原発事故・福島と女川の違い
山下 輝男

 先日,K氏が主宰する月1回開催の懇話会に参加して、講師のM氏から、興味深い話を伺うことが出来た。東日本大震災のM9の巨大地震と未曾有の津波に襲われた福島原発と女川原発、一方は国際原子力事象評価尺度で最悪のレベルⅦの原子力災害を引き起こし、一方は軽微な被害(非常電源の喪失なく、関連施設のボヤ程度)にとどまり、施設内に避難者すら収容したという。云うまでもなく、原子力災害を起こしたのは東京電力福島第一原発であり、軽微な被害に止まったのは東北電力女川原発である。その差は企業文化の差であるとの説明であった。小生は、不明を恥じるのであるが、この事実を承知しておらず、詳細は、インターネットで確認出来るとの事であったので、帰宅して調べた。それは、現代ビジネス 町田徹氏「ニュースの深層」(2012/04/03)であった。(A4版6p弱)(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32200
興味と関心のある方は、是非本サイトにアクセスして確認して頂きたい。

 福島原発事故は、考えたくないことは想定外と逃げを打ち、最悪に備えることもなく、安全に責務を持つ者までもが安全神話に依拠した人災だったのだなと慨嘆してしまう。福島と女川の明暗を分けたものは何だったのだろうか?

〇 女川原発は、東日本大震災の震源地に最も近い原発で、福島とほぼ同じ高さ13mの津波が襲来した。
  にも拘らず、明暗がくっきりと分かれた。
〇 筆者の町田氏は、東北電力が原発の安全に猛烈な拘りを持っていることを随所に確認できたという。
  これで十分だということはないとの意識があったのだと云う。
〇 東北電力の徹底的に安全を追求する姿勢には、原発の安全確保が如何に重要であるかの認識と最高の
  安全確保が地域住民との信頼感の基礎であるとの意識があったものと推察される。東北電力にとっては
 「女川原発は虎の子」でもあり、それだけに特にそのような意識が強かったという側面もあろう。
  東京電力との意識の差が在ったのかも知れない。
〇 最大限の安全対策を取れば、当然コストは鰻上りになるだろうが、それでも事故を惹起した時の被害を
  考えれば安いものである。短期的な経済合理性を追求すべきではない。

以下、町田氏の現地取材記事の要点を紹介する。

1 基本設計について
 営業開始に先立つ16年前(1868)に学識者を交えた社内委員会を設置して過去の津波に関する文献調査を行った。結果として、当時の想定された津波の高さは3m程度だった。が、東北電力は原発の敷地の高さをほぼ5倍の14.8mに設定した。12mでも良いのではとの意見もあったが、当時の委員会のメンバーであった人物が15mにするよう主張し、その通りに決定された。津波の恐ろしさを知る彼は、貞観津波クラスに備えるべきと強く主張し、経営サイドも承認したのであった。

2 何重ものバックアップ
 ・東北電力は、想定や現状の見直しとそれに応じた対策を何度も積み重ねてきた。
  想定津波の高さを3.1mから、貞観地震の実態確認後に9.1mに引き上げた。
 ・敷地の高さは十分でも、津波の引き潮で堤防が削り取られることを防止するため、格子状にブロックを
  敷き詰める等の堤防の補強工事を行った。
 ・電源の確保にも万全を期していた。通常高圧線網は4系統であるが、女川原発は5系統を備えていた。
  震災で4系統がダウンしたが、最後の1系統が正常に機能し続けた。
 ・非常用のディーゼル発電機は、2号機の一部で停止したものの、他系統は正常で相互融通できる状態にあった。
 (山下追記)  
  東京電力福島原発事故を想起して欲しい。何たる違いであろうか!

3 細部に亘る様々な対策
 ・原発の制御盤の前面に頑丈な手すりを設けて、激しい揺れの際に誤って操作ボタンを押さないようにした。
 ・様々な配管の補強を一本の棒で支える方式から、3方向から支える仕組みに改善した。改善個所6,600ケ所。
 ・4階建ての古い事務棟の3階までの外壁に鉄骨を張り付ける補強工事の実施。

4 東日本大震災の教訓を踏まえた対応
 所長は、今回の震災でも足りないところが見つかったと述べ、補強内容等を説明した。その中には以前から順番に改修を進めていたものも含まれており、対応が遅れたと反省の弁を述べたという。

 ・防潮堤を更に3.5mを17mに嵩上げ
 ・新たな非常用の発電機を裏山の海抜60m地点に設置
 ・重油タンクの設置場所の変更
 ・ボヤの原因となった1号機の高圧電源盤内の遮断機の設計変更
 ・潮位計の取り付け個所のパッキンの補強等

5 避難住民の収容
 当日午後4時過ぎ、区長等が訪ねてきて「避難所まで流されたので、助けて欲しい。」と訴えられた。所長判断で原発サイト内の事務棟や体育館での受け入れを決定、バスを出して収容した。本来であれば、外部からの見学は厳しく制限されるが、例外扱いにしたと云う。ピーク時には364人に達し、6月までの3か月弱に亘り避難所としての役割を果たした。社員も殆ど地元出身者であり、東北電力と地元の共存・共栄意識、相互の信頼感が醸成されていた。

以上