚5か月だったという。
 その関大尉が出撃前に報道班員に語った次の言葉はよく知られている。
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「僕は最愛のKA(妻の意味の海軍隠語)のために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」
 関の母サカエは、「軍神の母」から戦後の「戦争協力者の母」という価値観の逆転した世間の冷たい視線を受け、日々の生活にも困窮する中で、昭和28年「せめて行男の墓を…」と言って息を引き取ったという。サカエの死で関家は断絶するが、実家の四国中央(旧伊予三島)市の海岸近く村松大師堂に、翌年関の命日に立派な墓が建立された。墓所の入り口付近には、「故海軍中佐関行男の墓」と市教育委員会の立札がある。妻満里子は戦後再婚したというが消息は分からない。

 神風特攻隊から70年、特攻による戦死者数は6400人を数えるという。関のように日本が負けるという予感を持ちながらも、愛する人や家族のため生への執着を断ち切って自らを投じて行った者も多いに違いない。
 そういった純粋な若者たちの心情を現代の人たちにどのような形で伝えていくのか。西条では元特攻隊員だった寺田さん達が中心になって慰霊顕彰を続けてきたが、まもなく世代交代を迎えようとしている。一方、同じ愛媛県の西宇和郡三机では代々青年団の茶髪やピアスを着けた若者たちが、真珠湾攻撃特殊潜航艇の同世代の特攻隊員たちの慰霊祭を、毎年12月8日に手作りで行っている。
 また、敷島隊が特攻出撃したフィリピン・ルソン島のマバラカット東飛行場跡にはマバラカット観光局が神風平和記念廟を建立し、その歴史的事実を通じて世界の民族に平和と友好の尊さを訴えているという。
 楢本神社の境内には特攻隊員の史料等が陳列されている記念館があるが、当日は参列者のため会場内の目立つ所に関中佐の写真等が展示されていた。慰霊碑の傍らには、戦後西条出身の栗田友市が作詞したという「関中佐功績顕彰歌」の副碑がある。(敬称略)

出撃直前の関 (Wikipedia)

関中佐功績顕彰歌

栗田友市 作詞
根本邦雄 作曲

一 武丈の花の精うけて 大和心の敷島隊

  吹けよ神風花吹雪  散りて尊き軍神

ニ 必死必中敵艦に  あゝ壮烈の体当たり

  鬼神もさくる特攻の 先陣切りし関中佐

  (以下略)