イワン・チェンナムの中国便り
-中国兵法「三十六計」全36回(第六計)-

翻訳編集 イワン・チェンナム

 第六計 声東撃西(せいとうげきせい)“声東にして西を撃つ”

出典 唐代杜佑編纂《通典》 “声言撃東、其実撃西”

原文解釈 “敵の志乱翠にして図らざれば、坤下兌上の象なり。その自ら司どらざるを利してこれを取る。”
 見せかけの行動で相手を混乱させて、別の行動でこれを撃つ
敵の指揮系統が混乱しているときは、敵は情勢の変化に対応できない。
これは、洪水により水かさが増して、決壊しそうな堤防に似ている。
敵の内部の乱れに乗じて一気にこれを殲滅すべきである。

 攻撃側は、時や場所や時間を自由に選べるため、主導権を確保できる。
 戦いの原則において、攻撃側に比べて、防御側には“目的の原則”が希薄なのは、主導権が攻撃側にあるためである。
 防御だけでは、最終的な勝利は得られない。

考証  西暦200年、長年の好敵手、袁招と曹操は戦いのときを迎えていた。袁招は、曹操軍の前進基地であった白馬を攻めて、曹操軍の兵站線と退路を断つ作戦に出た。白馬における戦力は袁招軍が圧倒していた。このまま両軍が激突した場合には、曹操軍に勝ち目はなかった。曹操軍は、軍議の結果、袁招軍の後方を攻撃すべく一部の軍勢を黄河沿いに北上させた。これを知った袁招は、勢力の半数を、この曹操軍に対抗させるために黄河を南下させた。この、袁招軍の行動を見定めた曹操は、この北上させた部隊を急遽引き返させて白馬の攻撃に参加させた。このときの両軍の白馬における勢力比は逆転しており、曹操軍が圧倒していた。これにより、曹操軍は先手を打って袁招軍に攻撃を仕掛けて、勝利を収めた。

応用事例-1       “革靴の秘密”
 1973年、あるソ連筋が、次のようなデマを流した。“ソ連は、年産100機の大型ジェット旅客機を製造するための工場を建設するために、米国の航空機メーカーを選定する積もりである。もし、米国メーカーと折り合いがつかなければ、英国やドイツのメーカーにも3億ドルのビジネスとして交渉する用意がある。”
 米国のボーイング、ローキード、マクダネル・ダグラスの大手3社は、これを耳にした途端、この大商談をものにするために意欲を燃やした。
そこで、政府の後押しを受けて、それぞれソ連側に働きかけを行った。ソ連側は、メーカー間の斡旋を行い、彼らを競わせて、ソ連側の要求を吊り上げていった。ボーイングは、この商談の成立の可能性が高まったと思い込み、まず、ソ連側が要求していた「20名のソ連専門家をボーイング工場の視察及び実地調査」に同意した。
 ボーイングは彼らを丁重にもてなした。彼らは勝手に飛行機の配線の隅々まで見学し、機密の実験室の中まで入り込んで“真面目に実地調査を行った。”ソ連側は、1万枚にも上る写真を撮りまくり、大量の資料を得、ボーイングの大型旅客機の詳細な製造計画まで持ち去っていった。
 ボーイングはソ連の専門家達を丁重に見送った後、彼らが商談と契約のために再来することを心待ちにしていた。しかし、その後全くのナシのつぶてで、何の音沙汰もなかった。しばらくして、米側は、ソ連が自国のイリュ―シン大型輸送機の設計製造に、ボーイングの資料が利用されていることに気づいた。この機体のジェットエンジンは米国ロイズの模倣品であり、しかも機体の合金材料も米国から獲得したものであった。
 訪米当初から、ソ連専門家達は特殊な革靴を履いており、その靴底は、機体の削り屑が吸い付くようになっており、これにより、金属屑を持ち去り、分析して、合金製造の方法を得ていたのであった。このソ連団の招待はボーイングに二の句も告げぬほどの衝撃を与えた。
 そして、この事例こそ、“声東撃西”の計略そのままであることを示している。すなわち、ソ連は、自国の大型旅客機製造工場を建設するために、米国のメーカーを指名するというデマを流して、ボーイングを騙して大型ジェット旅客機製造材料や関連する合金材料の秘密を手に入れたのである。
 事前にデマ情報を流して敵の様子を伺うことは、最も常套な手段である。 焦って利に聡い相手ほど、このデマ情報を信じてしまう。

応用事例-2       “京セラの起死回生策”
 1962年、京セラの稲盛和夫は単身米国を目指した。この目的は、米国の市場開拓と共に、日本本土への進出のためでもあった。
 3年前に、稲盛と松夫工業の一人の社員と共に京都セラミックを創設した。彼らは懸命に働き、会社の製品を売ることに奔走し、各メーカーに試用を働きかけていた。しかし、当時は、この製品は米国製品が日本市場を席巻しており、大手電気会社は、米国製品を採用するばかりであり、日本メーカーのものを自社の製品の部品として採用することはなかった。
 稲盛は考えた、“このような日本市場の堅固な壁を打ち破るためには、起死回生策をもってするしかない” 即ち、まず米国のメーカーに京セラの製品を使用させ、然る後に、日本へ再輸入して、日本のメーカーの関心を呼び起こさせて、その時に日本市場に再上陸することが上策であると考えた。 米国メーカーは日本と異なり、伝統や過去の経緯に拘らず、売り方が誰であろうと、製品さえ良く、彼らのテストに合格さえすれば、採用が可能である。この状況が、稲盛に一縷の希望を与えた。
 このような状況ではあっても、稲盛は、米国で製品を売り込むことは、並大抵のことではないことも分かっていた。稲盛は米国に一ヶ月近く滞在したが、売り込み活動は、全て門前払いされていた。稲盛は、このような仕打ちを受けて、腹を立てて、もう二度と米国には行くまいと決心したが、帰国後、これ以外の方法がないことを悟り、また米国に戻った。苦心惨憺の末、稲盛は西海岸から東海岸へたどり着いた。この間一軒一軒訪問を重ねて、遂に数十軒の電機や電子メーカーを訪問した時、カンサス州のある会社にたどり着いた。この会社はアポロロケットの電子絶縁器を造っており、まさに耐熱材料を探しているところであった。非常に厳格なテストを経て、京セラの製品が、ドイツや米国の大手メーカーを抑えて、遂に採用されることとなった。
 何事にも“欧米思考”の日本人の弱点を利用した作戦であった。
弱点の解決策は、身内や国内にばかりあるのではない。

(第六計 了)