硫黄島 戦後未だ!(硫黄島遺骨収集帰還事業に参加して)
第四話(その2) 遺骨収集・帰還事業体験記

山下 輝男

 第四話は、小生の体験記等である。作業の厳しさとその間に抱いた色々な思いを述べており、小生の意のある所を汲んで頂ければ幸甚である。なお、目次は以下のとおりであり長文となるので分割して記述することとする。



(その2)
(2)収集作業状況
 ア
  収集ポイントを決定するまでの手順は次の通りと聞いた。
  ①開削調査:重機により疑わしき場所を開削(鹿島建設に委託、重機及び作業員多数、壕らしき場所の発見標示
  ②立ち合い:開削調査された場所を、遺骨収集のベテラン、小笠原村役場、推進協会等が確認し、収集作業の要否を決定、
   年に20回ほど実施している由。
  ③派遣団を編成して収集・収容作業を実施、年に4回、各回30名以上
 イ 今回の実施地域
  今回の実施地域は、今年度予定地域のうち、下図の3ヶ所の11ポイントである。
 (硫黄島東側)

  数字及びアルファベットは、グリッド表示により示されたポイント。

 ウ 遺骨収集作業の具体的な要領
  地下壕の場合(地表は地下壕に準ずる。)
  ①団長による安全確認(必要により照明設備設置)
  ②壕内土砂の排土(壕底がみえるまで)(スコップ、蓑笊)
  ③手作業による遺骨の収容作業
  ④排出土砂の遺骨と土砂への選別作業
  ⑤収容遺骨の柱数確定
  ⑥刷毛による洗骨作業
  ⑦収容遺骨及び遺留品:宿舎の仮安置室に一時安置
  ⑧作業終了壕の表示:「概了壕」、必要により「立入禁止」表示
  ⑨豪内図面の作成、「壕・トーチカ収容概了報告書」の作成提出

 エ 今回の収集・収容作業の状況
  壕の作業開始及び終了の都度、壕に対し全員で拝礼(90度の敬礼)
  (作業用ヘルメット(エ項の写真の白いヘルメット)は厚労省貸与品である。)

  ①1月19日(木)
    午前の前段で、前回不発弾があって未了となっていた壕の捜索 直ぐに壕底現れ、
   他の部分も行き止まりでこれ以上の捜索の必要性なしとして概了、未完成・未使用の壕か生活痕等もなし
    午前後段、別の壕に移動 重機により入口近くを拡幅すると共に連接部を掘削、
   弾倉入り銃弾や6インチ艦砲弾(帝国海軍)発見、陸自の不発弾処理隊(7師団)により回収
    壕の使用目的は何だったのか?全体構造はどうなっているのかも小生の関心事であった。皆目見当がつかなかった。
    別班が実施した壕では、紙箱入り等の多数の銃弾が発見され。午後は引き続き同一個所を実施、壕底が見えると
   ホッとする。壕底及び側壁を確認(地山とは明らかに違ってつるはし等での明らかな作業痕があり、又は硬く
   なっている。)しつつ掘り進む。屈曲している場合もあり要注意である。
    午後の作業は、午後4時前に終了し、宿舎へマイクロバス移動。

  ②1月20日(金)
    前日に引き続き作業実施、バックフォーの威力は流石、作業が捗る。壕底及び側壁を掘り出したが、特別な物は
   発見に至らず、概了となる。
    1個分隊程度の掩蔽壕みたいな感じだが・・
    別な現場で作業 多分(重)機関銃の掩体だろう。銃眼口2個(北向きと東向き)、崖の方に交通壕らしきものが
   伸びている。概了直前に作業終了
    別班では、日米両軍の銃弾が大量に確認、日本軍兵士名入りの毛布発見、更に米軍が豪内に投げ込んだと思われる
   麻袋入りの導火線付きの爆薬が発見された。ミーティング時に、ご遺族からは当該爆薬で戦死した可能性すらあり、
   現認させて貰えないかとの要望有り、ご遺族の心情からは然もありなんと感じた。(21日午前中に処理隊員が
   持参し説明してくれた。全員興味深そうに、或いは複雑な思いで聞いていた。)

  ③1月21日(土)
    海自から幹部2名を含む5名、空自から幹部2名の参加があった。土曜日でもありボランティア参加だろう。
   感謝である。
   前日の残りの掩体射撃陣地を検索するも特段の物発見に至らず。
   崖にあるであろう壕との連接交通壕は、時間切れで構築できなかったものか交通壕らしきものはないとのことである。
    収集作業は午前中のみであった。鹿島建設の安全大会の為、遺骨収集作業は休務である。

  ④1月23日(月)
   一昨日実施場所の近くにある破壊されたトーチカらしきものを本日から新たに実施した。作業頭は一個のみ。
   午前中は、トーチカの全体像、周辺構造の割出の為の作業が主であった。
    午後は、重機により壕底近くまで埋もれている土砂や鉄筋コンクリを壕外へ排除した。その後遺族会班は排土を
   チェックして遺留品等を確認する作業、旧島民の会は引き続き手作業により排土する作業を行い、作業終了。
    掘削・排土作業の結果、何が現れたのか不明だ。単なる鉄筋コンクリートの壁なのだから。作業未了段階だった
   のだろうか?
    尚、排土した土砂も相当の熱を帯びており、地下足袋では長くは我慢できない状況である。壕底に至っては猶更で
   ある。そういう面では地下足袋よりも靴底の熱い靴が適当だ。陸自の半長靴みたいなもの。
    旧軍の銃弾及び陶器製手榴弾破片(1個分)の他、米軍重機関銃弾か?これらは何れも所謂撃ち柄薬莢であり、
   全く危険性はないのだが、そのような知識のある方は皆無である。そういう意味でも、築城や武器弾薬に関する
   知識を有する元自衛官の参加は重要だと思うのだが、割当も少なく実現可能性は低いのだろう。尚、小生は手榴弾の
   小破片を発見できたのみ。

  ⑤1月24日(火)
    愈々今日からは、全員による新たな壕の検索収集作業である。立会調査の段階で、確実視されていた壕らしい。
    遺族会等主たる関係者が壕に入り、御報告と水を供え、お参りしたる後、区分に応じて作業を開始。早速、
   壕出口に御遺骨が多数発見され、関係団体や代表による遺骨の収集と洗骨が行われた。概略見積では頭蓋骨2を
   含む下顎が3個あったので御霊は3柱かも知れない。(確定情報は後程記述予定)
    別の壕入口から壕底を出しながら土砂の排土、篩により遺骨の有無確認等を実施した。燃えカスらしき布は出たが、
   他に特段のものなし。午前中の作業終わり、収容した御遺骨を白い布袋に収めて各団体代表者が捧持(無帽、手荷物
   なし)して、一列縦隊にて前進し、別仕立てのバスにて、仮安置室のある宿舎移動した。勿論バス内も無言。
   見送る人・、迎える人は整列して御遺骨に敬礼する。
    捧持した御英霊と語らいながら、宿舎へ移動した。漸くお迎えすることが出来ます、妻子への再会を切望も
   されたのでしょう、水を飲みたかったのでしょうね、恐怖もあったのでしょうか、無念だったのでしょう、
   ご苦労様でした、千鳥ヶ淵までご一緒に帰りましょう、等々万感胸に迫り、込み上げるものを堪えながらの
   語らいであった。
    午後は、また2個グループ編成により実施した。我が班は、午前中の継続である。頭骨と指の骨の一部を収容し
   得たのみであり、柱数確定は無理だとのこと。
   他に、炭化(?)した手帳らしきものが発見され、その一部からは鉛筆書きと思われる文字が判読できた。
   「兵は一専心」軍人勅諭の冒頭の著名な一節「軍人ハ忠節ヲ云々」等の文字が見られた。全部解読しようと
   思ったが、時間もあり断念した。尚、個人名は特定できなかった。
   尚、今回の壕は地熱を殆ど感じない。場所の差か?通気が出来ているからか?

  ⑥1月25日(水)
    前日に引き続き同じ壕の御遺骨の収集作業を実施した。本日、二回目となる海・空自から数名の支援があった。
    午前中は、御遺骨こそ確認できなかったが、折れた軍刀(二振り)、遺髪と手紙らしきもの、急造爆薬(?)、
   纏まった布や紙が見つかり、米軍の黄燐発煙手榴弾も確認できた。もう少し掘り進めば御遺骨にお会いできるかも
   しれない、そんな予感がする午前中の収集作業であった。作業間、一時パラパラと雨が降ったが、作業に支障は
   なく、助かった。
    旧島民の会の皆さんも、我等と同じGpである。大多数の島民は疎開したものの、旧島民103人(?)は軍属と
   して軍と行動を共にした。が、何時何処で亡くなったのかは、どの部隊に配属されたのかの記録すらもなく判然と
   していないとのことであった。硫黄島に地権を有する者も居るが、代替わりする等して難しい問題が生じてもいる
   ようだ。
    午後は、御遺骨の眠っておられた横を先ず検索しつつ収集作業を実施した。千人針(死線を超えるとの意で
   五銭硬貨、苦戦を超えると十銭硬貨を縫い付けるが、五銭硬貨のみ見つかる)、折り畳んだ衣類等多数発見した。
   千人針から英霊を特定できるかと期待したが、無理だった。
    その後眠っておられた御遺骨の周囲を丁寧に捜した。昨日未収集であった頭蓋骨の他身体各部が収容できた。
   洗骨し、昨日と同じ要領にて宿舎仮安置室へ安置した。
    収容柱数は未確定ながら、四柱以上と見積もられる由。(1月27日4柱と確定)
   この壕からは御遺体のみならず遺留品も多数見つかり、どうも特別な壕ではないかとの見立てである。奥の方は
   崩落の危険性があるので、裏側から重機で掘開して壕に連接すれば多くのご遺体等を発見できる可能性があると
   ベテランの言である。その為には自然保護(カタツムリ?)上の立ち入り制限を一部解除して貰う必要がある。
   厚労省(又は推進協会)はその調整を行い、遺骨収容の効率・迅速化を図るべきだろう。

  ⑦1月27日(金)
    午前中引き続き、一昨日までと同じ壕の収集作業を実施した。4柱分の遺骨はすべて収集収容した。4柱と確定。
    遺留品としては、准尉の階級章、将校用の靴底、万年筆、燃え残った紙束らしきもの多数、手榴弾2発とが
   発見され、午後の1時間作業時点で概了となった。(爾後の検討結果により、継続壕とされた。奥の方は、崩落の
   危険性があるので、今回は実施しなかった。)
    その後、近くにある3つの小さな壕を実施したが、生活痕等なく、奥行きは浅いので1時間ほどの作業で概了と
   なった。

  ⑧1月28日(土)
   本日海自・空自から計5名の収集作業支援があった。作業頭2個で連接された壕入口から二個Gpで作業した。土砂の
   手搬送(バケツリレー)も大分リズミカルに出来るようになった気がする。当初からの固定メンバーだから、次第に
   気心が知れてきたからだろう。
    小銃1丁の他、重ねられた鉄帽、ガスマスク及び靴底が多数見つかった。御遺骨は確認できなかった。倉庫・
   保管庫として使用された壕か?
    体長5㎝ほどの小さなサソリが居た。大して危険ではないと旧島民の方は云うが・・(収集現場にはカメラ類は
   持ち込み禁止であり、残念ながら、写真は撮れず仕舞い。)
    午後、銃剣が多数発見された。比較的早い段階に、隣の壕と壕底で連接され、収集作業は終了、今般の収容団の
   実質的な作業は終了した。月曜日に使用した装具類の整備をして終了となる。

 オ 前回までの遺骨収集、作業の状況(写真) (厚労省、HPから写真転載)
    収集・収容現場へのカメラ類の持ち込みは厳禁であり、今回の写真は追って推進協会から提供される予定であり、
    追ってアップしたい。






 カ 遺骨収容成果等
    今回の収集作業は、14ヶ所を概了(トーチカ3を含む。)、継続3ヶ所であり、遺留品は毛布の名札である。
    収容柱数は4である。
    尚、今年度は、第一回から第3回収容を含めて、17柱を収容し、本土にお帰り頂くことになったのである。
    尚、収集作業中に近来にない遺留品(戦没者が特定できないが・・)が出てきたとも云われた。最終確保地域
    なるが故だったのだろうか?武器・弾薬、軍装品等多数発見した。

(その2 了)