関東大震災前史 無念の教訓
前川 清 
(武蔵野学園大学名誉教授・全国自衛隊父兄会顧問)

9月1日防災の日。
今年も各都道府県や市町村等で防災演習が実施され、自衛隊部隊も参加した。防災の日は、関東大震災に由来する国家的防災記念日である。
 今から87年前の1923年(大正12年)9月1日、巨大地震が南関東地域を襲い、約14万人の死者行方不明が発生。その8割が焼死であった。
 その関東大震災の様相を早くから警告し、「防災特に減災」の諸施策を強く主張していた地震学者がいた。
 今村明恒・東京帝国大学理学部物理学科地震学教授兼陸軍教授である。

★日本地震学の先駆者

 今村明恒は明治3年、薩摩藩士の三男として鹿児島市に生まれた。
 21歳で、東京帝国大学理学部物理学科に進学。大学院を経て、発足間もない地震学講座で地震研究に励むかたわら、市ヶ谷の陸軍士官学校や陸地測量部で数学や地震学を教え、陸軍とは深い関係にあった。
 明治初期の日本で、地震の科学的研究を始めたのは、お雇いの外国人学者である。中でも、英国人の地質学者ミルン(milne)博士は、来日後に大地震を経験して驚き、それが動機となって、日本で地震の研究を始めた。
 明治6~28年の在日間、彼は地震研究の先駆者として、世界初の近代的地震計を開発し、明治24年の濃尾大地震(死者7千数百人、全壊戸数約14万戸)に際しては、現地調査をし、政府に地震の学術研究の促進を提言した。
 濃尾大地震は震源が10キロ浅かったら、被害は数倍になり、8年後の日清戦争を著しく不利にしただろう。
 彼は美しい日本人妻と娘を伴い英国に帰った後、日本がアジアで最も信頼できる優れた国家であることを政府に進言し、かの『日英同盟』の成立にも大きく貢献した。
 彼はシベリア大陸を馬車に乗って来日し、シベリアを単騎横断した情報将軍福島安正(当時中佐)とは深く長い親交があった。

★関東大震災発生の警告

 東京帝国大学に地震学教室が発足したのは明治24年である。教室主任は、欧州留学帰りの大森房吉教授、今村明恒氏は助教授として、共にミルン博士の地震研究成果を拡充し、日本の地震学を大きく発展させた。特に今村は、安政江戸地震(1855年、死者約1万人)の50年後の明治38年(1905年)に当たり、論説「市街地における地震の減災法」を国民雑誌『太陽』に掲載し、政官界や言論界に下記に要旨の防災対策特に減災対策の重要性を警告し提言した。
(1)江戸・東京大地震の歴史(特に慶安地震1649年・安政地震1855年)や地震発生理論から考察するに、今(1905年)から50年(1955年)以内に東京に大震災発生の可能性が高い。(2)重視すべき地震対策としては、特に①薬品や石油による火災発生の防止 ②燃え易い木造家屋の延焼防止対策 ③水道管は地震で破壊され消化水は確保困難になる故に、水道水への依存は危険。井戸の埋め立て流行は阻止せよ。④警察の管理下に消防組織をおいている体制は不合理であり改革すべし。

★報道の偏向と地震学者間の確執

 今村博士の論説の「真意と力点」は(2)の防災対策にあった。ところが、当時の新聞は、今村簿士の警告を「東京大震災の予言」として誇大報道(東京二大新聞1906年1月16日号等)をしたために世情騒然となり「民心を不安にしている。」との非難が今村に向けられた。今村は、有力新聞数紙に寄稿して自説の真意を説明し、大方の理解を得ていた。ところが、翌2月23~24日、東京湾周辺で地震が起こり、煙突が倒壊する等の被害が発生した。不安騒ぎが再燃し、食糧買い占めなども起こった。
 そこで、大森房吉教授は民心沈静化を主眼に寄稿や講演で「今村学説は学術的根拠に乏しく、今後50年間は東京地域に大震災は起こるまい。もし起きても大火災にはなるまい」と主張した。
 かくて、関東大震災への官民の関心は薄れ、地震火災対策も後退した。
 その18年後、今村教授の警告は現実となり、関東大震災で死者8割が焼死した(因みに、阪神大震災では8割が圧死)。「関東大震災前史」は「地震学者の無念」と共に、「現代に生きる教訓」をなお多く秘めている。

(「おやばと」(22.9.15)から転載。筆者は防大1期卒、元陸将補)


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