阪神淡路大震災16年
山根峯治
陸上自衛隊OB
震災時、中部方面航空隊長
救援活動に従事

 地震の大きな揺れと、ガタガタする家具の音で目が覚めた時の事を、今でも鮮明に記憶しています。
かつて関東地方での勤務が多かった者にとって、震度4以上になると自動的に出勤し即応体制を整えることは、体に沁みついていました。
直ぐに当直室に電話して、準備すべき事項を指示し、すぐに迎えのジープに乗って6時過ぎには登庁したものです。
冬の早朝はまだ暗く、その中で当直・営内居住の隊員たちが、航空機をエプロンに搬出して飛行準備をしていました。
近傍に住んでいた隊員は、自転車や徒歩で登庁しています。道路が途絶した際には、車が使えない事があるからです。
最も長時間かかって登庁した人は、「自宅が神戸で被災しながら、片付けを家族に任せて、自らは、徒歩や電車など活用できるすべての手段を使って、7~8時間くらいかかった・・」と。

彼が出勤してきた際には、鳥肌が立ちました。
市民の生命財産の保護の気概に燃えて行動する八尾駐屯地の隊員に誇りを感じたのでした。
それでもあの日は、今日と同じように寒く、一番機が飛び立つまでには、飛行前の点検などに時間がかかりました。
当時は、出動が遅かったなどと批判を受けましたが、現場では精いっぱいの汗を流していました。

7時14分に飛行した一番機の機長からの報告では、神戸の西~淡路島にかけては、雪雲で覆われ、低い雲が垂れこめていました。
淡路島付近では前が見えないほど視程が落ちているとの報告があり、飛行高度を下げて情報収集に当たったために、一時通信連絡が取れず心配しました。

それから101日間の中部方面隊を中心とする自衛隊の救援活動が始まったのでした。
都市で孤立化した住民の皆さんに水・医薬品・食料・日用品等を王子公園などから官民合わせたヘリコプターで配分しました。
その総量は、ほぼ初動の2週間で約900トンにも及んだと思います。

被災初期に都市で孤立し、飲む水も無かった市民にとって、ヘリコプターが運ぶ水は「命の水」でした。
「ペットボトルの水を一口飲んで、涙を流して喜ばれたのには感激した・・。」と救援に当たった隊員から聞いた時には、昼夜連続の救助活動で睡眠もとれないことを忘れて、元気が出たことを思い出します。

AH-1Sは、悪気流の中でも安定して飛行でき、情報収集用の高倍率のカメラ等を搭載していることから、神戸や淡路島周辺などの被災状況調査や悪気象の調査などに当初から使っていました。
ところが、神戸の某新聞社は、「自衛隊は神戸上空で・・戦闘訓練を行っているのでは・・??」との主旨の記事を書きました。
誠にその表現に驚くとともに、直ぐに抗議の電話をしてその情報収集能力の高さなどを説明して理解してもらいましたが、今では考えられないようなこともあちこちでありました。

毎年この時期になると当時の事を思い出します。
自衛隊、消防・防災、警察、厚生省等官庁がチャーターした民間ヘリコプター等が八尾空港に集中しました。
当初は、相互の通信連絡も取れずに、連携も十分では無かったと思いますが、徐々に県庁にあった救助活動の「調整所」で各機関が調整するようになり、役割を分担しながらの救助活動が実行されるようになってきました。「関係各機関等のヘリコプターJoint Operation」ができるようになったのです。

巨大地震が切迫しているとされ、今年は関西地区でも巨大地震に伴う広域の対処計画が検討されると聞いていますが、当時苦労して構築してきた連携要領等を参考にして良い対処計画を作って頂きたいと願っています。
「都市が孤立することを前提にした応急対処計画」、「道路や鉄道など公共交通機関が途絶し、命をつなぐ水や食料がヘリコプター以外運べない初期の時期があることを十分認識した対応」、「市民の救助広場は、殆ど市民の避難場所でもあり、ヘリコプター救助活動と競合するため、あらかじめ救助用のヘリポートなどは指定し、告知しておくことが重要」等など・・・色々と当時苦労したことが思い起こされます。中でも深夜に苦労して運んだ弁当を、某避難所の担当者が「避難者の数に不足する・・公平性が無いので・・と全部破棄した・・。」

任務に当たっていた隊員は、誠に腹が立ったと怒りを吐露した。多くの人が、同時に食糧が無い時には、半分にすれば倍の人に行きわたるくらいの知恵はあっただろうに・・。
市民にとっては、一担当者の平常時の過度の潔癖性がもたらした災難でありました。
教訓は大小色々ありますが、現場で直ぐに活かせるものをできるだけ多く伝えておくことが巨大地震などへの効果のある備えの一つだろうと考えています。
当時の事を知っている人の割合が、40%程度まで下がってきたようですが、教訓は確実に引き継ぎ、活用されることを強く願っています。