硫黄島 戦後未だ!(硫黄島遺骨収集帰還事業に参加して)
第四話(その3) 遺骨収集・帰還事業体験記

山下 輝男

 第四話は、小生の体験記等である。作業の厳しさとその間に抱いた色々な思いを述べており、小生の意のある所を汲んで頂ければ幸甚である。なお、目次は以下のとおりであり長文となるので分割して記述することとする。


(その3)
(3)現地追悼式及び引渡式
 ア 捧持者の選考等について
   年度最終回の収容団であり、今年度収容した17柱を捧持して、硫黄島~入間基地~都内ホテル~千鳥ヶ渕
  戦没者墓苑に向かわねばならない。収容団員数に満たないので、ご遺族を優先(ご遺族でも「子」次いで「孫」
  という順)するのは当然である。全参加団体も納得した。
   尚、「儀仗隊による御遺骨に対する礼」を受けるに当たり所要の統制・調整の要もあり、リハーサルが行われた。

 イ 現地追悼式  天山慰霊碑前
  ・1月31日14:00~ 天山慰霊碑前にて実施
  ・象徴遺骨を捧持し、天山慰霊碑に移動。
  ・黙祷の後、団長及び遺族代表の追悼の辞、
        事後海空自司令、団体代表、団員、その他関係者による献花
  ・服装:正装(正装とは?事前連絡なく、困惑せり)
  ・会いたくとも会えぬ妻子や未だ顔すら知らぬ嬰児に想いを馳せ、国家の安泰を願いつつ、絶海の孤島硫黄島で、
   灼熱の地下壕の掘削に励み、上陸した敵部隊を長期にわたり阻止すべく奮戦敢闘した日本軍将兵のお陰で、
   我が国は戦後未曽有の復興と繁栄そして平和を享受してきた。その事に感謝すべきと実感しつつの現地追悼式で
   あった。
    戦史上最も苛烈な戦場で戦陣に斃れ、灼熱の壕戦いに命を捧げた英霊の、更には、参列した御遺族等の胸中を
   慮っての涙とも思える雨が今にも振り出しそうな、英霊が連れて帰って欲しいと叫んでいるかのような強い風の
   中で厳粛に執り行われた。

 ウ 英霊を捧持しての硫黄島~都内ホテルへの移動
  (ア)硫黄島における遺骨見送り式(12:40~13:20)
     御遺骨を捧持した遺族、その他の団員が、3列横隊に整列して儀仗隊一個分隊の「追悼の譜」、捧げ銃の礼を
    受け、整列した隊員の見送りを受けた後、空自特別便(C-130)に定められた順に搭乗する。
  (イ)入間基地への移動(13:20~15:50)
     捧持した御遺骨はホテルまで、一瞬たりとも身から離してはいけない。団員全員静かに、御柱と共に入間に
    向かう。今回はC-130、前回はC-1であり、KC-767であり全ての輸送機に搭乗で来たのはラッキーであった。
    入間まで2.5時間のフライトであった。
  (ウ)入間基地での御遺骨の送迎
     入間基地で降機し、直ちに儀仗隊による礼を受け、中空司令官以下の出迎えを受けて、一旦仮安置して
    荷物の積み替え事後入間基地全体員がエプロンから営門まで整列する中、見送りを受けて都内ホテルに移動した。
  (エ)都内ホテルで仮安置
     ホテル従業員等の丁重・厳粛な礼の中、ホテル仮安置室に安置する。一般宿泊客には奇異に映ったのか、
    残念ながらそれが現今の日本の現実だろう。

 エ 引渡式(2月2日10:30~)
    仮安置室から、所要の団員が御遺骨を捧持して、千鳥ヶ渕戦没者墓苑に向かう。参列者が待機する中、収集団が
   入場し、担当の遺骨係りに引渡し、一旦遺骨を仮安置する。事後黙祷、厚労省大臣政務官、防衛大臣政務官、
   収集団員を派遣した各団体等の代表、国会議員も献花した。その後御遺骨は厚労省職員により、厚労省霊安室へ
   捧持移動・安置される。
    遺骨引渡式における奏楽は、海上自衛隊東京音楽隊による「海ゆかば」と「命を捨てて」である。
    厳粛な中にも無事にお帰り頂いたとの安堵の想いがあり、また未だ帰りたくとも帰れない数多の戦没者の
   ことを思い、切なくなったのは小生のみではあるまい。

 

 オ 解団式(2月2日11:10~)千鳥ヶ渕戦没者墓苑
   遺骨引渡式に引き続き、同地において団長の帰還報告、厚労大臣政務官の挨拶の後、団長の解団の言葉で終了である。

 カ 靖国神社参拝等
   解団式終了のその足で、靖国神社に赴き、小生と共に帰還されたもしれない御霊をお連れし、この地で安らかに
  お眠り下さいと祈念した。
   その後、全慰協事務局に帰還報告をした。

(4)管理的事項等
 ア 宿舎
   海上自衛隊硫黄島航空基地隊の支援を受けてBEQを利用させて頂いた。本宿舎は、NLP来島用米軍下士官用
  宿舎であるが長年使用して居ない模様。 二人用の単独使用、但し便所・シャワーは、隣室2名との共用スタイルで
  ある。
  築年数も相当あり、建て替えが検討されているとも云われるが…
   尚、最近来島する米海兵隊は天幕露営するとのこと。理由は定かではないが、在りし日に日本軍に苦杯を舐め
  させられた教訓を想起すべくか?
   24時間、クーラーが効いており、快適である。

 イ 食事
   朝食は0555~、昼食1155~、夕食1700~であった。
  鹿島建設の食堂を利用させて貰った。宿舎からは全員一緒に食堂に移動、隊列こそ組まないが、学生時代を思い出した?
  それなりに美味しく頂いた。
   常に先頭を歩くのは我等5名のメンバーだ。歩行速度が違うのか?
   抑々鹿島建設は、天山慰霊碑の施工会社であり、その後も遺骨収集等に深く関わっている。その任に従事する作業員の為にも
  美味しい食事は不可欠だ。食事以外に楽しみがないのも事実である。

 ウ 慰霊の島ならではの留意事項
   全島が父祖の墳墓の地、慰霊の島であることに鑑み、英霊に襟を正して接するためにも宿舎外の服装は襟付きとし、軍隊調は
  避けるべきとされた。派手な歌舞音曲やどんちゃん騒ぎはご法度である。また、屋外における作業や行動中は、決して小用を
  足してはならないのが基本だ。
   また、御遺骨の収集・収容作業に係る写真撮影は厳しく禁止されている。英霊に対する冒?ともなる。

 エ 気温等
   到着当日は涼しく、爽やかであった。内地が大雪と聞くと正に別天地だ。全般的には初夏と考えればいい。日較差は結構
  大だ。
   亜熱帯性気候とはいえ、朝夕は長袖シャツでないと心もとなく、肌寒いと感じる位だった。今冬は特別だそうだ。最も、
  滞在終盤には、日中の気温は多分優に20度Cを越えていただろう。
   太平洋から上り、太平洋に沈む太陽の写真を撮りたかったが、食事時間とダブりそれは叶わず、残念であった。
   不思議に感じたのは、朝夕には黒雲がドーナツ状に島を囲んでいるのだが、日中になると嘘のように青い空が広がっている
  ことだ。海洋性気象の特長なのだろうか?
   尚、今回は、冬場の参加でもあり、スコールはなかった。

 オ 団員相互間は勿論、基地在勤隊員、作業員等は良く挨拶を交わし、或いは手を挙げて車と行違うなど、挨拶・礼儀が
  励行されており、好ましく思った次第である。良く躾けられている。

 カ その他
  ・野良猫の多いのには吃驚した。居なかった筈の猫が何故に増殖したのか?
  ・団員を4個Gpに分けて毎日夕刻宿舎共用個所の清掃を実施した。
  ・重量制限を厳格に遵守したので、毎日洗濯の必要あり、清掃と云い、洗濯と云い、物ぐさ坊主には、特に家内の有り難さを
   痛感する毎日だった。午前の作業を終えてシャワーを浴び着替え、午後も同じ、その繰り返しである。
  ・初めて、御遺骨が収容され捧持した夜、米兵らしき赤鬼に追いかけられる夢を見たが、英霊の当時の恐怖心如何
   ばかりであったろう。最近では、心霊現象や不可解な現象がなくなったとも聞くが、どうなのだろう。今上陛下の
   平成6年の行幸以降は御霊も心安らかになられたのであろうか?

2 ご遺族の想い・心情に触れ!
   派遣団には、日本遺族会や硫黄島協会の関係者が多数参加されており、時折お話を伺う機会があった。
 (1)父親が硫黄島で戦死され、何回目の来島時に戦死した場所と思しき地点が特定でき、父親に会えたとの感を強く
   された由。小さかりし頃は父無し子は矢張り駄目だと云われたくないと母親に厳しく躾けられたと云う。
   次回の慰霊祭には御子息2名を同行して色々と説明する積もりと話された。
 (2)ある方は、実の父親が戦死し、母親が父の弟と結婚されたのだが、その事実を大きくなるまで知らなかった。
 (3)参加ご遺族は父親が戦死したと思われる場所をそれぞれに特定されているやに感じられた。
 (4)遺族会最年少者が小生より二歳年長である。女性の会員2名が居られたが、小生らと同じ作業を黙々として
   実施しておられ、小生より10年年長の方も同様だ。遺族会会員の強い想いの表れだろう。
 (5)御遺骨は多分ないだろうとの判断で重機を使用し、土砂等を排出したが、ご遺族はその排土の中に何がしかの
   手掛かりはないかと真剣な眼差しで土砂を掻き出し掻きだししておられた。これもご遺族ならではの強い想い
   なのだとひしひしと感じた次第である。
 (6)映画「硫黄島からの手紙」ではないが、硫黄島の父親から届いた手紙を何度も読み返したということ、
   同郷兵や同僚との細々とした日常のやり取り、残されている家族への労いの言葉などが綴られていた。
   最後の手紙は、いざ決戦に臨まんとの悲壮感溢れるものであったようだ。現地部隊ならではの切迫感があったのだろう。
 (7)遺族の高齢化が進む中、一向に進まぬ遺骨収集に苛立ちや焦りを隠せないと思える。また、ご遺体の埋葬等に
   係る情報が、何故ないのだろうとの不信もあるようだ。
 (8)宿舎内団長室隣の部屋が仮安置所と指定され、今年度収容された13柱が安置されている。遺族会の方が朝夕に
   花と水を替えお参りしておられる。間もなく東京にお連れしますよと語りかけて居られるようで、その姿に感動を
   覚えた。
 (9)父親の硫黄島からの手紙を持参しているので、今朝も正月分を読んできましたと話される方もあり、今日こそは
   良い報告が出来るようにと祈るような心持ちなのだろうと察せられる。
 (10)戦後、母子寮に住ませて頂き、母子逞しく、真っ直ぐに生きてきました。その母は父の分まで長生きをしたのでしょう、
   103歳で穏やかに天寿を全うしました。
 (11)島内巡拝・戦跡研修の際に、遺族の複雑な思いを垣間見た。米軍の宿営地であった地区にある米海兵隊壁画
   (硫黄島に星条旗を打ち立てる瞬間を描いたもの)を研修する際に、そのご遺族だけは、バスから降車され
   なかった。我が父の敵たるものが描いた壁画など見る気になれなかったのだろう。一口に恩讐を越えてと云うが、
   簡単なものではないことを改めて認識させられた瞬間であった。
 (12)毎日、宿舎から収集現場に向かうのだが、全員が綺麗に洗濯された作業服等で参加している、御遺骨・英霊に
   対する尊崇の念の発露であろう。(洗濯機・乾燥機が宿舎に完備され、概ね全員の需要を満たしている。)
 (13)出征してから誕生した我が息子を早く抱きしめたくとも叶わぬ夢、手形、足形を送れと父親なればこその
   叫びが籠った音信が届いたと云う。戦局が急にもなったので、父の手元に届いたのだろうか、せめて届いていて
   欲しかったと切ない想いの息子の想い。
 (14)宿舎内仮安置室の前を通過する際には、例外なく頭を下げて居られる。また、中には、御遺骨の前に佇んで
   経を唱えておられる方も居られた。自分の父親ではないとしても、全ての戦没者は即ち己の父親と等しく慰霊
   すべきであるとの想いからなのだろう。

(その3 了)