イワン・チェンナムの中国便り
-見て聞いて知った最近の中国情勢 全6回(その5)-

イワン・チェンナム

 全6回(その5)

「鄧小平の見識」
 2009年10月1日建国記念日(国慶節)、天安門広場は、軍事パレードと市民パレードを見物するために許可された数万の市民で埋め尽くされておりました。私は、北京の自宅のテレビでこの光景を見ておりました。軍事パレードが終わるとともに、歴代の中国要人(国家主席等)の写真を飾った“花みこし”を掲げたパレードが行われました。鄧小平は国家主席ではありませんでしたが、毛沢東、周恩来に続き彼の「花みこし」が出てきました。観衆の中で一番拍手の多かったのが鄧小平と周恩来の時であったような気がしました。一緒に見ていた中国の友人も、同じ感じのようでした。 鄧小平は、改革解放の立役者というばかりでなく、彼が三度の失脚にもめげずに立ち直ったことに共感を持つ国民が多いようです。最近、中国の大手日系企業のある社長(総経理)から「鄧小平遺訓」という資料をいただきました。この資料は、2003年8月に香港明鏡出版社から出版された原題「遺嘱」全32章からなっております。その中の最終章を邦訳したものをいただきました。著者はペンネームを用いており、なおかつ香港の出版社から出版されたことを考えると、真偽のほどは定かではないところがありますが、最近は、北京の著名な学者たちの中でも話題になっているものであり、これまでの鄧小平の言動や著述要領等を勘案した場合、きわめて真実性のある内容であるとの評価が高まっております。私も、この資料を読んだときに、資料の登場人物の言動の正確さをもって、これは少なくとも鄧小平の考えを正しく伝えるべき人物が著述したものではないかと確信しております。このような前提のもとに、最終章の内容を紹介させていただくとともに、鄧小平に関する史実を述べたいと思います。鄧小平はこの「遺嘱」の最終章において、江沢民の後の次期国家主席と目された胡錦濤に六つの提言をしております。  

「遺嘱最終章の概要」
 第一は、「民主と法制」の確立である。
現在の中国の国家体制に不安と不満を感じており、この根本的な問題は「民主と法制」の整備が遅れている。この解決策として、これからの中国指導者は、米国の憲法を学ぶべきである。(中国語の表現は:・・学習せねばならない・・)
第二は、「台湾問題」の解決である。
台湾問題は、第一は、武力衝突は極力避けねばならない。第二は、大陸の経済を台湾をしのぐものにしなければならない。第三は、一国二制度(既に香港の解決を予測していたのである)の考えでは不十分であり、連邦制による解決を求めるべきである。
第三は「発展」の推進である。
この発展とは、経済と社会の発展である。今後は、政府の関与を極力抑えて、民間(市場と大衆)にまかせて改革解放路線を堅持してゆくことが重要である。
第四は、「中米関係」の保持である。
中国の発展と統一は米国を抜きにしては考えられない。米国に対抗する勢力のリーダになってはならない。党名を「人民党」や「社会党」に変更することも考えるべきである。将来は、手段も方法も多くなる。柔軟に対応すれば、歴史の検証にも耐えられる。
第五は、「天安門事件(1989.6.4)」の評価である。
この事件は、改革解放の過程において起こるべくして起こった現象である。この事件の被害責任を問うことは簡単であるが、更に大きい責任は、国家を発展させるか後退させるかの歴史上の責任である。目先の被害責任を恐れてはならない。今後も、このような天安門事件と同様の事件が起こるかもしれない。この時に、国家に対する責任の心構えを持っていれば、歴史は必ず理性的な見解を見出す。
第六は,「制度」の構築である。
現在は、一握りのグループから江沢民を国家主席に選んでおり、その後も胡錦濤を選ぶことになる。このような方法は決して長続きはしない。民心と民意に基づく政権を造らなければならない。一握りのグループや鉄砲により二度と政権をとってはならない。  

 以上が、「遺嘱」最終章の概要です。いかにも鄧小平ならば語りそうな内容です。昨今の、日中や米中関係や中国の反日デモを思うにつけ、この鄧小平遺訓の内容が真実味を帯びてきています。いずれにしても、このような資料が中国語で出版されたことは、必ず今後の中国にとっても影響を及ぼすものと思われます。また、この内容が、今後の中国問題を解く鍵にもなるように思われます。冒頭にお伝えしたように、この「遺嘱」も、私から皆様へのインフォメーションです。皆様が、皆様なりのインテリジェンスにしていただければ幸いです。


 2009年10月1日の天安門広場 (自宅のテレビ映像から)

「鄧小平氏の「花みこし」を担ぐ市民
丁度20年前に、自ら始末した「天安門事件」に
ついて、どのような思いを馳せているのであろうか。
その「花みこし」を天安門上で見ながら談笑する胡錦濤と
江沢民は、何を考え何を思っているのであろうか。

「中国の現将来」
 私が、2006年の春に北京大学に留学した時には、お金があっても、近くのスーパーでは買いたい品物がありませんでした。その二年後、北京に赴任した時には、北京のスーパーには、買いたい品物があふれておりました。 近くのイトーヨーカ堂では、日本の福神漬やラッキョや納豆も簡単に買うことができ、急速な発展ぶりに驚きました。 また、2008年9月に起きたリーマンショックの時には、中国政府は直ちに日本円で60兆円の経済出動をして、いち早く経済復興を果たしております。
 一方日本では、私が2006年に北京留学した時から北京オリンピック時においても、「中国におけるバブルと共産党の崩壊」について、日本のマスコミがセンセーショナルな報道や出版をしておりました。
このため、日本から赴任する日系企業の家族は、一時的に御主人と同時に赴任することを控えることが多くあったそうです。しかし、実際に赴任して見たらば、日本で報道されているよりかも、治安も対日感情も良い事に驚いたという意見を沢山聞きました。 また、私は、三年間の中国滞在中も、定期的に帰国した折には、必ず大手の書店を巡って中国関係の書棚を見て回りました。書棚にある中国関係の90%以上の書籍が、中国パッシングのような、中国における経済や政治の危機を表す表題の物が多かったです。この尖閣問題が発生した現在では、更にこの傾向は高まっているものと思われます。
 或る日本の著名な経済学者(大学教授)が、北京において「中国の現状と将来」という講演会を行いました。私もこれを拝聴しました。内容的には、差しさわりのない過去の分析に基づく傾向を述べたものでした。この学者の講師も、日本では中国経済を悲観的に見た書籍を多く出版しておりました。講演後の懇談の時に、件の講師に質問をしました。「先生は、数年前から中国経済の崩壊に関する書籍を出されていますが、今も同じ考えですか?」 件の講師が答えました。「日本では、中国経済を悲観的に見る本でないと売れないのです。また、悲観的な内容であれば、間違っても責任は負わされませんが、好意的な内容の場合には、これがまちがった場合には、袋叩きにあってしまうのです。」これが本音のようです。現在、尖閣列島問題において、勇ましい議論が国民受けしていますが、政治、経済、外交軍事、文化等は無関係ではなく、有形無形に関連性があります。 最近、マスコミ等でも盛んに伝えられておりますが、中国には、独資と合弁企業を合わせると、約3万社ほどの日系企業があります。この企業が、中国において1千万人以上の中国人を雇用しているそうです。一般に、大手の日本企業の中国の工場では、平均4万人程度の中国人を雇用をしています。政治的に問題があっても、この経済的な事実は双方にとって問題には成し得ないものと思います。政治の「理」と経済の「利」の整合性を図ることが、外交の知恵となるものと思われます。 まさに、鄧小平の遺訓は、このことを物語っているものと思われてなりません。
 以下の別表に、ソ連邦発足からの歴史と、中華人民共和国発足の歴史を対比してみました。ここにも、鄧小平の眼力が伺えます。両国の発足を照らし合わせてみると、集団農場制のコルホーズ―人民公社、スターリン批判―百家争鳴、スターリンの粛清―文化大革命、デタント―改革解放、そして建国70年目のソ連の崩壊と続いております。中国も建国70年まであと7年ほどです。現在、反日デモの内部に反政府の意思が見え隠れしていることを思う時、中国政府が、このデモに敏感になっていることは、ソ連邦の歴史に学べば当然の事と思われます。1991年、ソ連が崩壊した時、鄧小平は、共産党総書記としてこれを目の当たりにしました。“中国もこのままであればソ連崩壊の二の舞になる”と当然思ったはずです。その翌年、鄧小平は、あの有名な「南巡講話」を行い経済改革の更なる推進を説いて回りました。これにより改革解放の主眼を市場経済への移行に更なる舵を切ったのです。
 共産党内における権力闘争もさることながら、ソ連邦の崩壊が、中国の崩壊と受け止めた鄧小平の最後の活動が、改革開放の更なる前進であったのです。
 もう一つ、この年表で注目することがあります。1978年10月、鄧小平副首相(当時)が来日の折、当時の福田総理と会見した際には、「尖閣問題は、後世に申し送りしましょう」との提案があったと報じられています。鄧小平は、領土問題解決には、時間がかかることを実感していたのです。その証左は、鄧小平が、自ら解決した中ソ国境紛争に関わる「中ソ国境協定締結」が示しております。すなわち、文革のさなかに発生した珍宝島(ソ連名:ダマンスキー島)国境紛争は、20年間もの間、両国は武力対峙を続けていましたが、1991年5月16日、「珍宝島は中国領」とした中ソ国境協定が締結されております。この1991年は、鄧小平は中国の実権を確固たるものとしておりましたが、かたやソ連の大統領ゴルバチョフは国内の民主化問題とバルト三国のクーデターや独立問題で忙殺されておりました。このタイミングを見計らって、鄧小平は、中ソ国境問題の解決を提案して勝利を収めたのです。
 この協定締結後の半年後1991年12月25日にゴルバチョフは辞任して、実質的にはソ連邦は崩壊しました。 鄧小平は、まさにソ連邦の内憂外患の弱点時に「珍宝島問題」を一気に解決したのです。
このような、深謀遠慮の鄧小平が来日時に語った「尖閣問題の後世への申し送り」は、中国にとっては“未だその解決時期には非ず”との判断があったものと思われます。
 昨今の、尖閣問題の解決においても、このような鄧小平の深謀遠慮の考えがきわめて重要なものと考えます。時の利、地の利、人の利が揃うまで、鄧小平はじっと状況を判断していたのです。

ソ連の歴史に見る中国の現状と将来

年代 ソ連邦 年代 中華人民共和国
1922 ソ連邦成立    
1927 コルホーズ  ソホーズ開始   土地の国有化    
1932~34 大飢饉          死者1千万人    
1936~1938 スターリンの大粛清    死者2千万人    
    1949 中華人民共和国成立
1956 スターリン批判 1956~1957 百家争鳴 ― 共産党批判 チベット動乱(56~59)
1968 プラハの春   弾圧 1958~61 大躍進 人民公社 土地の国有化 死者2千万人
    1966~76 文化大革命  大粛清      死者2千万人
1969.3 ダマンスキー島(珍宝島)事件 →(連動?) 1968 尖閣列島(釣魚島)領有主張開始:文革中!
    1976 第一次天安門事件:周恩来死去
1979 アフガン侵攻   冷戦の開始 1979 中越戦争:内憂外患のはけ口?
1985 ペレストロイカ(改革開放) :ゴルバチョフ    
1986 チェリノブイリ事故:グラスノスチ(情報公開)    
1989 ベルリンの壁崩壊ー冷戦終結 1989 第二次天安門事件:胡耀邦死去    鄧小平介入
1991.5 ダマンスキー島―中ソ国境協定締結(ゴルバチョフ)   → *ウスリー川珍宝島の中洲は中国領とした(鄧小平)
1991.8 ソ連邦崩壊  *建国70年後    
    1992 改革開放:鄧小平 *南方巡行:ソ連の轍を踏まない
      権力闘争、腐敗、格差、環境問題、経済矛盾等
2012 エリツンの再登場、中露接近? 2012 新冷戦の開始?
    2018 中国の発展? 崩壊? 建国70年



上記の表の所見

1 ソビエット連邦共和国と中華人民共和国との類似点
 (1) コルホーズ、ソホーズ及び人民公社の失敗による死者の拡大
 (2) スターリン批判に触発された同時期の百家争鳴(批判者のあぶり出しの効果?)
 (3) プラハの春と文革及び天安門事件に見られる弾圧と回帰闘争
 (4) 体制安定後の腐敗と格差の増加
 (5) 経済改革から体制批判、反政府デモ等の活発化 → 国内紛争の過激化 → 体制の弱体化 → 崩壊のシナリオ(建国70年目の危機)
2 中国は、1991年のソ連崩壊を目の当たりにして、鄧小平は、ソ連の崩壊のシナリオを中国の崩壊のシナリオにしないために更なる社会主義下における資本主義的改革解放に舵を切った。
 ゴルバチョフのペレストロイカは、鄧小平の改革開放に大きな影響を与えたものと思われる。
3 “賢者は歴史に学び愚者は体験に学ぶ”のごとく、まさに6年後に中国建国70周年が迫る中において、今後の習近平体制の行方を注目する必要がある。
4 文革中に発生した「尖閣列島(魚釣島)領有宣言」や「ダマンスキー島(珍宝島)事件」は、偶発的な事案ではなく、特に中国の内憂外患の対策とも 考えられている。

(その5 了)