イプシロンの成功に思う

元陸上自衛官 現星槎大学非常勤講師 森 清勇

 2020年夏季オリンピック・パラリンピック招致と、イプシロンの打ち上げ成功の快挙に心が躍った。1964年の東京オリンピックは防大卒後2年目であった。初任地北海道にいたので直接の関わりはなかったが、東京近郊にいた同期はいろんな形で支援に参加し、その時の高揚感が聞こえてきた。支援した部隊の名誉を称えた顕彰碑は市ヶ谷台の慰霊碑周辺に設置されている。
 直接参加できたのはプレオリンピックに位置づけられていた2年前のアジア大会であった。4学年であった我々はマスゲームに参加し、感激した思い出がある。
 こうした青春の思い出が、7年後には再びやってくる。サミュエル・ウルマンの「青春」が謳うように、歳月は皮膚のしわをましたが、求めてやまない探究心並びに人生への歓喜と興味で、あの青春時代を再生したい。



 イプシロンの成功もいろんな思い出を運んでくれた。任官直後から主として技術情報や戦略情報分野で勤務した関係もあり、内之浦や種子島発射基地に足を運ぶ機会があった。両発射場が統合される前のことで、内之浦は東大宇宙航空研の発射基地で科学研究が中心であり、種子島は宇宙開発事業団が所掌する開発運用に重みが置かれていた。現在は統合されて宇宙航空研究開発機構(JAXA)と称されている。
 米留間には休暇などを利用してケネディ宇宙センター(以前はケープ・カナベラル発射基地と称していた)を訪ね、月面に初の人類を運んだアポロ13号発射台を見たり、設計途上にあったスペース・シャトルの実物モデルを見たりした。
 別の機会にはヒューストンにも飛び、スペース・コントロールセンターを訪ねて、広大なコントロール室の正面一杯に、衛星軌道などがsin・cosの曲線で描かれていた図面に驚き、明治の初めに米欧視察した岩倉具視らの驚きはこれ以上であったに違いないと想像したものである。彼らが偉かったのは、驚いたがギャップは40年「もある」と落胆するのではなく、「しかない」と希望につなげたことである。
 陸幕調査部で技術担当の班長になってからは、「宇宙の平和利用」の大枠があったが、非常時にはすぐに役立つようにと前班長時代に始まった偵察衛星の「研究」に注力した。
 定年後の1998年、北朝鮮がテポドンを発射すると政府は多目的情報収集衛星の保有を決心、2003年には早くも第1号を打ち上げることができた。電機関連6社で精力的に研究して貰った成果がいかされたとも仄聞した。
 現在は分解能(60㎝)に優れた光学衛星2基と全天候型のレーダー衛星2基で運用されているが、研究段階では当時の米軍衛星の分解能(30㎝)に引けを取らないのを目指していたことを付記しておきたい。