東北関東大震災、中央は何をすべきか
陸自OB 佐伯義則
はじめに
 世界に誇る経済力と発展に陰りが見えて十数年経った日本に、2011年3月11日、有史来最大と言われる大地震が発生し、被災地域はもとより日本国内、更には世界経済まで影響を及ぼしている。
とりわけ懸念されるのが福島第一原発の放射能漏れ事故の対応ぶりだ。
危機管理の原点は「最大脅威に先ず備えよ」だと私は考えるが、被害極限に気を奪われ、最悪の事態への備えが疎かになっているのではないかと多くの国民が不安を感じている。
 
この放射能漏れ事故が生起したとき、直ぐに米国側が対処協力を申し出たというが、日本側はこれを断ったという。
とりわけ原発事故・放射能漏れという高度の専門的な知識や技術が要求される国家の命運をも左右する事故については、金をかけてでも世界の英知を集めて迅速に最良の対処策を講じるべきだと考えるが、民心安定に気を奪われ、非専門家が無暗に介入し、その結果、後手後手の対応になっているようで、いつ大パニックが起きるか心配だ。
   
規模も様相も場面も全く異なるが、原則は同じだと思う私が、被災の現場指揮官として阪神淡路大震災の現場で学んだ危機管理・事態対処の要諦は以下のとおりだ。
予測しなかった事態の生起、情報が少ない、甚大な被害、放置すれば被害が拡大、保有する人員・装備・システムでは対処困難、指揮連絡も制約、こうした状況には今と原則的には共通するものが多い。
原発放射能漏れ対処にも「何処かに最良の答えがあるはず」であり、「最適の人材で当たらせる」ことが条件であり、 「最良を追及する」ことで事態終息の糸口がつかめよう。
戦う装備を十分に与えられていなかった我が部隊は、知見も装備もそして隊員も借りて101日間戦い抜き、難局を乗り切った。
 
情報は取るもの、奪うもの
 発災当初は虫食い状態のようなもので情報の上がらない空白域があり、そういうところほど一般に事態が厳しい。
したがって救援側は自ら情報要求を示し、部隊や関係機関に情報提供を求めなければならない。

特に通信科部隊は救援部隊等の現場投入に先行或いは追随してネットワークを構成しなければならないので、細部は略すが総監部、県庁、連絡調整所等の会議等内容について情報収集要員或いは情報提供要員を決めて、時には内部の裏情報まで拾った。
それは別に防秘でもなんでもないし、こちらも通信の成否が災害救援の成否に重大影響すると認識するから、覚悟を決めて情報を取りにいったもので、入りにくいところには「草」をも忍ばせ、盗った。

情報に踊らされてはいけないが、情報がないことには救援側は動きがとれない。
淡路島の北淡町ではどの家には何人住んでいて、家のどの付近にいつも寝ているか近所の人が知っていたので倒壊家屋からの発掘・救出も早かったが、神戸市あたりではどの家に何人住んでいるかも解らず、結果的に救出作業が遅れたというのは当に情報戦、情報が命ということだ。

被災の現場から情報が上がってこないのは当たり前であり、現場ではそれより重大なことが起き、それに対処しているのだ。
だから上級機関は情報が欲しかったら連絡員を張り付けるとか、専用回線を作るとか、そこに前進指揮所を置くとかして継続的に取りにいかないと、上級機関だからといってそう簡単に現場からタイムリーに入ってこない。
緊急事態にあっては、まさに「情報は取るもの、奪うもの」なのだ。
 
指揮官は頭を冷やし、決心しろ、知恵を出せ
 阪神淡路大震災のとき、通信群長であった私は、当初3日間は寝る暇もなかった。
だが、そこで考えた。指揮官はこれから何をすべきか、方面総監は、我が部隊は、そして我が隊員たちは私に何を求めているかと。
そして決めたことは、「俺は通信群で一番冷静な頭になるべきだ」ということだ。

偶々群長室にベッドが運ばれ、営内居住の身となったことも幸いし、20日からは何か懸案・難問があるとベッドにひっくり返って「ほかにもっと良い策はないか。次はどんな手を打とうか」と、しばし考えた。

既に六甲山に中継センターを作り、伊丹・千僧・生駒・王子公園等の通信中枢と六甲・生駒の両中継所で戦うことは決めていた。
六甲山頂上まであと1.2kmという地点で道路が崩落してはいたが、通信の成否は弱肉強食の電波の原則から、一番優れたこの六甲山の頂上を目指せ、9合目ではダメだ、と命じていた。
このため隊員たちは最初は手搬送、次にリヤカー搬送で通信器材を頂上まで上げてその企図に応えてくれた。
その間、私も第三施設大隊に掛け合い、21日朝には突貫工事で片側通行の生命線を確保してもらった。六甲山は大中継センターとして震災対処通信を101日間支えた。
     
だが、通信機や通信所で使う燃料、暖房用灯油などを毎日相当量、頂上まで揚げなければならない。
通信群の操縦手は底をつき、新米隊員しか使えず、頂上への最後の坂道は転落防止柵もなく、おまけに凍結している。
私は危険な状況を一通り聞いて、また例のごとく暫くベッドに寝そべり、「ウーン、なにかいい方法、方策はないかナア」と中継所を思い浮かべ,思案した。

登山道路を思い浮かべ、そして頂上の局舎にたどり着き、ハッと気が付いた。
「そうだ、あそこに関西電力の電柱があったよな。」「よし、関西電力から電気を貰おう。」
2・3日後に六甲山中継所局舎の最寄りの電柱端子は、関西電力によって20kwが50kwに増やされ、その結果、発動発電機は大半は予備となり、燃料も節約でき、中継所地域に展開する野外通信部隊は安心して中継任務に邁進できた。

人間は困難に晒されると思わぬ力も出るが、一方で睡眠不足となり、頭がぼんやりして回転しなくなり、ワンパターン的な行動に入ってしまう弊がある。
とにかく、凡才の私は暇が少しでもあったら横たわり、普通の頭に維持し、今後予定される段階の通信構想や突発的な目前の緊急対処を誤らないように自分なりに努めた。
発災して1か月ほどたち、方面主力が瓦礫処理任務へと移行する時期となった。

問題は、六甲中継所では神戸地区が真下になって通信のカバーができない地域が出てくることだった。
そんな折り、NHK等テレビ放送局アンテナがあり、ケーブルカーは止まっているが観光地でもある、一見自衛隊の中継所にはどうかと思われた摩耶山に行く機会があった。

摩耶山はだめだろうというのが関係者の認識だったが、しばしベッドで考えた私は、「ダメもとでNHKや神戸市に用地借用を打診するよう」幕僚に命じた。
問題は搬送器材のテレビアンテナへの電波干渉がネックだった。
だが、相手は電波干渉が起きなければ許可するという前向きの返答だった。摩耶山にはその後陸自5こ方面隊から支援に来た搬送端局とアンテナが整然とならんだ。

また、長引く災害派遣で外出もままならぬ全国からの通信の来援隊員200余名を含め、伊丹地区で展開する700名余の隊員だけでもなにか士気高揚の方策はないかと考え、思い浮かんだのもベッドだ。
二か月ほどたった土日の半日ずつ、方面通信部隊対抗バレーボール大会を隊内で開催、選手も応援も久しぶりに大声を出し、笑い、ストレスを発散させた。
特に中継所勤務や誰からも褒められない基地通信勤務のレームダック達を見ていた私は、彼等こそ発散する機会がなく、その辛さを例え災害派遣中でも除去しなければと痛感したのが実行に繋がった。
 
陣頭指揮とか現場視察とよくいうが、リーダーは自分の主戦場、立ち位置はどこかということをよく考えなければならない。
上級になるほどそのリーダーが動けば、自分のスタッフも随行するし、受け入れ側も繁忙な業務を一時休止して対応しなければならないから特に初期或いは状況浮動時期では注意が必要だ。
一般に組織には節々に指揮官、責任者がおり、その人の能力と識見に委任分権しているのだから、部下を信用して任せることが大切であり、「責任は自分が取るから存分にやれ」でよい。

かの震災の時、幸いにも私は、松島総監という腹の座った指揮官であり、そして隊員の気持ちが解る人間味のある人のもとで通信に関しては全てを任せて戴いたので、思う存分,動くことができた。
多少能力や経験には不安があっても任せてもらえること、これほど嬉しく、意気に感じることはない。
それでこそ上司の器量であり、力量なのだ。

緊迫時になるほど自身が「リーダーは孤独との戦いでもある」ことを忘れ、また、自分との闘いに敗け、自らの立場を忘れ、飛び出す場合があるが、それは時に職場放棄とも映る。
余程優れた知見か対処薬でも持って現場に行けば救いようもあろうが、叱咤激励だけで善後策を講じきれぬようでは、部下は動かないし、打開策も見えてこない。

私自身、中央のリーダーたちの器量を云々するほどの器量はないが、今の福島原発における中央の混乱ぶりを見る限り、関係するリーダーには、もっと頭を冷やし、今のうちに決めるべきことを決め、そして大改作の知恵を出せ、人材を集めよ、と叫びたい。
 
欲しいものは何でも言え
 阪神淡路大震災のとき、我が中部方面通信群は、電子交換機がなく、搬送通信・中継器材も全く足りなかった。
私は当日17日夕刻、電話がやっとつながった陸幕の通信電子課長に直接増援を頼んだ。
時の課長はこういった。「欲しいものは何でも言え!たとえそれが空振りに終わってもいいじゃないか」この言葉ほど私、そして中部方面通信群の隊員1,000名を勇気づけた言葉はない。

俺たちには陸上自衛隊北から南までの通信科部隊がついている、いくらでも支援をしてくれると一言で約束してくれたのだ。
なにより勇気百倍、この一言で恐れるものは何もなくなった。
実際に中央の動きは早かった。通信科とういファミリーもあろうが北海道から九州まで全国の通信隊員と装備が勢ぞろいした。
なかでも件の電子交換機を中枢に中方では見たこともやったこともない通信システムをぶっつけ本番で作ろうというのである。

私は「デンコー」に関しては全くの素人だったから全てを来援部隊に任せた。
システムの操作ばかりかシステム設定のためのシステム設計者たちまで通信団や東北方面通信群の専門家を招き、最寄りの事務所を開けて彼らをそこにいれ、システム構築が始まった。

なかでもS一等陸尉たちシステム設計Gpの知見は素晴らしいものがあった。
かれらのネットワークを夜間、やや通信量が落ち着いた時期に通信学校はシュミレーションし、ここはこうしたほうがいいとけんか腰で議論しながら、着手して3日目の1月21日には無事構成完了した。

数えきれないトラブルがあり、いくつかの幸運もあり、そして陸自通信科の優れた知見のお蔭で、ともかくも借り物ながら災害派遣になんとか供しうる通信組織が出来上がった。 もし、知見を聞かないで自前の自動交換機で構成していたらと思うとゾッとするし、知ったかぶりをしないで正直に聞いてよかった、と私自身もつくづく思った。

電子交換機による災害通信システムの構成を進めてくれたF課長の先見の明に私も部隊もそして方面隊も救われた。
IT時代である。どこかにその難問・困難に応え得る正しい知識や最適システム、最良ツールそして最適の人間がいることは間違いないのだから、愚策や思い付きを始める前に、「最適解はどこにある?」と問いかけることが大切なのだ。

そのため、現場は現状を正しく認識し、一番欲しいニーズから明確に訴え、表に出すことが必要だ。
また、中央、上級機関は「欲しいものは何でも言え、直ぐに何とかする」という姿勢が必要だ。
何とかすることもしないで、報告しなかっただの、対応が遅いだのと言っているようでは、肝心の現場は動けないし、上級機関への不信感、不満が高まり、結果的に時機を失してしって厳しい事態を招くのは自明の理である。
 
おわりに
 実は阪神淡路大震災16年がたち、私は当時の中部方面通信群の隊員たちの奮闘ぶりを小説風に纏めなおしていた矢先にこのマグニチュード9.0という桁外れの東北関東大震災、そして福島原発放射能漏れ事故が起きた。

この先、どうなるのか、まだ予断を許さないが、どんな経験からも人間は学ぶ気持ちがあれば学ぶことは少なくない。
こんな大地震が起きてから今更何を言うのか、学ぶのか、と私自身も思うが、誰もがそれぞれに謙虚に学ぶことを放棄したら、また、いつか、いや明日にも更に厳しい事態が来るような気がしてならない。
思いつくままに書いた次第だが、自衛隊の眼を見張る活躍ぶりとは裏腹な状況が中央で垣間見えるのでついいつもの老爺心が出てしまった。
反省。