3.11から3周年

随想「初動全力、独断専行」(3)
-救助犬出動の教訓から-

山田 道雄
筆者紹介:幹候18期。海上自衛隊幹部学校長、海上幕僚副長を歴任し、平成14年呉地方総監で 退官。元三菱電機(株)顧問。平成17年NPO法人救助犬訓練士協会国内渉外担当、平成21年 にNPO法人「平和と安全ネットワーク」を設立、同理事。救助犬、日赤救急員および防災士の各 種資格を有し活動中。

○海からの救援:Rescue From the Sea

 三つの大震災の際ではともに海上からの救援、救護活動が有効でしたが、その内容は少しずつ異なっています。

 関東大震災の場合、連合艦隊主力は5日目以降東京湾に集結しましたが、東京方面は救護物資(特に食糧)の陸揚げが主任務で港務作業、海上警備、避難民遠距離輸送、横浜方面では、このほか陸上警衛、罹災民への飲食給与・診療、整理作業等多岐にわたりました。このうち特異なものとして、1週目から3週目の間に延べ30隻の軍艦で東京から清水まで約21,000名もの避難民を輸送しています 。(※9)

 阪神大震災の場合、海自艦艇部隊は地震発生当日夜間神戸沖に到着しましたが、初動段階での活動内容は陸上における人命救助、糧食等救援物資の輸送・配分、給水支援が主任務でした。早速翌日早朝から海上自衛隊として226名編成の陸上救難部隊をもって人命救助活動を実施しています。陸上自衛隊の陸路による移動が難渋する中、この海上からの救出活動は小部隊ながら8名の被災者を救出しました。

 この226名の内訳は、艦艇乗員(4隻)142名、阪基10名、呉陸上部隊24名、艦隊修理艦乗員10名、修理潜水艦乗員40名でした。艦艇はすべて地方隊の護衛艦で、後述するように佐世保在泊及び行動中の2護群の6隻が神戸沖に進出した場合、1,000人規模の陸上救難隊の編成が可能だったと思います。当時自衛艦隊隷下の一部隊指揮官として直感的に感じましたが、今冷静に考えても自衛艦隊の初動全力は不十分であったと言わざるを得ません。

 今回の大震災の場合、自衛隊の任務は地震発生当初は人命救助、その後行方不明者の捜索、輸送支援、生活支援(給水、給食、燃料、入浴、衛生)でした。このうち、人命救助はまだ指揮系統や部隊編成が確立されていない状況下で、艦艇・航空機の各級指揮官は被災者救助のため「何をなすべきか」「何ができるか」を考え、諸々の独断専行を実施したものと思います。海自部隊による救助者数約900名は、大津波による被害の惨状、広大な被災地域にもかかわらず、初動全力を集中し、ヘリコプター、LCAC等の機動力を十分に発揮した成果であり見事だと思います。中でも優速、乗員数、搭載ヘリという護衛艦の特徴を大いに発揮した「たかなみ」の独断専行は、勇気ある事例の一つだと思います。

 たかなみ艦長は横須賀を緊急出港後、敢えて多くの漂流物が予想される陸岸近くを夜間第4戦速で北上し、実況中継中のTVや国際VHFで情報収集を行う一方、遠く陸上の火災らしき灯りを見ながら、「何をなすべきか」「何ができるか」を一生懸命考えたそうです。その時閃いたのが、呉監防衛主任時代に見た「Rescue From the Sea(RFS)」のマニュアルだったそうです。

 地震発生翌日の未明、当初指示された金華山沖に着いた「たかなみ」は、艦載ヘリで偵察を開始し、石巻港沖を活動拠点と定めて防波堤から2000mに投錨、内火艇2隻で港湾調査の上計100名の陸上救難隊を上陸させ、偶然孤立した被災者27名を発見救出しました。被災者には幼稚園児11名が含まれており、寒さに震えていたので艦内に収容して2泊させました。園児や関係者からは大変に感謝され、後日TVで報道されましたが、これらはすべて艦長の独断で行っています。結局、同艦は2日目から4日目にかけ毎日100名の陸上救難隊を派出し、搭載ヘリで103名、搭載艇で32名の被災者を救助しました。この3日間のうち、初日には警察、消防、巡視船は機能しておらず、2日目の夜になって初めて災害派遣の陸自隊員に出会ったそうです。

「たかなみ」の目に見えない最大の成果は、石巻市の被災民に地震の翌早朝から護衛艦の姿を見せ、「国は決して見捨てていない」との意思表示を行うことによって人心安定に大いに貢献したことです。それにしても、家屋、カーゴ・コンテナ、漁船、漁網ブイ等多数の漂流物が散乱する中、ソナードームや推進器の損傷を回避しつつ陸岸に近接するには、細心の注意力と操艦技量に加え何よりも勇気が必要だったと思います。

 関東大震災の時も同じようなことがあったようです。東京湾に近づくに従い大材木や家屋、遺体等が多数漂流していた状況下、救護糧食を満載して来た某巡洋艦は艦長が夜間東京湾侵入に不安を感じ、湾外に一夜を空費して翌日入港しました。このうわさを聞いた大谷海軍中将は、当時一切の陸上交通設備が途絶したため、海上からの輸送、特に海軍艦船の東京入港がいかに人心の安定を与えるかを考える時その入港は一瞬一刻を争うものがありとし、「海軍軍人たるもの、艦船運用の術につき平素より留意すべき様ある事は、斯様な時に備ふる為である」と酷評しています 。(※10)

 人心安定と言えば、平成12年(2000)に三宅島が大噴火した時、一晩のうちに自衛艦10数隻が駆けつけ、翌朝島をぐるりと取り囲んだ自衛艦を見た島民が大変安心し、当時の東京都知事から、「これが国家というものだ」とかなり大げさに感謝されたことがありました。
 また、阪神大震災の時もある地方紙に同様の投稿記事が掲載されました。その方は神戸市の六甲山中腹に住んでいる会社員の方ですが、ガス・水道が一斉に止まった中で一睡もせず不安な一夜を過ごし、夜が明けてきて神戸沖に停泊している10数隻の「艦隊」を見て思わずじんとくるものがあり、以下のように書いています。「よし、助かるぞ。その瞬間国家が我々に差し伸べている救いの手がはっきりと見えたのです。そして私はとにかく仕事場に向かおうと決心しました。なぜかそういった意欲が自然と湧いてきたのです。」 (※11)

5 「Rescue From The Sea(RFS)」訓練の想い出

 前にも述べましたが、阪神大震災の地震発生時私は第2護衛隊群司令でした。当時の状況は、内心忸怩たる思いとともに今も鮮明に覚えています。

 第1報は朝6時半ころ官舎のTVニュースで聞きましたが、最初は大した被害はないような報道ぶりでした。その日は、護衛艦隊の訓練検閲乙準備訓練(停泊)のため佐世保在泊の5隻は8時頃恵比須湾に転錨しました。「こんごう」は前日夕刻佐世保を出港し、ソナーの性能試験のため大島東方で潜水艦と会合予定で行動中、呉在籍の第44護衛隊は2隻とも修理中でした。転錨は艦長所定でしたので陸上の事務室でTVを見ていたところ、新しい情報が次々と入り、被害が尋常ではない事が判って来ました。すぐ「こんごう」の位置を聞いたところ紀伊水道沖を東航していました。数時間で神戸沖に着ける位置ですので、「こんごう」は地震のTVニュースを見ているか確認させました。こんごう艦長は確かに見ているとのことでした。

 次に呉の44護隊司令に電話し、すぐK総監のところに行って2隻とも修理中であるが人員の派出について協力可能な旨申し上げるよう指示しました。そして、護衛艦隊司令部幕僚長に「こんごう」を含め、2護群の6隻いずれも30分以内に出動可能につき指示を得たい旨電話しました。その後何回か電話しましたが、当面自衛艦隊としては輸送艦、補給艦で対応するので2護群は出動に及ばずという事でした。念のため夜間も2時間程度で出港出来るよう機関待機を令して官舎に戻りましたが、その夜も次の日も出動命令はついに来ませんでした。

 この時の私は、もしもこんごう艦長が神戸沖に向かうと言って来ればこれを了承し、関係部隊との調整を行い、上級部隊の承認を得る腹案でした。就役したばかりの最新鋭艦が地震発生数時間後に神戸市民の前に登場すれば、どれだけ人心の安定に効果的かと考えました。しかし、よく考えると私もこんごう艦長と全く同じ立場にあったのです。部下に判断を押し付ける姑息な浅知恵を大変恥ずかしく思いました。上級指揮官や部下がどう思うかでなく、被災者がどのように考えるか、何を望んでいるかに判断基準を置けば結論はシンプルです。こんごう艦長に、「現任務を中止し速やかに神戸沖に進出、当面地震被害の情報収集に当たれ」と命じ、自らは「こんごう」からの情報に基づいた形で群訓練の一環として護衛艦5隻、搭載ヘリ6機を率い神戸沖に進出する。以上の処置を独断専行で行い、実施報告として上級司令部の了承をもらえばよかったのです。

 しかし、現地に進出してから何をすればいいのか、何を実施すべきかについては何も決まっていませんでした。仮に出動した場合、結果的には6隻とも当日夜までに神戸沖に進出し、翌日早朝からの陸上救難隊に780名は派出可能であり1000名体制での被災者救助作業が実施可能であったと思われます。

 当時は前述のように要請のない段階での災害派遣部隊の派出についてはかなりバリヤーが高く、特に護衛隊群規模の部隊が地震情報等に接した場合の初動対処要領を、マニュアル化して平素から訓練していなければ、いざという時に出動の決心もできないし、出動しても役に立たないだろうと考えました。そこで、「Rescue From the Sea(RFS)」という訓練構想が生まれました。海自が阪神の災害派遣を撤収し、呉総監の災害派遣実施報告を読んだ直後の平成7年(1995)5月か6月頃と思いますが、また暇な上司の思いつきと思われたかも知れません。7月に本格的に準備委員会を立ち上げて訓練の実施要領、初動対処マニュアル作成のための要検討事項について洗い出し、各術科担当艦の科長クラスが中心となり検討・研究を始めました。

 次いで標準的な訓練シナリオを作成し、図演を2回、長期滞洋訓練期間中の9月と10月に奄美大島周辺で佐世保地方隊(村空)と協同して実動訓練を2回実施しました。1回目の実動訓練では地元に対する事前説明不十分で、敬老の日にいきなり陸戦服の隊員が内火艇で上陸して来るという訓練となったものですから、地元の町内会がびっくりし、「地元不在の海自防災訓練」と地元紙に叩かれました。2回目は大変上手く行き古仁屋町から大歓迎を受けました。どちらか忘れましたが訓練中に山火事を発見し、陸上救難隊が急きょ消火作業に当たるというハプニングもありました。

 この訓練で一番困ったのは陸上救難隊の服装で、呉地隊災害派遣所見にもあったと思いますが、海自の作業服では民間の土木作業員等と酷似しているため識別が困難でした。そこで陸自・目達原の補給処から廃棄寸前の陸戦服と半長靴300組を貰い受けて各艦に配布し、陸自の迷彩服なら自衛隊(国)が来たということが一目瞭然なのでとりあえずこの服装としました。中央では服装違反とか言っていたようですが、非常時訓練上の処置という事で無視していました。余談になりますが、関東大震災の際、横須賀・三浦地区に戒厳令が施行され、各地に戒厳事務所が設けられましたが、監督士官の某水雷学校職員は軍服を全焼し、浴衣掛けで当直していたという記録があります。非常時とはそんなものなのでしょう。

 何度かの図演と実動訓練を経て内容が煮詰まってきたので、仕上げとして群計画の訓練検閲甲でRFSを指定作業として実施し、平成7年(1995)12月の離任前日、まだまだ不十分ながら、訓練実施要領とレスキュー・マニュアルをとりあえずの案として制定しました。RFSは、その後平成8年度には護衛艦隊戦術研究として2護群担当で検証作業を実施し、「大規模災害初動措置標準(STANDING RESCUE MANUAL)」と「大規模災害初動措置(RFS)訓練実施要領」を報告書に添付して提出されました。時期的関係からたかなみ艦長が見たのは、おそらくこの書類だと思います。検討初期段階の研究事項として、「地震に伴う海底地形変動の状況下での護衛艦の進入、入港、投錨」というのがあり、昼間でも嫌がる潮の早い奄美入口の大島海峡を未明に通峡するシナリオが必ずありましたが、大津波による大型多数の漂流物間への進入については想定していませんでした。しかし、たかなみ艦長がRFSのことを思い出し、その考え方を応用されたことは嬉しい限りでした。

おわりに

 今回の大震災に際し、海自は幹部学校が中心となりいち早くその教訓収集・分析作業に着手していると聞きましたが、その過去(歴史)の教訓に学ぶ姿勢に大いに賛同し、敬服します。是非、本稿で紹介できなかった各級指揮官から現場の出動隊員レベルまでの多くの独断専行の記録を収集していただきたいと思います。

 災害救助犬出動の体験から、主として大規模災害(大震災)の初動段階における災害救援、特に人命救助について「初動全力、独断専行」を教訓の一つとして焦点を当てましたが、これは自衛隊の災害救援活動においても適用されそうです。また、三つの大震災における災害救援活動を通じて、陸上交通の途絶・渋滞する状況下で海上からのアクセスによる救護・救援活動(RFS)が、その内容は異なっても大変有効であることを普遍的教訓として学びました。RFSの目的は、大震災初期における行政、警察、海保、消防、陸・空の他自衛隊が機能していない段階で、海上からのアクセスにより海自の人員、物資を陸上に投入し、主として人命救助、次いで行方不明者捜索を行うことにあります。

 今回もそうでしたが未曽有の災害(大震災)といういわば国家非常事において、被災民はじめ国民が精神的にダメージを受けている中、救援に駆け付けた隊員や艦船・航空機等を国家の象徴的な形で見せることが、いかに人心安定に貢献するかを十分意識して救援活動を行うことが肝要です。災害救援を、戦闘を伴わない作戦と位置づけるならば、それは戦闘中心の作戦とは異なり、被災者や国民から姿の見える陸上、沿岸地域又は沖合で、極力「姿を見せる」作戦を行う事に留意すべきです。Humanitarian Assistance/Disaster Relief作戦の本質はそのようなところにあるのかも知れません。震災の初動段階で、陸・空自に比べて海自の顔が見えないという声が多くありましたが、地震発生6日目に「くにさき」のLCACの映像がTVニュースに登場してから評価が一変したそうです。

 最後に、原子力災害派遣に関連して感じたことを一言。大型輸送ヘリや消防自動車による放水等思い付き的な自衛隊装備の活用ではなく、当初から国家資産としての自衛隊装備の活用という発想の下、それを前提に計画しておけば良かったと思います。例えば、全電源喪失が問題になりましたが、原発施設内にある岸壁を水深12m、長さ200mにしておけば、2日目の未明艦艇が進出した時点でイージス艦1隻が横付け(最悪の場合艫付け)し、給電すれば何でもなかったと某原子力専門家が言っています。もちろん受・給電側の細工があらかじめ必要ですが、最初からそのことを艦側の要求性能に入れておけば何でもないことです。(もちろんその任務があればイージス艦のCBRフィルターを後日装備にしなかったと思いますが)

 この話を某米海軍指揮官にしたところ、彼が若い頃サンフランシスコ地震があり、数日間停電となったので乗り組んでいた巡洋艦から市内に給電したことがあると言っていました。

 今回の震災に際しては防衛省、総理官邸ともに早い時期に対策本部が立ち上ったと思いますが、首都直下型地震の時どうするのでしょうか。代理首都構想もあるようですが、海自の大型DDHに官邸や本省対策本部の機能を持たせるとすれば、莫大な予算と期間をかけることもないし、即応性、抗堪性はより向上すると思います 。(※12)

 また、国家資産(防衛装備)の有効活用という発想から、海・空自が保有する警備犬のうち、1割程度(約30頭)を国際救助犬兼務で養成しておき、国内外の災害出動に活用することは技術的にも財政的にも難しくはないと思います。

 以上最後の方は主題とはあまり関係ないことに言及しましたが、東日本大震災出動に関連し、思いつくまま、思い出すまま述べさせていただきました。
(了)

(※9) 本稿中、関東大震災における軍の活動関係は後藤新八郎「関東大震災における海軍の活動(上)(下)」他による(平成9年11月~10年8月「艦船と安全」に掲載)
(※10) 大谷幸四郎述「運用漫談」(財団法人 有終会 昭和9.5.25)
(※11) 湘南鎌倉生涯現役の会編 講演録「災害発生時の救援活動は」(20.12.1)
(※12) 関東大震災の場合、海軍省、内務省、逓信省はじめ政府の通信は断絶し、6日目に連合艦隊旗艦長門から上陸させ、海軍省内に設置した臨時無線電信所と船橋送信所が海軍のみならず陸軍ほか政府関係全ての通信を代行した。

  (兵術同好会発行「波涛」平成23年9月号から転載)