「三笠」復元50周年

今、郵便局に行くと、販売されている記念切手の中に「復元50周年記念 戦艦三笠」という記念切手を目にされるかもしれません。
戦艦「三笠」は折しもNHKで放映されている「坂の上の雲」の山場となる日本海海戦において東郷平八郎大将座乗の聯合艦隊旗艦で、「坂の上の雲」の主人公秋山真之も聯合艦隊作戦参謀として「三笠」に乗り組んでいました。
 また、「三笠」は世界三大記念艦の一つに数えられています。
他の二つはイギリスの戦艦「ヴィクトリー」とアメリカのフリゲート「コンスティチューション」です。

戦艦「ヴィクトリー」は1805年のトラファルガー海戦においてネルソン提督の旗艦として有名であり、現存する世界で唯一の戦列艦です。
フリゲート「コンスティチューション」は1794年に米国で建造された6隻のフリゲートの1隻で「オールド・アイアンサイド」の愛称で親しまれています。

両艦ともイギリスあるいはアメリカ海軍の現役の艦船であり、筆者は1971年の遠洋航海でボストンに入港した際、「コンスティチューション」を訪れたところ、丁度、艦長交代行事の日で、式典に飛び入りで参列できる栄に浴しました。
2011年はその「三笠」が復元された50周年にあたります。
しかし、どうして復元なのでしょう。

1895年4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、台湾・澎湖列島とともに遼東半島が日本に割譲されました。
遼東半島の日本への割譲に反発したロシアはドイツ、フランスとともに4月23日、遼東半島の清国への返還を日本に要求します。
いわゆる三国干渉です。

日清戦争直後でこれら三国に対抗する力のなかった日本は遼東半島を清国に返還するとともに呉・越の故事にちなんだ臥薪嘗胆を合い言葉にロシアに対抗するための準備を推進していきます。
その一つが海軍が計画した六六艦隊計画でした。
この計画は戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻からなる艦隊を整備しようとするもので戦艦「三笠」はこの計画の最後の艦として建造されたものです。

戦艦「三笠」の側面図と平面図
出典:Jane, Fred T.(Ed.), Jane's Fighting Ships, Marston, Sampson Low, 1906
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0_%28%E6%88%A6%E8%89%A6%29

「三笠」は1899年にイギリスのヴィッカース社において起工され、1900年11月に進水しました。

「三笠」の進水(三笠保存会提供)

そして、公試を経て1902年3月に日本海軍に引き渡され、日本へ回航、5月18日に横須賀港に到着しています。
1903年、聯合艦隊旗艦になった「三笠」は1904年に勃発した日露戦争に参加、1905年5月27、28日の日本海海戦にも旗艦として艦隊の先頭を疾駆し、勇戦奮闘してきました。
しかし、日露戦争終了直後の1905年9月、「三笠」は後部弾庫の爆発事故のため佐世保軍港内で沈没してしまいました。このため、凱旋式では同型艦の戦艦「敷島」が旗艦を務めることになりました。

「三笠」はその後引き上げられ、第1艦隊旗艦になったりしましたが、1922年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約によって廃艦が決定しました。しかし、「三笠」保存の動きが起こり、1924年、ワシントン海軍軍縮条約の締約国であるアメリカ、イギリス、フランス及びイタリアの4カ国が「三笠」を記念艦として保存することに同意し、1925年に記念艦として横須賀に保存することが閣議で決定されました。

当初、東京芝浦港に保存することが検討されましたが、最終的に横須賀に保存することになりました。
横須賀港務部先任部員中村虎猪中佐らの努力により、技術的困難を克服し、「三笠」は現在の位置に据え付けられました。
据え付け方向は、当時の横須賀鎮守府司令長官加藤寛治大将の指示により艦首が皇居に向くように、専門的な言い方では艦首方位009度30分とされました。
そして、摂政宮(後の昭和天皇)ご来臨の下、11月12日に三笠保存記念式が行われました。

大東亜戦争の敗戦は「三笠」にも過酷な運命をもたらしました。
連合軍に接収された「三笠」は荒廃していくのです。その第一の要因は占領軍のソ連代表の言動でした。
ロシアを破った「不届き至極」の記念艦は破棄されなければならないと主張したのです。
これによって艦橋も大砲もマストも煙突も、上甲板以上にある構造物はすべて撤去されました。さらに、平和産業港湾都市を宣言した横須賀市の措置がこれに追い打ちをかけました。
「三笠」の惨状について、元海軍記者の伊藤正徳が著した『大海軍を想う』から引用してみたいと思います。

・・・東郷平八郎の部屋は、カッフェー・トウゴーとなった。口紅あかく眥あおき半裸の商女が、怪しいハイ・ボールを酔客にひさいでいた。作戦室には麻雀の四卓が、深更まで牌の騒音を流していた。士官室はダンスホールとなって、明治三十八年五月二十七日に、そこで敵の十二インチ砲弾が炸裂し、六十余名の勇士が死傷した苦戦の思いでは、タンゴとかタップとかの靴の音にかき消されていた。・・・

荒廃した「三笠」(三笠保存会提供)

荒廃した「三笠」復元ののろしを上げたは、イギリス人ジョージ・ルービンでした。その経緯を再び『大海軍を想う』から引用してみたいと思います。

ルービン君は、「三笠」が英国で造られているとき出入りの時計商として「三笠」の回航員と親しくなり、「三笠」に愛着を持つようになった。その軍艦の写真を応接間に掲げていたが、第二次大戦中には、人目をはばかって自分の寝室に移し、ひそかに艦と友人とを偲んでいた。昭和三十年秋、君は、商用があって、七十五歳の老躯も若々しく、日本の土を踏んだ。

はじめて日本へ来て、第一に赴いたのは、奈良、京都ではなく、「三笠」のつないである横須賀であった。
ルービン君は、そこで「三笠」を見て日本のさかんなりし往時を偲び、東郷の霊に語り、国破れたりといえども、「三笠」の精神あるかぎり、再び往年の栄誉を復する日あらんことを祈ろうとした。
何ぞはからん。見たものは船体汚れ、橋檣破れたる「三笠」であり、語ろうとすれば、粉黛なまめかしい商女のほかには人影無し。
ルービン君すなわち憤然、踵を蹴って帰り、ただちに一書を日本タイムズ紙に寄せて、日本人の愛国心を質疑して曰く、「日本人は、『三笠』の現状を知っているのだろうか。
おそらく知らないのであろう。知っていれば、あの国辱的荒廃を放っておけるはずがないと思うからだ。
一九〇〇年、『三笠』の回航員であった人々の中で存命中の方があれば、至急連絡を願う。
私はこれについて語らねばならない」と。幸いにして、二、三の存命者が現れて憂国の物語をともにした。
ルービン君は、その人々の「三笠」保存の約束をよろこび、ある金額を寄進して、ひょうひょうとして故国に去っていった。

「三笠」の復元において、米海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ大将を忘れることはできません。
ニミッツ大将と「三笠」の関わりを三笠保存会の資料に見てみたいと思います。

太平洋艦隊司令長官であったニミッツは東郷元帥をこよなく尊敬していた。彼は昭和33年2月号の文芸春秋に「『三笠』と私」という題で寄稿している。
その要旨は、「自分は1905年(明治38年)夏の終わりに宮中で開かれた日露戦争の戦勝・園遊会の席に米海軍士官候補生として参加、東郷司令長官と固い握手と貴重な薫陶を受けた。
以来東郷大将に深く傾倒しわが心の師と仰いできた。
そして東郷元帥が亡くなった時、米アジア艦隊旗艦オーガスタ艦長として東郷元帥の葬列に参加し、一層尊敬思慕の念を深めた。
東郷元帥を偲ぶ『三笠』が今、悲しむべき状態にあることは甚だ嘆かわしい。日本国民と政府が、全世界の海軍軍人に賞讃され、尊敬されている提督の思い出を永らえるため(記念艦として)適切な方法を講ずることを切望する。」

そしてその原稿料を三笠復元のために寄付するとともに、米海軍に対し三笠復元に協力するよう指示したのである。
その口添えで、3000トンのLST(揚陸艦)1隻が三笠復元費用にと寄贈された、当時のお金で2317万円であった。
(「三笠の生涯」財団法人・三笠保存会 事務局長 小山力氏)

「三笠」保存の動きは海外からのものだけではありません。
先に述べた中村虎猪氏、伊藤正徳氏、山梨勝乃進元大将、大蔵省横須賀管財支所の初代所長・島崎長治氏ら多くの人々の努力により、1958年、三笠保存会が再建され、「三笠」復元のための募金活動が始まりました。
そして、1959年から復元工事が始まり、1961年5月27日、「三笠」の復元記念式典が行われたのです。

復元なった「三笠」(三笠保存会提供)

したがって、今年2011年は「三笠」が復元された50年目の節目の年にあたり、5月27日には50周年の記念の行事が行われる予定です。
言うまでもありませんが、5月27日は「三笠」が勇戦奮闘した日本海海戦の初日にあたり、戦前では海軍記念日とされてきた「三笠」にとって因縁浅からぬ日なのです。
最初に述べた記念切手もこの50周年を記念する行事の一環として発売されたものです。

現在の「三笠」(前檣の上部ヤード左舷側にはZ旗が、後檣トップには大将旗が掲揚されています)
(三笠保存会提供)