発生から1ヵ月~熊本地震被災体験記
 陸自OBからの現地レポート(その2)

28.5.25
陸自OB 中垣秀夫

 新年度早々の4月、熊本地方は震度7の地震に2回、立て続けに襲われた。これほどの大地震が連続して起こるというのは気象庁や地震学者も含め人類にとって初めての体験である。これを現地において身をもって体験したので、今後の参考に資するため必要事項をまとめておくこととした。



Ⅱ 地震発生と被災の全般状況
 地震発生は、1回目の前震が4月14日21:26、熊本地方を震源として比較的狭い地域に震度7の地震があり、2回目の本震は4月16日01:25、同じ熊本地方を震源として、益城町と熊本市が震度7の強震、阿蘇や大分を含む広範な地域を地震が襲った。地震は通常、短い時間の縦揺れがあり、若干の時間をおいて横揺れが来るのであるが、今回は2回とも、先ずドンと来て間髪を入れずグラグラと体感されたので、震源地が極めて近い、いわゆる直下型地震と判断された。なお、地震の強さを示すエネルギーは前震がM6.5であり、本震がM7.3であった。僅かM0.8の違いであるが、エネルギーの強さは約1.3倍になる。
 ちなみに、大地震が28時間という短い間隔で同地域に発生したのは人類史上、初めてであり、過去に発生した一番近い例は、昭和19年12月7日の東南海地震と昭和20年1月13日の三河地震であり、この場合は間隔が37日間であった。しかしこの場合も、東南海地震で建物に被害が出ていた上に、更に三河地震が重なったため甚大な被害となり、死者が2,306人にのぼった。
 熊本県には大きく東西に走る布田川断層と南北に走る日奈久断層とがあるが、今回の地震は最初は布田川断層沿いに熊本市~益城町~西原村~南阿蘇村と発生した。一番大きなズレは水平方向に3.5メートルと言われているが詳細は不明で、地表では1メートルのズレが露出した。ちなみに、島原~阿蘇~別府につながる火山活動地帯を「別府・島原地溝帯」と言い、布田川断層のズレがこれを刺激して、別府・由布岳の地震につながったようである。なお地質学的には、5万年後には九州はこの地溝帯を境に南北に分離し、九州は2つに分かれるそうである。
 一方、布田川断層と日奈久断層とは熊本市付近で交わっており、布田川断層のズレは日奈久断層をも刺激し、熊本市~御船町~宇城市~宇土市~八代市~人吉市へと震源地が南下した。熊本城や益城町の被害が甚大なので、他の地域の被害は霞んでしまったかに見えるが、大津町、宇城市、八代市、人吉市役所は崩落の危険性があるとして市役所機能を移転したし、宇土市役所は現に5階建ての4階部分が崩落した。従って、益城町を含む6つの市と町は一番肝心な時に行政司令塔が機能停止に追い込まれた。病院の被災も相次ぎ、拠点病院である市民病院は倒壊の恐れがあるとして入院患者310人を他の大病院に転院させた。このあおりを食らって、同期の長尾君は避難していた日赤を追い出され、止む無く自宅の庭で車中泊を余儀なくされた。
 地震による人的被害は、軽傷者は数え切れないほど多いものの、死者49人、行方不明1人、重傷者357人であり、地震の規模の割には少ない被害で済んだ。これは地震発生時、ほとんどの人が家に居て、火災発生につながらなかったためと思われる。また震災関連死が19人であるが、これも他の場合に比較して非常に少なく、エコノミークラス症候群に関する知識が関係者の間で共有されたためと思われる。更に言えば、医療・衛生関係者の連携は見事で、車中泊も含め約13万人の避難民が発生したのに、黄色ブドウ球菌による20人くらいの小規模の食中毒が一件あっただけで、心配されたインフルエンザやノロウイルスによる集団感染は一件もなかった。ただし、関連死の中には私の友人の祖母が含まれており、避難所で付き添っていた家族がほんの数分間、目を離した隙に死亡したとの由である。医師が来たけれども聴診器以外の検査機器もなく、診断は「エコノミークラス症候群だろう」であった。人が一人亡くなっているのに「だろう」で片付けられたと、友人は怒っていた。葬儀所と火葬場も大混雑で、僧侶は来てくれたものの、親戚に連絡することもできず、友人と母親と二人で見送ったとの由である。
 当然、熊本偕行会員にも被害が出ており、U会長はマンション玄関のドアの蝶番(ちょうつがい)部分が浮き出て、開閉ができなくなり、ドアを開けっぱなしにして太めのチェーンに南京錠を掛けて暮らしている。T副会長はマンションの12階なので揺れがひどく「とてもこのまま住めない」として、親戚の勧めもあり福岡に避難した。T副会長のマンションに隣接する老舗料亭「新茶屋」は壊滅的な被害を受け、再建を諦めて売却したそうである。F副会長は自宅が崩落の危険があるとして、指定避難所に避難した。I事務局長は自宅の屋根の瓦が落ちてしまい、ブルーシートで雨風をしのいでいる。M監事は、家は無事だったものの、家の周りの石垣が崩落し、二次災害を防ぐため梅雨までに処置が必要な状態である。K事務局長補佐の未亡人は一昨年暮、市内の4階建てマンションに転居したばかりであるが、地震で1階部分が座屈し、福岡に避難している。同期のK君は「高台で地盤が固く、何の被害もなかった」と言って、防衛を支える会長として7月の参議院選挙の準備に邁進しているが、そういう彼もテレビが壊れている。以上、熊本偕行会全員の状況を把握している訳ではないが、要するに「大なり小なり、全員が被災者である」ことに変りがない。
 特に学童にとっては地震の影響は深刻である。新緑と希望に輝く中、多くの小・中学校は4月14日が始業式であった。子供達は1日間、学校に通ったのみで地震に遭遇したのである。学校施設自体の被害もさることながら、殆どの学校が避難所に指定されており、新学期どころではなくなってしまった。県教委は「授業の遅れは夏休みの返上により取り返す」と言っているが、熊本の夏の暑さは尋常ではなく、そのうえ夏は中国からのPM2.5の飛来も多いので心配である。
 熊本城はニュースで取り上げられたように、国の重要文化財の櫓、石垣、門、矢倉、練塀等6ケ所が全壊した。しかし細かく見ると、国の重要文化財13件を含む建造物32件全てに被害があり、石垣も53カ所が崩れている。文化庁の見積りでは修復には200~250億円の費用と20~30年の歳月が必要だそうである。そして、熊本城に隣接する熊本大神宮は熊本城の石垣の崩落で押し潰され、神殿が全壊した。更に熊本城を挟んで反対側にある護国神社も神殿右側が倒壊しそうで、ツッカイ棒で支えている状態である。熊本で最も古く歴史のある阿蘇神社も国の重要文化財である神殿と楼門が全壊した。なお、陸軍小峰墓地の墓標は一部を除き殆どが倒壊している。また陸軍遺跡についても、多くの遺跡に被害が及んでいる。繁華街に近い手取天満宮は参道入口の大鳥居は無事だったものの、神殿前の鳥居は崩落した。水前寺公園は参道入口の10メートルの大鳥居が崩落し、池の水が2割程度にまで減少した。このままでは「池の鯉が全滅するのではないか」と心配されたが、水位が少しずつ回復しているので全滅は免れそうである。
 高速道路の九州道の被害は道路の亀裂や路肩の地滑りが若干あったが、それらの被害個所は思ったより少なく、最も多かったのは九州道を跨いでいる道路橋の崩落や損傷が原因である。従って、比較的早く4月29日までに復旧できた。しかし路面が波打っており、速度は50キロに制限されている。熊本空港は益城町にあり、滑走路には被害がなかったものの、ターミナルビルが被害を受け、現時点でも離発着便に影響を及ぼしている。私も影響を受け、通常であれば当日の朝一番か二番で来れば十分間に合うのであるが、それらが運航停止になっており、昨日から上京した。変わった事例としては、新幹線熊本駅前にできた最新式の熊本市図書館において、スプリンクラーが作動したため蔵書が全て水浸しになるという被害があった。
 新聞社の調査によると、被災者の多くがいったん避難所に避難したものの、後片付けやペットの世話等のため自宅に帰って、そこで再び被災している。このため、1カ月経ってからも、「いつ頃、避難生活を終えるつもりか」との質問に63%の避難者が「目途がない」と回答している。被災者が欲しかったものは、最初は断トツで家族・親戚や知人の安否情報及び余震情報であり、それが一段落した後は、水、食料、医薬品、トイレ、風呂の順位であった。ちなみに、これらの項目と優先順位は阪神淡路大震災と東日本大震災でもほとんど同じである。父兄会と隊友会が推進する家族支援事業の在り方に大きなヒントになると思う。
 政府は、安倍首相の強いリーダーシップの下、県の要請を待たずに物資を推進する「プッシュ型支援」を行うことを決定し、避難民を10万人と想定して3日分の食料90万食を前送した。ところが、県が計画していた集積地は益城町のグランメッセである。グランメッセはドーム2個を含む大型展示施設で、2千台の駐車場があり、給水施設やトイレも完備している。しかし、肝心の建物の中は天井材や照明器具が落下してグチャグチャになっており、屋根があっても集積場として使えない。次いで駐車場付きの大型施設は市民会館を含む熊本城であるが、ここも被災している。しかも今回は、地震後に雨が多く、平年の2倍の雨量があった。しかもたまには局地的短時間集中豪雨があり、そのうえブルーシートを吹き飛ばすほどの強風もあった。被災者にとっては二重苦・三重苦である。そのような状況なので、止むを得ず、国は現地熊本での集積を諦め、佐賀と福岡に支援物資を集積し、そこから被災地に前送することとした。九州道をはじめとする幹線道路が使えない状況では、もしあくまで熊本県内での集積を追求した場合、渋滞と混乱に拍車が掛かったと思われ、変更は賢明な策であった。今から考えれば、自衛隊の健軍駐屯地、北熊本駐屯地、高遊原分屯地等を補助的基地に指定し、それぞれに20万食ほど集積すれば被災者支援がよりスムーズに行ったのではないかと思っている。
(その2 了)