イワン・チェンナムの中国便り
-見て聞いて知った最近の中国情勢 全6回(その3)-

イワン・チェンナム

 全6回(その3)

「親米の清華大学、反骨の北京大学」
 北京オリンピック後は、中国の大学の序列は、1位清華大学、2位北京大学、…と言われております。中国の教育研究機関等が勝手に評価しているものです。しかし、清華大学は主として理工系で北京大学は人文系とされています。いずれにしても、中国内外の評価は、中国の大学のトップは清華大学と北京大学であることについては異論はないようです。しかし、設立の経緯や校風等にはかなり異なる特徴が見られます。 一般には、“親米の清華大学、反骨の北京大学”と言われております。
 前の国家主席の胡錦濤のほか現在の国家主席の習金平も清華大学出身です。清華大学の発足には当時の米国が深くかかわっておりました。清朝末期の1900年に義和団事件が起こりました。この時、日本、米国を含めた8カ国連合軍が清朝政府に代わってこれを鎮圧しました。この8カ国は、鎮圧の代賞として賠償金を清朝政府から受け取りました。米国が受け取った額は日本円にして約5000万円という高額なものでした。日本の当時の国家予算が4億円にも満たない時でした。米国はこの賠償金から必要経費を引いた残金約1700万円を中国に返還することにしました。当時の米国の初代ルーズベルト大統領が議会で演説した内容が以下です。
 「我が米国は、米国の援助により中国の教育を支援し、米国の影響力を以て中国を段階的に近代的な文化国家に変えていかなければならない。支援の方法は、中国から得た賠償金の残金を返還して中国政府自ら中国人学生をアメリカに留学させることにしたい」(1907年12月3日)
 これにより、1911年に清華大学の前身である清華学堂が設立されました。辛亥革命が起こった年である。翌年、清朝政府は崩壊し、宣統帝溥儀は退位をしました。まさに、清朝の最後の歴史的な大事業でもあったのです。その後、1928年、清華学堂は清華大学として再出発をしました。2011年が、清華大学の発足100周年でした。既に,100年前に戦略的な対応を図った米国の卓見に驚きを禁じ得ません。教育の重要性とはまさにこのようなことを言うのでしょう。このため、現在でも中国では、清華大学のみならず優秀な留学生が大量に米国に行っております。既に、米国からの留学生帰還者は10万人を超えています。この優秀な帰還者が、中国共産党や政府において枢要な地位を築いて米中間の絆となっていることは間違いない事と思います。中国国務院には、中国政府の5か年計画等の重要な国家計画を立案する「国家発展改革委員会」という部署がありますが、主要なメンバーはこのような留学組によって占められており、日本からの留学帰還組は皆無ということを聞いたことがあります。
 北京大学は、清華大学よりも早い時期、1898年に京師学堂として発足し、1912年には北京大学となっております。まさに清朝が崩壊する混乱の時期に北京大学も発足しています。2006年に私は北京大学に留学いたしました。当時も、大学の中で唯一、大学構内に公安(警察)が駐留しておりました。
 私が宿泊していた留学生会館「勺園」の入り口にも24時間警備がなされていたことを覚えております。
これは、北京大学が歴史的に常に反政府運動の中心となっていた歴史があるものと思われます。
 清朝崩壊の契機となった五四運動、文化大革命の紅衛兵の発祥、天安門事件等では、北京大学が常に中心的な役割りを果たして来ております。現在中国では、文革批判が行われておりますが、北京大学の講義においても公然と文革の再評価が論じられておりました。改革開放は、経済分野のみならず、確実に教育や文化宗教芸術等の広い範囲に及んでいることを実感いたしました。1946年に清華大学は、北京大学の道路を挟んだ向かい側に移転をしました。これにより両校の切磋琢磨が一層高まったとの評価がなされております。
1952には、北京大学は清華大学の文化系部門を受け継ぎ、代わりに北京大学の理工系部門を清華大学に引き継ぎ、それぞれが文化系と工学系に特化した大学として競い合っております。(日本で言えば、東大と東工大が本郷通りを挟んで向かい合っているようなものです)


清華大学東門 北京大学西門

* 何となく、両校の門の風情にもそれぞれの校風が感ぜられる。「親米の清華、反骨の北京」


「日、米、中、韓 各国の留学生の状況が物語るもの」

 日本(2011年度)  米国(2009年度)  中国(2009年度)  韓国(2006年度)
 (日本学生支援機構)  (米国際教育研究所)  (中国教育部)  (教育人的資源部)
 中国人:87,533  中国人:127,600  韓国人:64,232  中国人:20,800
 韓国人:17,640  インド人:104,900  米国人:18,650  日本人: 3,712
 台湾人: 4,571  韓国人:72,200  日本人:15,409  米国人: 1,468
 米国人: 1,456  台湾人:26,700  タイ人:11,379  ベトナム人:1,179
 インド人: 573  日本人:24,800  インド人:8468  台湾人: 944
       *()内は発表先

 2006年2月に北京大学に留学した時には、北京大学の留学生は、韓国、日本、米国の順に留学生が多かったことを記憶しておりますが、その翌年から日本からの中国への留学生は減少に転じたようです。当時、韓国や米国の留学生に北京大学への留学の動機を尋ねたことがありました。韓国の留学生は“韓国は、日本と同じで資源がないため国の発展は貿易に頼らざるを得ません。特に、隣国の中国の市場は韓国にとっては何よりも重要です。そのためには中国を学ぶことが重要です。”米国の留学生は“今後世界をリードする国は、米国と中国だと思います。両国は、主義主張は異なりますが、異なればこそ異なる国の事を勉強する必要があります。” 私は、とっさに清華大学発足時のルーズベルト大統領の言葉を思い出しました。あえて、日本の留学生にも留学の動機を尋ねてみました。その日本人留学生は“中国語は就職に有利であり、中国文化を勉強することにも興味があった。”とのことでした。これらの留学生の回答は、全てを物語るものではありませんが、この留学期間を通じて、韓国や米国の留学生のハングリーな就学態度に何度も驚かされました。
また、上記の表の赤字の部分は、私が注目した数字です。日本における中国人留学生の多さと米国人留学生の少なさ、米国における中国人やインド人及び韓国人留学生の多さ、中国における韓国人や米国人留学生の多さ、そして韓国における中国人留学生の多さでした。 日本の学生が海外留学を好まない傾向にあるとの報道があります。 このような留学生の状況が、精華大学の発足経緯とその後の状況を見るまでもなく、今後の国際関係の発展を読み取る重要な鍵になるものと思われます。
 *(注) 2011.4.5 朝鮮日報記事要旨「中国人留学生で食いつなぐ韓国の大学」
    “韓国における中国人留学生は、59,490人に達している。1999年にはわずか1182人であった中国人留学生が、10年間で50倍になった・・・・”

「9.18を忘れるなかれ―江沢民」
 中国滞在中に、三回ほど旧満州地区である瀋陽、長春(旧新京)、ハルピンを訪問しました。特に長春とハルピンは強烈な印象を持ちました。長春には「偽満州国」と表示された日本が建国したあのラストエンペラー溥儀を皇帝に据えた満州国の皇居や国会議事堂、各省庁等が保存され、現在も大学や病院や銀行等として使用されています。また、ハルピン郊外には戦後有名になった石井中将の「731部隊」跡も保存されております。この施設は、入場無料で国家重要保存施設に指定されております。
 江沢民が国家主席になった時代は、未だ文化大革命と天安門事件の後遺症が残っており、国内外ともに不安定な状況の中でした。また、文革や天安門事件により、優秀な人材も失脚しておりました。江沢民も、なるべくしてなった国家主席ではありませんでした。鄧小平が嘱望していた趙紫陽や胡耀邦を失い、消去法で江沢民の名前が上がったというのが中国では通説になっております。
 江沢民も政治的な影響力が鄧小平に劣ることは百も承知していたため、軍の影響力に頼らざるを得なかったために、軍が好む抗日宣伝を打ち出したものと言われております。これが、江沢民が国家主席になって以来急速に進められた抗日紀念館等の反日教育施設の整備でした。その一環として、長春の「偽満州国」の溥儀の皇居の門前に据えられた「勿忘 九.一八(九.一八を忘れるなかれ)」の石碑があります。昨今の中国国内のデモにおいても、この標語のプラカードが多く見られています。

 

「勿忘“九.一八”」の石碑の石碑 旧満州国皇居跡(内宮)
 江沢民国家主席の揮毫によるものです。
「九.一八」とは、1931年9月18日の柳条湖事件であり満州事変勃発の日であり中国では「国恥」の日とされている。
 旧満州国(中国名「偽満州国」)皇帝溥儀の皇居跡
その門前に、左側の石碑が置かれている。
内宮は、木造建築の決して豪華な建物ではなかった。
他の満州国建造物と比較するとよく分かる。

 

 軍事部跡  国務院跡
 満州銀行跡  関東軍司令部跡
 総大理石つくりの立派な建物であった。  現在は、吉林省共産党本部として使用されている。
日本の皇居と同じような建物をそのまま使用している。
 731部隊跡地(ハルピン郊外)  同左焼却炉
 入場無料の国家重点保存地区に指定されている。
左側の焼却炉は、検体者の死体を処理した場所との説明板があった。
 外国人はパスポートが必要であった。

「深刻な水不足」
 最近、日本でも、中国企業が北海道の水資源に興味を持っているような報道がなされていますが、中国でも、水資源の枯渇を示す事例が散見されています。また、水資源の枯渇は電力や治水や水運にも影響を与えております。このため、中国政府は世界最大級の「三峡ダム」を完成させ、その対策に当たっているのもその一例です。2010年、重慶から3泊4日の揚子江クルーズにより、このダムを実際に見てきました。両岸には数百万人の住民が移住させられた後の廃屋と休耕地が延々と続いておりました。また、内モンゴルにおける黄河の源流近くでも渇水が進んでおりました。 2006年に訪れた盧溝橋では、橋の下を流れていた川も完全に干上がっておりました。特に北京や上海では、水不足は深刻な問題になってきています。砂漠化が急速に進んでいる北京近郊では、農作物や工業用水の確保に悩んでおりました。黄河や揚子江ですら渇水の危機に直面しています。

 

  内モンゴルを流れる黄河(2010夏)   盧溝橋上から見た水の無い川
  内モンゴルの首都ホフホト近郊の黄河です。
右前方に少し見えるのが黄河です。
約10年ほど前には、この陸橋から見えた黄河は200m以上はあったようですが、現在は川幅は50mほどになっておりました。周辺の山脈の降雪が少なくなったことも影響しているようです。
このような状況下でも、南下する黄河を内モンゴルから北京までの運河水道の検討がなされているとのことでした。
  2006年春、北京大学留学時に盧溝橋に行った時の写真です。盧溝橋の橋の上で一人の老人がこの景色を眺めていました。私はその老人に「何を見ているのですか?」と尋ねました。
彼は、「あそこに見える白いのが私の船だ。今は水が無くなってしまったので、川底に放ってある。川の漁も出来なくなった」とのことでした。
川の上流における農業と工業用水の取水の影響も大きいのだと話していました。
  三峡ダムの全容   
  堤防全長:約2600m 通常水位:175m   世界最大の水力発電ダム

 

(その3 了)