第9回 防衛駐在官の見た中国 (その8)
-旅順港  日本と中国、そしてロシア-

(本論文は元駐中国防衛駐在官(現防衛省統合幕僚監部防衛交流班長)の山本勝也1佐が海上自衛隊幹部学校主任研究開発官であった時に幹部学校ホームページのトピックス・コラムに投稿されたものを転載するものです。)

(コラム016 2011/12/09)

このコラムは、筆者が在中国日本国大使館防衛駐在官1として在勤中に得た雑感をご紹介するものです。読者の皆様が、我が国の防衛・安全保障を考える上で、幾ばくかの参考となれば幸いです。


 平成22年夏、中国近代史に興味を持つ長男(当時、中学3年生)2が夏休みを利用して北京を訪ねてきた機会に、中国東北部(旧満州地域)を鉄道旅行することにした。

 旅行では高速鉄道や夜行列車を乗り継いで、ハルビン3、長春4そして大連の3都市を訪問した。宿泊先はいずれもかつて「ヤマトホテル」5と呼ばれた古いホテルを利用した。

 最終目的地である大連では、半日の「旅順観光ツアー」に参加した。旅順は遼寧省大連市に属し、遼東半島の最西端に位置する古い軍港都市である。旅順港は、第2次世界大戦末期にソ連軍に占領され、1945年8月14日に中華民国とソ連との間で結ばれた「ソ華友好同盟条約」に基づき大連港及び南満州鉄道とともに1951年に中華人民共和国に返還されるまで、ソ連軍の管理下におかれソ連海軍太平洋艦隊の軍港として利用された街である。また返還後は、引き続き中国人民解放軍海軍の管理下におかれ、最近まで外国人の訪問が禁じられた非開放地域6であった。

 ツアーガイドは以下のとおり説明した。「文化大革命7当時、旅順の旧市街地は、その全体が中国海軍の管理地域であったために、紅衛兵8の街への侵入が許されなかった。そのため第2次世界大戦以前の建造物等が破壊されずに当時のままに残されている」。旅順旧市街地及びその周辺には今日でも日清・日露戦争の戦跡、日露両国による租借当時の建造物など往時を偲ばせるものを数多く目にすることができる。それはまた、文化大革命・紅衛兵と人民解放軍の微妙な関係を窺い知る糸口でもあると言える。

 旅順口区政府は、市街地を開放すると発表した前後から、203高地や東鶏冠山北堡塁などを戦跡公園として整備しており、日本人観光客目当ての「坂の上の雲(中国語:坡上雲)」と名づけた売店すら営業している。また、史跡には中国語の他、英語などとともに日本語による案内も掲示されている。それらの掲示板には、帝政ロシアやソ連軍による占領についてほとんど触れない一方で、日清・日露戦争及び日本の占領に対する激しい非難が綴られている9。そこに記された説明は、他の抗日記念館と軌を一にするものであり、売店の名から日本人観光客がイメージする世界とは程遠い。

 旅順には、「ソ連軍戦没者霊園(中国語:蘇軍烈士霊園)」と呼ばれる墓地公園10がある。もともと帝政ロシアが整備したロシア人墓地であったものを、ソ連軍占領期に拡張したもので、巨大な記念塔の背後には第2次大戦中に戦没したソ連軍将兵の墓碑が多く並んでいる。さらに墓碑を一つ一つ見ていくと、没年が1950年から53年と記され、他の戦没将兵と同様に赤い星を戴いた空軍パイロットの墓碑が並んでいる。国家のために殉じた将兵に対する慰霊は洋の東西を問わず国家の義務と言われるものであるが、北朝鮮の記章を付けた戦闘機を操縦し、国連軍と戦ったと言われるソ連軍パイロットをも、その当時から国家の英雄として慰霊していたソ連国家の姿をあらためて感じることができる貴重な空間である。

 また、この霊園の最も奥深いところには、日露戦争における戦没ロシア将兵を慰霊するために、日露戦争終結間もない時期に大日本帝国政府が建立したロシア風の重厚な慰霊碑が静かに佇んでいる。戦場に斃れた敵将兵に対する当時の日本の姿勢と、その後の日露・日ソを取り巻く国際情勢の変化にもかかわらずその慰霊碑を守ってきたソ連・ロシアの対応に思いを馳せることができる空間でもある。

 中国東北部は隣接するロシアとの経済関係を強化していると言われている。また旅順を含む大連市は、現在も中国東北部の海の玄関口として最も重要な港、貿易、工業、観光都市であると同時に、複雑な歴史を経た今日、日本語教育に熱心であり、多種多様な日本企業が進出する中国国内有数の親日感情の強い街の一つでもある。

 アジア太平洋地域において、ロシアが大きなアクターであることは今も昔も変わりはない。旅順はロシアとの付き合い方を考える上で、何らかのアイデアを生み出してくれる街かもしれない。

(幹部学校主任研究開発官  山本 勝也)


1 防衛駐在官(Defense Attaché):防衛省から外務省に出向した自衛官であり、外務事務官として大使館などの在外公館に勤務し、主として軍事情報の収集などの任務についている。防衛駐在官は自衛官の身分を有しなくなるものの、自衛官の階級を呼称するとともに制服を着用することが認められており、派遣された国の国防関係者や各国の駐在武官との交流や情報収集を行うほか、我が国の防衛政策に対する国際的理解を深めるための活動を行っている。
 国際的には軍人として各国大使館に勤務する駐在武官(Defense Attaché, Military Attaché, Army/Navy/Air Attaché等)と同様に扱われている。
2 防衛駐在官として外国に赴任する場合、夫人及び子弟を帯同することが一般的である。しかしながら、筆者の場合、(1)任期後半に子供(赴任当時、高校1年生と中学1年生) が大学受験等を控えていたこと、(2)両国関係に問題が生じた場合、任期途中に帰国せざるを得ない可能性も否定できないこと、(3)その結果、子供たちの教育・進学に悪影響が出る可能性があることなどを考慮し、子供たちを妻の両親に預け、妻のみを連れて北京に赴任した。結果としては任期を全うし、幸いにも杞憂に終わった。
3 黒龍江省の省都。清朝の頃から今日に至るまで極東ロシアとの交易の中心であり、旧市街地中心部にはロシア正教会をはじめロシア文化の香りが色濃く残る街。
4 吉林省の省都。満州国時代の首都「新京」。溥儀・満州国皇帝の宮殿、関東軍司令部、満州国政府各庁舎等、満州国当時の建造物が残され、その多くが中国共産党、政府、大学等の庁舎として現在も活用されている。
5 南満州鉄道株式会社が経営していたホテル。戦後、様々な経緯を経て一部はホテルとして営業を続けている。筆者が利用したホテルは、現在、「龍門大厦貴賓楼」(ハルビン)、「春誼賓館旧館」(長春)、「大連賓館」(大連)として、一般に開放されており、当時の面影を残した内外装を懐かしむ日本人利用者も多い。
 旅順旧市街地に所在する旧ヤマトホテルは、中国海軍の宿泊施設としてそのまま利用されている。
6 大連市旅順口区政府は、2009年3月20日に「旅順口区を外国人にも開放し、軍事禁区以外は外国人も訪問できるようになった」と発表した。しかし、大連市や国家レベルにおいて開放が承認されたとの公開情報は未だ確認できていない。筆者の訪問は、中国国内旅行者の企画に参加したものであり、念のために中国国防部外事弁公室(駐在武官担当)に通報している。
7 中華人民共和国で1966年から1976年まで続いた改革運動
8 文化大革命当時、中国全土に広がった青年・学生運動。紅衛兵は「毛沢東語録(毛主席の著書などから引用・編集された語録)」を手に、「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」の打破を叫んで街頭に繰り出し、多くの人材や文化財などに甚大な被害を与えたと言われている。
9 こうした光景は香港でも同様であり、香港市内の歴史博物館等を訪ねると、第2次大戦中の日本軍による香港占領を屈辱の歴史とし、それに対する抵抗を中英共通の栄光の歴史とする一方、英国による香港統治を、香港の繁栄の歴史として紹介していることが多い。
10 2010年9月、訪中したメドヴェーチェフ露大統領も慰霊のため訪問したと言われている。

本コラムに示された見解は、幹部学校における研究の一環として発表する執筆者個人のものであり、防衛省または海上自衛隊の見解を表すものではありません。