吹奏楽への足跡ー海軍軍楽隊から海上自衛隊の音楽隊へ(3)

大村能章

大村能章(本名:大村秀一)は、明治26年12月13日、山口県に生まれ、明治42年6月1日に横須賀海兵団軍楽隊入団し、クラリネットを専攻していましたが、 昭和37年1月23日に没しています。

代表作として「同期の桜」の元歌「戦友の歌」や「麦と兵隊」、「野崎小唄」等を挙げることができます。
皆さんも軍歌と言われてまず思い浮かぶものの一つに「同期の桜」があると思います。「同期の桜」は厳密に言うと軍歌ではなく軍歌調歌謡曲と言うのが正しいのかもしれませんが、それは置くとして「同期の桜」の作曲者は長く不明でした。作曲者判明までのエピソードを谷村政次郎氏の文で紹介したいと思います。

「同期の桜」のエピソード(参考:谷村政次郎氏資料)

 “昭和歌謡史最大の謎”とされていた「同期の桜」の作者が判明するまでには、多くのエピソードがありました。
昭和55年3月、元海軍主計兵曹が“私の作曲した「神雷部隊の歌」が「同期の桜」の元歌である”と主張し、レコード会社6社に対し、レコードの製作・販売の中止と各社一律50万円の支払い請求の訴えを東京地裁に起こし、各紙に大きく報道されました。

反響が大きく、海軍兵学校第71期生からは、“同期の帖佐裕氏の作である”という情報が数多く寄せられました。
しかし帖佐氏本人は週刊誌の取材に対し、“作曲は私ではありません。歌詞についても江田島(広島県の元海軍兵学校、現在の海上自衛隊幹部候補生学校所在地)の金本倶楽部にあったレコードの歌の詩を変えただけです”と証言していました。

訴訟騒ぎになったことから、各方面から反論も寄せられました。
特集を組んでこの問題に取り組んだ東京新聞は、苦労の末、帖佐氏が聴いたと証言した「戦友の歌」が入った古いSPレコードを見つけ、その音源が「同期の桜」の元歌であることを確認しました。

“君とぼくとは 二輪の桜…”と歌い出す「戦友の歌」は、講談社の雑誌『少女倶楽部』の昭和13年2月号に載った西條八十作、須藤重画の絵小説「二輪の桜」の冒頭に出てくる4番まである詩の副題でした。
海軍兵学校の同期生は、“貴様、俺”でお互いを呼び合っていましたが、「神雷部隊の歌」の作者のような兵員の間では、使われていませんでした。兵学校生徒ならではの、歌い出しです。

また、「神雷部隊の歌」を作曲したと主張している昭和19年6月には、「神雷部隊」がまだ編成されていなかったという事実と共に、作曲当時1等主計兵曹に昇任していたはずなのに、楽譜には2等主計兵曹と署名している矛盾点も指摘されています。
歌謡界に身を転じ、三味線を入れた斬新な作風で、股旅物に多くの名曲を残した大村は生前、自身が「同期の桜」の元歌の作曲者だったということを一度も証言したことはありませんでした。多作のため、本人も自分の作だということを、忘れていたようです。

それでは、大村能章の代表作、「同期の桜」と「麦と兵隊」を紹介したいと思います。

「同期の桜」の楽譜

「麦と兵隊」の楽譜

深海善次

深海善次は、明治37年10月3日、新潟県に生まれ、大正13年6月1日に横須賀海兵団軍楽隊入団し、ユーフォニアムを専攻していました。
昭和11年に海軍を退役し東京音楽学校講師となり、同年ビクターの専属作曲家に転身しています。
代表作として、軍歌「精鋭なる我が海軍」「海軍記念日の歌」「佐世保軍港行進曲」、満洲国曲「協和義勇隊の歌」、意想曲「日本海海戦」、行進曲「海の荒鷲」「進め!荒鷲」「鵬翼萬里」「紀元二千六百年」「大日本青年団」、奉祝前奏曲「御降誕」を挙げることができます。
また、『新訂吹奏楽法』『トランペット教本』(いずれも音楽之友社)等の著書を残しています。

奉祝前奏曲「御降誕」

 この曲は昭和8年、今上陛下がお生まれになったことを祝って作曲されたものです。
谷村政次郎氏の筆になる説明を全文引用したいと思います。説明文からも皇太子殿下のお誕生を喜ぶ当時の日本の様子が伝わってくるような気がします。

「昭和8年12月23日午前6時39分、全国民待望の皇太子殿下のご生誕を知らせるサイレンが鳴り渡った。
東京市内18ヶ所に設けられたサイレンが1分間継続して鳴れば内親王、10秒後更に1分間鳴れば親王と取り決められていた。
同29日午前10時半から宮中において「御命名の儀」が執り行われ、11時にお名を「明仁」、御称号を「繼宮」と勅定ご命名された。
同時刻、品川沖に停泊中の軍艦「鳥海」「五十鈴」「木曽」からは5秒間隔の、市ヶ谷台の陸軍士官学校に布陣した近衛野砲連隊の野砲4門からは10秒間隔の皇礼砲が21発、それぞれ宮城に向かって発射され、帝都は砲声に包まれ奉祝の喜びは全土に広がった。
この曲は、内藤清五海軍軍楽長の命を受け、深海善次海軍1等軍楽兵曹が謹んで作曲し、同月28日に完成したものである。
「皇太子殿下御誕生奉祝陸海軍軍楽隊合同大演奏会」は、命名日の翌30日に日本青年館において実施された。内藤軍楽長指揮の海軍軍楽隊による初演は、ラジオ第1放送から全国に中継放送された。」

奉祝前奏曲「御降誕」

行進曲「進め!荒鷲」

昭和12年7月に始まった支那事変(当時の呼び方。現在は日中戦争と呼ばれる)において、海軍航空隊は渡洋爆撃、重慶爆撃あるいは零式艦上戦闘機が初陣において13機をもって中国空軍機37機を全機撃墜し、日本側に撃墜されたものがないという完勝を挙げるなど大活躍をしました。その活躍の様子を描写したのがこの行進曲「進め!荒鷲」です。

昭和13年8月27日、日比谷公園大音楽堂において内藤清五軍楽長指揮の海軍軍楽隊の演奏で初演され、同年9月17日に黄海海戦(日清戦争中の日本の聯合艦隊と清国北洋艦隊の間で行われた海戦)45周年記念放送や12月26日のアメリカ方面向け海外放送でも演奏されています。
この行進曲作曲の時、深海はすでに海軍を退役しており、ビクターの専属作曲家として活躍していました。

行進曲「進め!荒鷲」 の楽譜

片山正見

片山正見(海上自衛隊提供)

次に海軍軍楽隊から海上自衛隊音楽隊への橋渡し役として活躍した片山正見氏を紹介したいと思います。
片山正見氏は、大正3年6月15日、山口県阿武郡地福村第321番屋敷に生まれました。
昭和7年6月1日、海軍4等軍楽兵として横須賀海兵団に入団し、トランペットを専攻していました。

3年間の呉海兵団軍楽隊勤務を経て、昭和11年11月から昭和13年10月までと昭和15年11月から昭和17年11月までの2回、東京音楽学校に派遣され和声学等の研さんに勉めています。
昭和15年に日本海軍最後の練習艦隊による遠洋航海に参加したほかは、艦隊勤務もなく常に作曲、編曲に従事しており、海軍に14年間も勤務しながら、勲章をもらう機会のない配置ばかりに就いてきています。

終戦直後の20年10月からは、東京都音楽団管弦楽部に在籍するかたわら、特別調達庁音楽部門駐留軍専属楽団主宰としてジャズバンドを編成し、各地の進駐軍キャンプにおいて演奏活動を行ってきました。
昭和26年2月の海上保安庁音楽隊創設時から海上自衛隊音楽隊となるまで、常に副隊長として隊長を補佐し組織の充実に努めました。
昭和37年7月26日に第2代東京音楽隊長に就任し、42年4月1日までその職にありました。その間の昭和39年6月1日に1等海佐に昇任しています。
この間、地方隊音楽隊の育成、昭和33年8月から練習艦隊の音楽隊長として戦後初のアメリカ・カナダ訪問を果たしています。

片山隊長で思い出されるのは昭和39年10月の東京オリンピックにおいて式典音楽指揮を執ったことでしょう。
また、全日本吹奏楽コンクールの審査員を務めるなど幅広く活躍してきました。
海上自衛隊退職後も、愛国学園短期大学の学監兼教授として就任する傍ら、一貫して作曲活動を続け、数多くの作品を残しています。
平成21年12月20日、狛江市の自宅にて逝去、享年95歳でした。

片山正見の作品として戦前には昭和15年の皇紀二千六百年の祝賀行事を盛り上げるために作曲した祝典序曲「歓喜」があります。
同年2月に完成し、雅楽の舞楽の雰囲気を一部に盛り込んでおり、管弦楽にも編曲されています。吹奏楽譜が管楽研究会から出版されたことから、全国各地で盛んに演奏された作品です。
しかし、ここでは海上自衛隊になってからの3作品を年代順に取り上げてみたいと思います。

「舞鶴練習隊隊歌」(現「舞鶴教育隊隊歌」)

昭和27年に保安庁の開設に伴い海上警備隊が警備隊に改称され、3等海上警備士として新隊員が募集されました。
その新隊員は練習員と呼ばれ、教育訓練を実施する部隊として同年11月に舞鶴練習隊が新編されました。
練習員の士気を高めるため作られたのが、この「舞鶴練習隊隊歌」で、作詞者の塩崎昌夫は第1期練習員でした。
警備隊音楽隊の片山副長作曲のこの隊歌は、警備隊から海上自衛隊を通じて作られた多くの隊歌の第1号となる曲です。
なお、昭和32年に舞鶴練習隊は舞鶴教育隊に名称が変更されたため題名は「舞鶴教育隊隊歌」に変更されました。

「舞鶴練習隊隊歌」(現「舞鶴教育隊隊歌」) の楽譜

「出港用意」

「出港用意」というのは、海上自衛隊の艦艇が出港するときに、出港に関わる作業にかかるように艦艇長から出される命令です。
水上艦艇の場合、艦艇長から“出港用意”の命令が出されると信号員がラッパで「出港用意」を吹奏し、その後に名調子で“しゅっこうよーい”と艦内放送が流れます。
この「出港用意」は警備隊当時の昭和28年から29年にかけて部内から歌詞を募集して作られた隊歌で、このような艦艇の出港の様子を描写したものです。作詞者の谷浦英夫は、昭和44年に実用実験隊司令で退職した元海将補(海軍少将に相当)でした。

「出港用意」の楽譜

行進曲「世紀の祭典」

最後に紹介するのは行進曲「世紀の祭典」です。 昭和39年5月、東京オリンピックを目前にして作曲された大行進曲で、音楽之友社から出版されています。

行進曲「世紀の祭典」の楽譜