吹奏楽への足跡ー海軍軍楽隊から海上自衛隊の音楽隊へ(1)

前に本コーナーで、海上自衛隊の音楽隊を紹介しました。
海上自衛隊の音楽隊の演奏曲目というとすぐに行進曲「軍艦」、いわゆる「軍艦マーチ」を思い浮かべられる方も多いと思います。
もち論、行進曲「軍艦」は後にも述べるように日本海軍の儀制曲に指定され、海上自衛隊でも儀礼曲の一つとされているように海軍あるいは海上自衛隊を代表する行進曲であることは間違いありません。

行進曲「軍艦」の作曲者は瀬戸口藤吉ですが、彼が作曲したその他の曲をご存じの方は吹奏楽あるいは海軍の歴史の造詣が相当に深いと思います。
そこで、今回は吹奏楽に残された日本海軍あるいは海上自衛隊の足跡を訪ねてみようと思います。

それぞれの時代を代表する作曲者を紹介し、その代表作に解説をするという形にしました。
また、取り上げた代表作の楽譜の1ページ目を画像として添付しました。この楽譜をクリックしていただくとその曲のさわりを聞いていただくことができます。

今回の紹介と解説で筆者が果たした役割は、皆様が読みやすい形に編集したということに過ぎず、元となる原稿を執筆してくださったのは元海上自衛隊東京音楽隊長谷村政次郎氏です。

瀬戸口藤吉

瀬戸口籐吉

最初に取り上げたいのは、やはり行進曲「軍艦」の作曲者である瀬戸口藤吉です。

瀬戸口藤吉は、明治元年5月に瀬戸口覚兵衛の次男として、鹿児島県肝属郡垂水村田神(現垂水市)に生まれました。
海軍軍楽隊員の二回目の募集に合格した瀬戸口は、明治15年12月23日に他の15名とともに入隊しました。
成績は極めて優秀で同じ薩摩出身であった初代軍楽長中村祐庸や後の軍楽長吉本光蔵に目をかけられ、明治27年7月には27歳で海軍軍楽師(准士官)に任命されました。当時、もっとも若い海軍軍楽師でした。
日清戦争及び日露戦争を通じて直接戦闘に参加する配置に就くことはありませんでした。

瀬戸口が聯合艦隊旗艦「三笠」の軍楽長を命ぜられたのは、日本海海戦が大勝利に終わった直後の明治38年6月のことでした。同年9月11日に同艦は佐世保港内において爆沈し、多くの犠牲者を出しましたが、瀬戸口は入湯上陸をしたまま「三笠」には帰っていなかったため、難を免れるという強運の持ち主であったのです。

瀬戸口藤吉の功績は、行進曲「軍艦」の作曲を別にすると、弦楽の導入による管弦楽編成を確立したこと、東京に横須賀海兵団派遣軍楽隊を設置したこと及び軍歌集『海軍軍歌』の編纂の三つを挙げることができます。

明治40年には遣外艦隊の旗艦「筑波」に乗り組み、欧米各国を訪問しました。
さらに、明治44年には英国国王ジョージ五世の戴冠式に派遣された遣外艦隊旗艦「鞍馬」に、再び自らが育てた管弦楽編成の軍楽隊で初めて乗り組み参加しています。
大正6年11月4日、帝国劇場において告別演奏会が開催され、同月15日に予備役に編入されました。
昭和16年11月8日午前4時30分、東京都麻布区今井町の自宅で最後の脳溢血に襲われ永眠しました。享年74歳でした。

ここで瀬戸口藤吉の代表作を取り上げてみたいと思います。
取り上げるのは行進曲「軍艦」、「敷島艦行進曲」、行進曲「明治三十有五年」及び「野球行進曲」の4曲です。
最初は言うまでもなく行進曲「軍艦」です。

行進曲「軍艦」

行進曲「軍艦」の楽譜

瀬戸口藤吉が先輩の田中穂積に勧められて鳥山啓の「軍艦」に作曲したのは、明治30年頃のこととされています。
この「軍艦」とトリオに「海行かば」を入れて現在の行進曲の形で演奏された記録は、明治43年7月16日の日比谷公園音楽堂における演奏が最初でした。

一般には、明治33年4月30日に神戸沖で行われた観艦式の式場に向かう軍艦「富士」乗り組みの軍楽隊が初演とされていますが、「富士」は直前に伝染病患者が発生し、御召艦からはずされており、当日は航行していないことから根拠はまったくありません。

帝国海軍では行進曲「軍艦」は、儀制曲第10号として「進水式に於て船体滑走又は進行を始むるとき其の他観兵式(分列式、閲兵式)等」とその用途が定められていました。

トリオに使われている「海行かば」も、海軍儀制曲第2号として「将官及司令官たる大佐に対する礼式及朝鮮総督、台湾総督、関東長官、当該官の管轄区域内に於て公式訪問のとき並びに外国駐箚の我大使公使駐箚国に於て公式訪問の為来艦し又は退艦のとき並びに軍艦にて赴任し最後退艦のとき及帰朝の為最初乗艦のとき」と定められていました。

海上自衛隊になって、行進曲「軍艦」は海上自衛隊の儀礼曲では10曲目に「観閲式における観閲行進の場合、自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合、自衛艦命名式における進水の場合及びその他必要と認められる場合」と定められている公式行進曲になっています。

敷島艦行進曲

「敷島艦行進曲」の楽譜

軍艦「敷島」は日本海軍の第1期拡張計画に基づき、明治33年1月にイギリスのテームス社で竣工し、同年4月17日に呉軍港に回航されて来た排水量15,088トンの最新鋭の一等戦艦でした。
明治35年頃、横須賀に停泊中の同艦を見学した御歌所寄人阪正臣の詩に、瀬戸口藤吉が作曲した「敷島艦の歌」をトリオに入れたのが、この「敷島艦行進曲」でした。
軍艦「敷島」は、聯合艦隊の第1艦隊第1戦隊の1隻として日露戦争を戦い抜いてきました。
明治38年10月23日、日露戦争の凱旋観艦式が東京湾横浜沖で実施されました。この観艦式の旗艦は当然、日露戦争期間中、聯合艦隊旗艦であった軍艦「三笠」となる予定でしたが、9月11日の深夜に佐世保港内で爆沈したため「敷島」が、観艦式における旗艦の栄誉を担うことになりました。

行進曲「明治三十有五年」

行進曲「明治三十有五年」の楽譜

作曲年代は明らかではありませんが、日露戦争を目前にして緊迫した国際情勢に対する当時の国情を描いたものと思われます。

「野球行進曲」

「野球行進曲」の楽譜

野球シーズンが始まり、東京六大学も早稲田大学の齋藤投手などいろいろな話題で盛り上がっているようです。
この東京六大学リーグ戦は大正14年に始まり、翌15年秋には明治神宮外苑野球場が完成し野球の人気が更に盛り上がりました。
当時、東京帝国大学・法政大学等のオーケストラの指導を行っていた瀬戸口は、この行進曲を作曲して学生達に捧げたと言われています。

江口源吾

二人目として取り上げたいのは江口源吾です。
江口源吾は、明治36年7月1日、岐阜県養老郡時村(現在の大垣市上石津町)の農業江口源彌の次男として生まれました。
大正8年6月1日、横須賀海兵団に海軍4等軍楽兵として入団し、トロンボーンを専攻、翌9年10月15日に第1期軍楽補習生を37名中首席で卒業しました。
大正10年に皇太子殿下(昭和天皇)がご訪欧される際、お召艦「香取」乗り組み軍楽隊員に最若年の2等軍楽兵として選抜されています。

昭和3年11月の京都御所で行われた即位礼に参加、さらには昭和5年10月に神戸沖で実施された特別大演習観艦式には、お召艦「霧島」乗り組み軍楽隊にも選抜されるなど、江口は退役するまで名誉ある配置に付いてきました。

東京音楽学校に派遣されていた際、江口は音楽に対する自信を失い、新国劇の澤田正二郎を訪ね弟子入りを申し入れましたが、澤田から「一つのことを5年で自信を失う人は、芝居も5年で迷うことになるでしょう。
演奏がだめなら作曲はどうだろう」という意味のことを言われて諭され、以後一念発起して独学で作曲の勉強を始めたというエピソードが残っています。
昭和6年5月31日、海軍を退役し、以後は歌謡曲の作曲家江口夜詩の名前で活躍してきました。名前の夜詩(よし)というのは、昭和5年4月9日に敗血症のため24歳の若さで病没した愛妻喜枝(よしえ)にちなんで付けられたものでした。
江口源吾は、昭和53年12月8日に府中市の慈惠医大第3病院で逝去しました。享年75歳でした。

平成6年5月4日には、出身地である岐阜県養老郡上石津町に“昭和音楽村・江口夜詩記念館”が落成、海上自衛隊東京音楽隊も参加して盛大な催しが実施されています。

 江口源吾で最初の思い出されるのが「艦隊勤務」ではないでしょうか。「艦隊勤務」をご存じなくても、「月月火水木金金」という歌詞はどこかで耳にされたことがあると思います。

「艦隊勤務『月月火水木金金』」

「艦隊勤務『月月火水木金金』」の楽譜

昭和15年春に海軍省海軍軍事普及部勤務であった高橋俊策中佐(海軍兵学校48期生)が、艦隊に乗り組み豊後水道において想を練り、詞を作り、江口源吾が海軍退役後、江口夜詩の名前で作曲したものでした。

当初は話題になりませんでしたが、大東亜戦争開戦後、ラジオの戦果発表の際に使用する適当な曲を探していた係が偶然手にしたのがきっかけで、当時の状況とも合致して大ヒットとなったものです。

江口源吾の作品としては、さらに次の2曲を取り上げてみました。

行進曲「千代田城を仰ひで」

行進曲「千代田城を仰ひで」の楽譜

江口源吾の処女作です。
大正14年2月に完成したもので、佐藤清吉軍楽長に激賞され、開局直後のラジオ放送で発表され、以後、元旦の午前6時半から海軍軍楽隊の演奏で慣例的に放送されてきました。

「聯合艦隊行進曲」

「聯合艦隊行進曲」の楽譜

聯合艦隊は、皆さんもご存じのように2つ以上の艦隊をもって編成された日本海軍の主力となる部隊でした。
日清戦争開戦直後に常備艦隊と西海艦隊(元の警備艦隊)をもって編成されたのが始まりで、後に海軍大臣、総理大臣を歴任した山本権兵衛海軍大将(当時、海軍大佐で海軍省官房主事)が命名したと言われています。

日露戦争終了後、秋山真之作戦参謀が起案し、東郷平八郎司令長官から発布された「聯合艦隊解散之辞」に見られるように聯合艦隊は戦時や訓練の時に編成される臨時の部隊であったといえます。しかし、大正12年に常設の艦隊となりました。

聯合艦隊司令長官は、通常は第1艦隊司令長官が兼務してきました。
昭和7年頃の作品で、高木雅楽作詞の同名の曲がトリオ(中間部)に盛り込まれています。