東日本大震災出動指揮官インタビュー(2)
「“レスキュー・フロム・ザ・シー”を念頭に」

東日本大震災の発生後半年が過ぎましたが、海上からの救援活動であまり知られていない、海上自衛隊出動部隊の指揮官に対するインタビューを2回にわたりお届けします。
 第2回は発生直後現場に出動した護衛艦たかなみ艦長米丸祥一2等海佐です。「たかなみ」は、3月12日、がれきの漂流する海上から石巻市に上陸を敢行し、津波の被害で孤立した幼稚園児等を救助するという、「レスキュー・フロム・ザ・シー」を実践しました。
 母港横須賀に帰り年次修理中の5月19日、横浜の造船所に護衛艦たかなみを訪ね、米丸艦長から生々しい体験談を伺いました。

(インタビュアー:山田道雄理事)

護衛艦たかなみ艦長 2等海佐 米丸 祥一 (よねまる しょういち)

昭和33年、鹿児島県出身。防衛大学校卒(26期)。
昭和57年海上自衛隊入隊。海上幕僚監部勤務、ミサイル艇艇長、護衛艦艦長等。
平成22年8 月から現職。

――米丸艦長、本日は修理中でご多忙の中、時間をとっていただき有難うございました。
「たかなみ」は、今回の東日本大震災の災害派遣ではいち早く現場に駆けつけ小さな子供たちの救助作業等大変ご活躍をされたと伺っていますが、なかなか私ども一般の者にはその辺の細かい所が伝わって来ておりません。本日は特に初動段階における現場の一指揮官として臨場感あふれるお話を伺えればと思っています。
早速ですが、地震が発生した3月11日14時46分、艦長はどちらにいらっしゃいましたか?

米丸 当日は金曜日だったと思いますが、月曜日からの出港挨拶のため訓練指導隊群司令のところに居ました。非常にゆっくりしたかなり大きい地震を感じてとりあえず屋外に出ました。これは災害派遣が来ることは間違いないと思いましたので、群司令に失礼してすぐ船に帰り緊急出港の準備を命じました。その日は恒例の昇任試験でしたので約60名の乗員が武山の教育隊の試験会場に行っておりましたが、その日の16時17分、僚艦の「おおなみ」に続いて出港しました。

――約60名の乗員は積み残しですか?

米丸 ええ、2日後の13日補給艦ときわから引き取りました。

――出港については命令か指示があったのですか?

米丸 出港準備をしている最中に護衛艦隊から稼動艦全艦出港の命令があり、出港してから本艦には「金華山沖に向かえ」と指示がありました。「おおなみ」は相馬沖、「はるさめ」は確か気仙沼沖の指示だったと思います。

――その後被害情報等の配布や具体的な指示は?

米丸 被害情報は衛星TVの情報のみでした。1護群司令の指揮下に入れとの命令と兵力規模の指示があったのみで具体的にはありませんでした。浮遊物が多いのでできるだけ陸岸から離れて向かえという指示はありましたが。

――現場への進出はどのように?

米丸 浦賀水道を出て洲崎沖でヘリを搭載後、夜間27ノットで現場に進出しましたが、本艦は敢えて陸岸の見えるところを通りました。何故かと言えばTVでは仙台市荒浜地区に遺体が200とか気仙沼の火災とか放送していたので、できるだけ現状を認識したかったからです。陸上のあちこちに火災らしい灯りが所々見えました。それらを眺めながら、夜が明ければ数万人単位の被害規模だろうが、とりあえず金華山沖に向かおう。そして、この船で「何が出来るのだろう」と一晩中考えました。付与される任務は当然捜索救難だろうが、まず洋上での救助、次いでレスキュー・フロム・ザ・シーということで、航路を啓開しつつ陸岸に近接し上陸、孤立した人たちを救助しつつ物資を揚陸する。その場合、阪神大震災等の例から最初の3日間が勝負だろうなと思いました。

――金華山沖に着いてからは?

米丸 日出約1時間前の4時半頃金華山沖に着いて、薄明時だったのですぐ搭載ヘリを発艦、金華山、女川、鮫浦湾付近からずっと南の方の偵察を行いました。捜索救難の任務を与えられた場合、どうやって人を救うのか、どこを基点として活動を行うのか、後続部隊が来た場合、航路を啓開しつつ物資を揚げる拠点は石巻港が良いだろう・・・と一晩中考えていました。そういう考え方で状況が知りたいとヘリで海岸線を偵察し、仙台空港や松島空港は使えないが霞目空港は使えると判断し、続いて石巻市内を偵察しましたがどう見てもヘリの降りるところがない、人(被災者)がどうなっているか分らない。ハザードマップみたいなものも持っていませんでしたので、とりあえず人の集まりそうな所は、学校、高台あと市役所そういった所だろうと見当をつけました。そして、当時は乗員が総員110名いましたので50名を内火艇2隻に乗せてまず横付けできるかどうか岸壁の調査をさせ、陸上の被災者捜索のため上陸させました。その時水に浸かった屋根の上で孤立した幼稚園児を含む被災者を捜索隊が偶然発見したわけです。

――その人たちは一晩中その状況で孤立していたわけですか?

米丸 そうです。後で読売新聞にその園児のお母さんが毛布にくるまって子供を捜している写真が載っていましたが、周りが水で誰も近付けない状況でした。捜索隊は海上保安庁のボートを借りて救助に向かいました。それから内火艇に収容して本艦まで運びました。

――艦内に収容してから子供たちの様子はどうでしたか?

米丸 一晩中寒さに耐え忍んでいた割には皆大変元気で大人の2杯分のご飯を食べ、飯を炊き直したくらいです。艦内の風呂で入浴し、幹部寝室の床の上に毛布を敷いて保母さんたちが添い寝をして休みました。やはり疲労困憊していたのか直ぐぐっすり寝込んだようです。2泊し、保母さんたちに大変感謝をされ、このようなお礼状を書いて行かれました。

――園児たちには津波の恐怖と助けられた「たかなみ」の親切は一生忘れられない強烈な印象を与えたことでしょう。そのほかの救助活動は?

米丸 夜間も握り飯を持たせて陸上捜索隊を揚げました。しかし、ご遺体は何体か発見をしましたが生存者の発見はありませんでした。
 (地図上で)市内のかなり大きな病院に捜索隊を派遣しましたが、3階部分まで被害を受けほぼ壊滅状態で機能していませんでした。唯一つ、機能していたのが北部にあった石巻赤十字病院で、ヘリも発着出来ましたので、治療を要する被災者は合計103名、この病院に運びました。この病院は手術の実施も含めてほぼ完全に機能していたと思います。

――その被災者はどこから?

米丸 学校等の避難所に集まっていた人の中から要治療者のみを運びました。

――その時点で避難所は機能していたのですか?

米丸 いえ。ただ、避難をしてただ集まっているだけという状態でした。本艦で水、おにぎり、お茶やタオル等日用品を乗員から寄付してもらい、12日の夕方頃からヘリで避難所に届けました。

――おにぎりは艦内で作ったのですか?

米丸 夜間60名の乗員が艦に残っていましたので、総員起こしておにぎりを作りました。貯糧品は積んだばかりでしたので、米は十分ありましたので。有難かった事に、艦内に居た幼稚園の保母さんたちが志願しておにぎり作りを手伝ってくれました。

――そのような処置は艦長の判断でされたのですか?

米丸 はい。全部私の判断で実施しました。

――上級司令部の指示を仰ぐ時間もないし、またその必要もないと・・他の船も同じようなことをされたのですか?

米丸 少なくとも12日の時点で陸上に人を揚げたのは「たかなみ」だけだと思います。沖合いはがれきの浮遊物の山で陸岸には近付けなかったのではないでしょうか。翌13日になって「きりしま」が来て同じように陸上に人を揚げましたが。

――陸岸からどのくらいのところまで近づいたのですか?

米丸 検疫錨地の中で陸岸から2000mの所です。以前から石巻港周辺には漁網ブイがたくさんあるのを知っていましたので、検疫錨地なら空いているだろうと進入しましたが、あるはずの漁網ブイがありませんでした。代わりに何百というコンテナが仙台港方面から流れて来ていましたが。この状況では中々陸岸に近接するのは難しかったと思います。12日の夕方頃上級司令部が本艦の位置を聞いてきましたが、まさかがれきの山の陸岸付近にいるとは思わなかったのでしょう。

――このような海上からの救援という考え方というかやり方は、元々艦長がどこかで聞いたとか経験されていたのですか?

米丸 阪神大震災の教訓として第2護衛隊群司令部が出した「レスキュー・フロム・ザ・シー」(Rescue From the Sea)というマニュアルを読んだことがあり、手元にその資料はなかったのですが一晩中思い出し、海からの救援というものの大体のイメージを持っていましたので以外と抵抗なく進入していけました。何をやるべきか次から次へと頭の中に入っていましたので迷いはありませんでした。ただ、今回は直下型と違って大津波の被害で、ほとんどの港湾が使えない状況でどのように人員物資を揚げるかについては悩みました。

――阪神大震災と大きく違うところは、阪神の時は岸壁の被害はあったが何とか護衛艦は横付け出来たのに対し、今回は港湾施設が壊滅状態で護衛艦の直接アクセスは出来なかったということですね。
 ところで福島原発の影響についてですが、1日目、2日目あたりから福島第一原発の爆発等の情報が入っていたと思いますが、捜索救助活動への影響や乗員の不安はありませんでしたか?

米丸 艦のNBC防御部署については形だけは出来ますが、実際の放射能の知識とかは私も含めほとんど知らないし、経験もありませんでした。ただあの時副長に指示したのは、艦内密閉循環と洗身装置、甲板散水の準備をするよう指示しました。ところが、他の船もそうだと思いますが(NBCの訓練を)意外とやっていないんですね。当然そういう事態になると思っていましたので、現場に行きながら、器材の点検と部署のチェックをやらせました。

――現場進出の途中ですか。その時点で福島原発の情報は入っていたのですか?

米丸 具体的な(爆発や放射線漏れの)情報はありませんでしたが、当然そうなるだろうと予測しました。

――実際にNBC防御部署は発動したのですか?

米丸 はい。福島原発沖を通る時は発動し、実際に艦内密閉循環通風と甲板散水を実施しました。

――甲板散水までやりましたか。海水を通した後真水で洗浄しなければならず後始末が大変ですが乗員は安心したでしょうね。線量計だとか防護服等の装備は十分だったのでしょうか?

米丸 機関科を中心にある程度の数量は保有していますが、後ほど「ひゅうが」から線量計、防護服の増配がありました。
 ただ、データのばらつきもあり、あまりにも放射能に敏感すぎて捜索救助作業に影響を与えたのは事実です。(命令により)活動海域も徐々に北の方に移動し、せっかく慣れた石巻方面を他の部隊に交代するということになりました。私自身の反省事項ですが、人命救助はもっと腰を落ち着けてじっくりやるべきだと思いました。

――当時一般の人たちにも正確な放射能拡散の予測情報は開示されなかったわけですが、自衛隊の災害救援活動において、政府あるいは防衛省内のそういった信頼性のある情報は配布されていましたか?

米丸 そういったレベルのものはありませんでした。ただ、横須賀地方総監部の気象予報の中でフォールアウト予測情報がありました。

――NBC対処などは普段なかなか縁のない分野ですが今回の体験から反省事項はありますか?

米丸 新しい艦艇には対NBC装備も充実されていると思いますが、その訓練については手続きのみのことが多く、実際に防護服を着用したり、甲板散水を実施していませんでした。また、フォールアウト等放射線の知識も学校等で特定の者には教育されているが、部隊で全乗員を対象としたような教育はされていませんでした。その辺は反省事項です。

――放射能汚染について乗員がパニックになるようなことは?

米丸 それはありませんでした。福島沖を通る時も部署を発動しましたが、皆号令通り淡々と実施していました。

――乗員は指揮官の意図が常に明確で、決断がぶれないから不安を感じる余裕もなかったのでしょうね(笑)
 ところで、「たかなみ」は米海軍と共同の場面はありましたか?

米丸 「ひゅうが」ではいろいろやっていたようですが、本艦ではありませんでした。

――最後になりますが、全活動期間を通じて原発もそうですが、被災者やご遺体に直接接して活動中や活動終了後乗員のメンタルヘルス面でどうでしたか?

米丸 看護長がメンタルヘルス・チェック表みたいなものを持っておりまして遺体に接した乗員にはアンケートをとり、常にメンタルヘルスを把握していました。今日は3名ほど沈んでいる者がいるようですと報告を受けると直ぐカウンセリングを行うことにしていました。
 期間中、かなり滅入っている者はいましたが、精神異常を来たすものはいませんでした。

――本日は修理中でご多忙のところ、長時間にわたりありがとうございました。「たかなみ」が地震発生以降、初動全力、独断専行で捜索救助作業にあたった状況がよくわかりました。今後とも「たかなみ」の活躍をお祈りします。(了)

(災害派遣の写真は海上自衛隊提供)