発生から1ヵ月~熊本地震被災体験記
 陸自OBからの現地レポート(その1)

28.5.25
陸自OB 中垣秀夫

 新年度早々の4月、熊本地方は震度7の地震に2回、立て続けに襲われた。これほどの大地震が連続して起こるというのは気象庁や地震学者も含め人類にとって初めての体験である。これを現地において身をもって体験したので、今後の参考に資するため必要事項をまとめておくこととした。



Ⅰ 自分自身の被災体験
 我が家は8階建てマンションの7階なので、常識的に普通の家より揺れがひどかったと思われる。気象庁が前震と判定した14日の一度目の地震で、3つの本棚が倒れ、茶箪笥は倒れなかったものの、中で陶磁器やガラス製品同士がぶつかり合い、相当な被害があった。しかし、夫婦二人とも無事で、電気・水道・ガスは1~2時間程度で復旧した。ただし、水道については、マンション屋上の貯水槽が破損しており、応急修理により何とか給水を続けている状態であった。次の日、一日かけて部屋の中と本棚や茶棚の整理を行ったが、後日、時間をかけてキチンと整理しようと考え、その日はザッと収納した状態であった。
 ところが、そのような状態の中で、16日午前1時過ぎ、気象庁が本震と判定した2度目の大地震が来たのである。その日は2~3時間しか寝ておらず、夫婦二人とも“寝ぼけマナコ”の状態であった。もちろん直ちに停電したが、我が家のリビングの蛍光灯は停電後3時間ぐらい点灯するシステムなので、真っ暗闇にはならなかった。しかし、部屋中にガラスや陶器の破片が散らばっており、積んでいた本や新聞の切り抜きや資料等が散乱して、玄関まで足の踏み場もない状態である。
 そのような中で、妻が水道を止めに行く途中、もちろんスリッパは履いていたが、慌てていたので棒状のものに足を取られて転倒し、胸を強打してしまった。蛇口が旧式の上下式タイプなので、地震の衝撃で蛇口が開いた状態になったと思われる。私も右手首を負傷した。もっとも、その当時は、そこかしこをケガや打撲しており、傷の深さも不明である。あちこちから出血しているので、取り敢えず、バンドエイドと日本手拭いで止血して、夜が明けるのを待つことにした。その間、玄関ドアの開閉を確認するとともに、非常持ち出し袋と非常用飲料水・非常食等を確認し、少し気持ちが落ち着くとともに、次第に血も止まってきた。傷を子細に点検すると、右手首の1カ所だけが少し深そうであった。
 やがて、夜が明けたので家の内外を観察すると、どこもかしこも無茶苦茶で、ベランダの植木鉢も転倒しており、近所では瓦がすっかり落ちた屋根も散見された。何台もの緊急車両がワンワンとけたたましくサイレンを鳴らしながら走り回っていた。面白かったのは冷蔵庫の扉が閉まっているのに中身が外に飛び出していた。中には冷凍庫で凍っている物もあった。恐らく上の冷蔵庫と下の冷凍室が同時に扉が開き、中身が落ちて、また閉まったのであろう。後で考えると、冷蔵庫も含め観音開きの扉は中身が全て外に飛び出しており、スライド式の扉は閉まったままであったが、中でグチャグチャになっていた。
 そうこうしているうちに9時になったので、車で近所の掛かり付け医院に行った。ところが、病院と薬局も被災しており、薬局は麻酔薬が保管してあるためか、非常ベルが鳴り続けていた。次に、近所の白山小学校が市の避難所に指定されているので、そこの救護所で診て貰おうと考え向かった。ところが大勢の避難民でごった返しており、車も十重二十重に取り囲んで、近付くことさえできなかった。これでは、恐らく大病院でも相手にして貰えないだろうと想像された。仕方がないので帰宅し、歯医者で貰った口の中を消毒する薬があったので、これを代用して傷口を消毒し、バンドエイドと日本手拭いで止血して様子を見ることにした。
 電気はその日の朝7時頃に復旧したが、管理組合から「水道とガスとエレベータは復旧の見通しが立たない」との知らせがあった。なお、テレビが無事だったので、ニュースにより地震の全般状況や被害状況を把握することができた。パソコンは起動したものの、落下の衝撃でマウスの矢印が画面上に出ないので使うことができなかった。ちなみに、この間も大小の余震が続いており、この日1日で202回の余震があった。
 一方、生活の方は、飲用水と食べ物は備蓄があり、平素から数日間は何とかしのげる準備をしていたが、ガスコンロ用のガスボンベが心細い状態であった。そこで、各所の生活用品店が開くと聞いては、その都度、夫婦でそれぞれの店に並びに行った。2時間とか、1時間半とか、並んでやっと入店できても、何処の店もガスボンベは品切れであった。また備蓄があるとはいえ、飲料水も次にいつ入手できるか解らないので、車には常に空のペットボトルを積んでおき、給水の行列を見付けると並んで入手した。18日の午前、近所の防火用水から給水していると聞いて駆け付けたところ、高知県から応援に来ている消防隊員であった。そのようにして飲用水は確保できたものの、トイレや植木鉢用の生活用水には苦労した。妻が「こんな緊急事態に植木鉢の水がありますか。植物は枯れてもよかやんね」と大声を出し、私が「植木鉢にはミミズがおるけん、水ばやらんと死んでしまう」と言い返しますと、「信じられん。こんな時にミミズね」と怒り出し、こんな緊急事態の中で夫婦喧嘩である。ところで、熊本は“水の都”と言われており、74万市民の水道水は全て湧水で賄われている。それほど水が豊かなので、市内に江津湖という大きな湖がある。そこで生活用水は車で江津湖に汲みに行った。車の中でこぼれないようにバケツの中にビニール袋を入れて水を入れ、袋の口を輪ゴムで止めて運搬するのである。しかし、エレベータがまだ稼働していないので、7階まで運び上げるのが大変な重労働である。
 ガスボンベの入手に困っていたところ、18日午後、大分市の弟夫妻が見舞いに駆け付けてくれた。大分も被災しているので、ペットボトルやガスボンベは一人一個ずつしか販売してくれなかったそうであるが、何軒もの店を回って、沢山のボンベと水と生鮮食料品を持って来てくれた。そしてその際に、弟がパソコンを見てくれ、修復してくれた。ちなみに、弟はかつて法務省の情報課長を歴任しており、パソコンの専門家である。その間、弟嫁は細い身体で、持参した品々を7階まで何度も往復して運び上げてくれた。
 その間も余震は続いており、その日の21時半頃、震度5強のかなり強い余震があった。震源地が県境の阿蘇郡産山村と大分県竹田市だったので、弟はその辺りを帰る途中ではないかと思いメールしたところ、ちょうどその震源地の真上を通過中だったそうで、しばらくして「生きた心地がしなかったが、何とか無事に通過した」とメールがあった。翌日早朝、無事に帰宅できたか電話したところ、弟から「昨日は思い付かなかったけれども、家に帰って良く考えたら傷口が太い血管の傍なので化膿したら大変なことになる。熊本市内の病院がダメなら久留米か大牟田の病院で診て貰った方が良いのではないか」と言われた。「なるほど、それもそうだな」と思っているところに、山鹿の知人から見舞いの電話があったので、前述の状況を話したところ「そういうことなら山鹿に来て下さい。山鹿は平常どおりの生活ですよ」との由であった。
 それではと、ついでに温泉入浴とコインランドリーの準備をして、山鹿に向かった。とにかく、至るところ大渋滞で、通常であれば1時間で行けるところであるが、2時間半を要した。高速道路の九州道が植木と八代の間で不通になっており、多くの車が植木インターから3号線に入るため大渋滞を起こし、それを迂回するため更に菊池線に入り込み、しかも至る所で多数の緊急車両がサイレンを鳴らして通るので、そこかしこで渋滞が起こっていたのである。
 山鹿では病院での診察を最優先に考え、インターネットで調べていたので、先ず近い順に山鹿中央病院に行った。ところが、そこは内科主体の医院との由で、窓口で色々教えてもらうと、次に近い「山鹿市民医療センター(市民病院)は紹介状がないと診て貰えないかも知れない」との由であり、私立の堀利病院を教えて貰った。堀利病院も混雑しており、待ち合いで1時間半待って、ようやく院長に診て貰えた。診察では「早いうちなら1~2針縫って1週間で治ったと思われるが、時間が経っているので今更、縫うことはできない。化膿止めの軟膏を塗って自然に治癒するのを待つしかない」と宣告された。一方、熊本では薬剤が入手できないので、院長に頼んで湿布薬や絆創膏や防水ガーゼや葛根湯に至るまで処方して貰い、必要な薬剤は全て入手できた。次にコインランドリーに行ったが、そこも熊本市内から来た客の行列で2時間待ちであった。しかしその間に、妻は隣接する美容院でカットと髪染をすることができ、またゆっくり買い物やトイレも済ますことができた。更に「同病、相哀れむ」と言うが、隣に並んでいる家族連れと親しくなり、名刺を交換し、私が理事をしている国際交流会に入会も約束してくれた。そして彼等と同行していた孫の男児がゲームに夢中であったが、「将来パイロットになりたい」と言うので、防大を勧めるとともに、パイロットは目が大切なのでゲームをし過ぎないように話したところ、本人も大乗り気で、家族からも大変喜ばれた。温泉も家族湯は1時間待ちであったが、妻が「今日は一日、ユックリしたい」というので、家族湯に並んだ。そのようにして結局、朝8時に家を出て、帰宅したのは夜の8時であった。しかし、妻は家族湯が気に入ったようで、それ以来、4~5日に一度、コインランドリー付きで通っている。その後、傷口は化膿することもなく、次第に塞がって来て、1カ月でほぼ治癒した。
 一方、家の中は、前述のようにグチャグチャで家具の倒壊は免れたものの、棚の中でグラスや陶磁器同士がぶつかり合い、製品はほぼ全滅状態であった。朝鮮青磁の一輪挿し花瓶や薩摩切子やバカラのグラスなどの貴重品も割れてしまった。そして、本棚二つが再使用不可能な程度にまで大破し、中の本は無事だったものの、貴重なコピー資料と新聞の切り抜きが部屋中に散乱し、ガラスや家庭ごみと一緒くたの状態となり、もう一度目を通しながら整理し直す気力もないので、勿体ないけどゴミとして処分することとした。本に関しては、一般の図書館にはない貴重な本が沢山あるものの、以前からの妻の強い要望もあり、私的にもこれ以上個人で保有することは無理だと感じたので、ライフワークの南京事件に関する図書を除き、幹部候補生学校か、偕行文庫に寄贈したいと考えている。
 ガスは4月22日から使用可能になり、我が家には大阪ガスの職員が来てくれ、ガス管や器具の機能に問題がないか、丁寧に見てくれた。そしてエレベータの1台が同日から稼働を開始した。ちなみに、もう1台は屋上の貯水タンクがエレベータ棟を直撃したため双方とも大破しており、修復には2~3カ月が必要と見積られた。このため、管理組合では貯水槽なしで各戸に給水できる装置について検討した結果、1カ月以上を過ぎた5月18日に水道が復旧した。参考までにトイレの水について付言しておく。トイレは思いの外、大量の水を消費する。そこで必然的に各家庭は、小便の際は流さず、大便の時だけ流すようになった。ところが、排水管を流れる水量が少なくなると配管が詰まる恐れがでてきた。マンションでは1カ所でも排水管が詰まると全戸に影響が出る。そこで管理組合で話し合って、トイレットペーパーは便器に流さないようにし、使用後の紙は別途、貯めておき燃えるゴミに出すことにした。ゴミと言えば、このような非常事態にあっても官僚主義的な人間が居ると見え、「11日に埋め立てゴミを回収します。割れ物・瀬戸物を出して下さい。しかし、ガラス類は資源ゴミなので別途回収します。出さないで下さい」と宣うのである。各家庭からは「割れた危険物はガラスも瀬戸物も一緒に埋め立てゴミの袋に入れて出せるように準備している。もう一度、その袋を開いて区分し直せと言うのか。フザケルナ!」と怒り心頭であった。このような場合は、危険物はまとめて埋め立てゴミとして処理して貰いたい。(そのⅠ 了)