硫黄島 戦後未だ!(硫黄島遺骨収集帰還事業に参加して)
第五話(その1) 硫黄島見聞録

山下 輝男

 硫黄島滞在間に見聞した事項をまとめたものであり、2分割にして記述する。往時の状況に想いを致すとともに、硫黄島とは如何なる所かをも知って頂ければ幸甚である。


(その1)

1 戦跡及び慰霊碑等
 在りし日の帝国陸海軍将兵の敢闘と御苦労を偲び、英霊の御霊の安らかならんことを祈念して、遺骨収集の合間を縫って島内巡拝を行った。
 即ち、1月21日午後(鹿島建設安全大会のため収集作業は休務)、22日(日曜日につき休務)、26日(島内巡拝)及び29日(日曜日につき休務日)を利用しての戦跡等巡りであった。
 ガイド役は、元戦史教官である戦跡探訪家和泉氏である。
 天山、摺鉢山正面、爾後反時計回りに、南地区隊、東地区隊、北地区隊の順に紹介する。

(1)日本軍将兵戦没者の碑(天山)(写真は再掲)

 天山慰霊碑は、厚生省が昭和46年3月に建立した。慰霊碑自体は、白木の箱を白布で覆った形状をし、天井は開口し御霊が太陽を見られるべく且つ雨水を受けられるようにとの考えからである。
 天山慰霊碑は来島者が先ず訪れ、参拝し、来島報告を行う場所である。

   

(2)摺鉢山正面

ア 摺鉢山
 往時の苦労を体験すべく、徒歩で摺鉢山に向かう。山頂まで徒歩で一時間半、爾後千鳥飛行場西端地区の状況を確認し、上陸海岸を確認して、途中の壕や碑を確認して複郭陣地たる粟津壕、基地内へと帰隊した。
 摺鉢山から元山第一線陣地のみならず、天山地区までをも見下ろすことが出来、絶好の監視・観測地点である。日米両軍がこの摺鉢山の争奪に懸命となったのはむべなるかなである。そのことが頂上に立つと明白だ。

     
 ①日本軍将兵慰霊碑   ②慰霊の碑       ③御楯隊       ④改修記念碑
     
 ⑤頂上から両海岸 波の違いに留意 ⑥頂上から崖下 ⑦火口       ⑧弾丸跡も生々し

 摺鉢山の第一線陣地

イ 水平砲
 
 千鳥ヶ浜方向榴弾砲による側防射撃 2門
尚、悪名高い過早射撃(勇み足砲台)した海軍水平砲台(一番砲)陣地には行けず。過早射撃により陣地を暴露し、米艦の集中砲火を浴び全滅した。中将が激怒したと云われ、米軍からは、「日本側唯一の失敗」とも評された。

ウ 一式陸攻を利用した掩蔽壕と南観音
     

エ 今回新たに発見された海軍の水際陣地らしき掩体

 今回の収容団の重機班により掘開作業中に偶然発見された。千鳥海岸防御用の掩体だろう。全集射撃可能?

(3)南地区隊地域

 南海岸上陸が予期され、水際配備を採用しない場合には摺鉢山及び元山(がんざん)地区は上陸阻止のために側方拠点として極めて重要であった。為に両個所には徹底的な陣地が構築された。ただ、残念なのは元山地区と摺鉢山の地下連絡通路の未完成、海軍が千鳥飛行場保持のための海軍トーチカの構築に拘り築城資材を防御陣地構築に振り向けられなかったことだ。

ア 上陸海岸(南海岸)
     
 ①上陸海岸全面2個海兵師団上陸 ②左奥の岩が師団境界 ③海岸から正面    ④元山方向
 
 上の二枚は、上陸海岸最右翼端の状況、海岸から正面及び海岸

イ 粟津壕と鎮魂の丘
     
 ①粟津壕碑 ②幾つかある粟津壕入り口の一つ①鎮魂の丘標識(東京都の慰霊碑、東京都と摺鉢山の線上 ②鎮魂の丘全景

 日米両横綱による慰霊土俵入りが、戦後50年となる平成7(1995)年6月4日、当時の横綱貴乃花と曙による慰霊土俵入が、鎮魂の丘で行われた。

     
 ⑤入口         ⑥入口          ⑦戦闘指揮所碑      ⑧戦闘指揮所入口


 粟津壕の碑が建立されている岩には樹木が成長している。英霊の魂が乗り移ったかのようだ。

ウ 基地内の戦跡

(ア)鹿島建設の施設近傍
 
 ①鹿島建設宿舎近くにある日本軍の高射砲と速射砲 ②撃墜(?)B-29
(イ)海軍陸戦隊本部跡
 海軍27航空戦隊司令部壕であったが、S20年2月以降は海軍陸戦隊司令部壕となった。第一、第二御楯特別攻撃隊出撃前夜の作戦会議が行われた場所でもある。近くには菊の御紋章入りの天皇陛下行幸記念の碑がある。
   

エ 大塚工兵壕 兵団の模範たる地下壕
 地下壕により長期持久を策する以上、堅固な壕を築城すべきであり、その模範を工兵部隊に命じて構築させた。少々の砲爆撃にはびくともしないよう合理的に考えられている。工兵の面目躍如か。
   


 入口は急傾斜で滑りやすい。壕にはすれ違うための一時待機する横穴、酒瓶その他多数散乱

オ 混成第二旅団野戦病院壕
 

カ 船見台砲台群及びM4シャーマン戦車残骸
 
 埋もれていた戦車を鹿島建設が掘り起こした。側面にはコンクリート板、ハッチ等には金網を張って日本軍の戦車攻撃対策。何故か履帯は外されていた。日本軍は転輪と転輪の間を狙って射撃したという。尚、この道路を挟んだ向かい側は、集団埋葬地であり13 00余柱をお祀りしてある。 船見台は陣地防御における南地区隊の前進陣地であり、予期以上に持ち堪え、作戦全般に大いに寄与した。

キ 設営隊釜場跡
 海軍204設営隊の釜場である。野戦釜が数個放置されている。この場所に至る道は石が敷き詰められ、給食関係車両の運行を考慮したものだろう。
 
ク 各部隊等壕群の道標
 道路脇には、硫黄島協会が設置した各部隊等の壕群の道標がある。その幾つかを紹介する。ご遺族の方は、夫々の所縁の方の壕には行けないので、道標に水を供え、線香を手向け、長い祈りと父親との会話を続けて居られる。

     

     

 

(4)東地区隊地域

ア 所謂サウナ壕
     
(右端の写真の左奥に見えるのがサウナ壕、右側の壕は9中隊壕、8中隊壕の所在は不明)
 歩兵145連隊第3大隊第7中隊の壕は、サウナ壕と呼ばれる。自然のサウナである。基地の隊員諸官が利用できるようになっている。この蒸し風呂状態の中で、当時の将兵は壕の掘削を行った。数十度の中での作業は困難を極めたであろうと察せられる。追体験の意味で戦史研修の学生もサウナ体験をすると云う。

イ 西大佐の碑
 ロス五輪馬術金メダリストバロン西(西竹一中佐陸士36期戦車26聯隊長)の戦死の地とされる場所に建てられた碑(左)とその手前で行き易く、お参りしやすい場所に建てられた碑(右)。米軍は投降を呼びかけたが、応ずる筈はなく、この付近で戦死したのは従卒の話で明らかであるという。兵団司令部に向かう途次だったという。
 尚、御遺体は発見されていない。中佐は、拍車のついた長靴を常に履いておられたようだ。
 

(5)北地区隊地域

 研修すべき壕は多々あるが、栗林壕と呼ばれる兵団司令部壕、旅団の野戦病院たる医 務科壕、平成19年に発見されて、遺骨収集の必要性を世に問う契機ともなった栗林 中将以下が最後の突撃を敢行するための壕である突撃壕は見逃せない。

ア 兵団司令部壕(栗林壕)

     

 
①兵団司令部壕入り口表示②入口近傍観音様 中将の好きな洋酒が供えられ、右の箱状は通信機、最後の突撃時欺瞞の為の偽電発信か。③出口 ④副官部等の表示
⑤壕内中将の居室 ⑥石井式ろ過機、海水や人体から排出される水分から濾過飲料水を造水 当時の最新式 米軍も必死に捜したとも。

イ 最後の突撃壕
     
 ①突撃壕の入口(兵団司令部壕から4日間かけて現在地に移動して、この壕から突撃敢行 ②入口付近の遺留品③連接路の状況 最後の酒を酌み交わしたか!④壕内から外を見た状況

ウ 医務科壕
 〇〇旅団の野戦病院(or収容所)である。通常の陣地と異なる仕様(広く、明るく、通気口あり)研修者のために壕に照明を設置してあった。医務科壕の最奥は蒸し風呂状態で、メガネが曇ってしまうほどである。この様なところで満足な治療器具も薬もなく、大変だったろうなと感じ入った。

 

エ 銀明水
 北地区隊と東地区隊の境界付近にある硫黄島で唯一、取水可能な水源である。水蒸気が水滴となって滴り落ちてきたのが溜まったものである。
 入口は狭く、成人ならば横向きに入らざるを得ない。
 川の無い火山島では極めて貴重であった。米軍もこの存在を知っており、取水に来る日本兵を狙い打ったという。生き残った2名の日本兵はこの地で発見されている。飲んでみたが、無味無臭ではなく、辛いとも違う苦いとも違う、臭いがあるのかないのか、独特な・不思議なとしか形容しようのない味であるが、飲めない訳ではない。日本軍は作井部隊(野戦作井21中隊)を派遣したが、所要の資器材が到着せず、残念であった。
 

(6)直轄隊 :大阪山砲台群特に大阪山一番砲

 大阪山砲台群の1番砲で、世界の軍事的に見ても稀有な例とされる。アームストロング社製の15糎榴弾砲の砲身に艦砲弾がのめり込み不発のままとなっている。中央の写真の目玉みたいな物が弾底と信管である。信じられないような状況だ。
 尚、天蓋は平成8年に撤去された。

   

 

(7)西地区隊

 西地区隊は、右第一線陣地地区である。硫黄ヶ丘が境界。戦跡としては単装機銃の跡のみであり、紹介すべきものなし。

(8)中地区隊

 摺鉢山正面と第一線陣地たる南地区隊・西地区隊の中間地にある千鳥飛行場を含む一帯を担任した。陸海軍協同で陣地構築をした。海軍側は水際にトーチカを多数構築する計画であったが、栗林中将の企図とは違っていた。が、セメントを分けて貰うために、一部をもって、協力し、130余りが構築された。然しながら、結果的には、全てのトーチカが機能不全或いは破壊されてしまった。当時の状況で、飛行場保持にこだわる理由が解らぬ。
 南海岸には、海軍の魚雷を発射出来るように(滑り台形式)工夫されていたが、艦砲により貯蔵されていた魚雷が大爆発を起こし、甚大な被害も出たし、防御線にも穴が開いた。
 抑々陸海軍の共同は、海上戦闘は海軍担任、米軍が達着後は陸上部隊が指揮するという役割分担であったので、海軍側を一方的に責めるのもどうかとの思いはある。何れにしろ陸海空の共同は難しい。
写真は壕全景と壕内の25㎜機関砲、陸軍部隊の碑
   

(その1 了)