日米安保体制(その1)

日米安全保障条約(正式名称:日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、以下日米安保と言う。)に基づく日米安全保障体制(日米安保体制)は、我が国防衛の柱であります。
また、日米安保体制を基盤とする、日米同盟は日本のみならずアジア太平洋地域の平和と安定のために不可欠な基礎をなすものでもあります。

さらに、同盟に基づく日米間の緊密な協力関係は、世界における多くの安全保障上の困難な課題に効果的に対処する上で重要な役割を果たしています。
日米両国が共有する基本的人権、自由、民主、民主主義及び法の支配といった基本的な価値を国際社会において促進する上で、この同盟関係は、益々重要になっており、わが国として、引き続き日米安保体制を維持強化していくことが必要です。

奇しくも、本年は、所謂新日米安保の締結(昭和35年、1960年)から50年と言う節目の年であり、日米安保全般について再確認することは、次なる50年に向けて極めて意義あることと思料します。
チャンネル日本として、以下に示す体制で、本論を論じます。

図―1 「日米安保体制の説明」に関する全般構想


クリックするとそれぞれの項目へジャンプします。
日米安保体制概説説明事項

日米安保体制に関する説明内容等は、図―2の通りです。

図―2 日米安保体制

本論では、安全保障条約の締結、その改定そして更なる深化へと発展してきた状況を回顧し、日米防衛協力のための指針(以下ガイドラインと言う。)や安全保障環境の変化に伴う日米同盟の変革について簡潔に説明します。

日米安保体制の今日的意義を再確認することも、昨今の状況から極めて有益であると信じます。
日米防衛協力に果たして来たガイドラインの重要さは言うまでもないところですが、そのガイドラインの内容を簡潔に説明しますので、理解を深めて頂きたいと愚考します。

更には、安全保障環境の変化に伴い、日米安保も新時代を迎えたと言われているが、そのための日米協議やその議論を受けて、平成19年(2007年)5月に発表された「同盟の変革」についてその概要を説明します。

1 日米安保体制の変遷

日米安保約条約締結以後の60年の歴史を概観すると、日米安保の改定、ガイドラインの策定、冷戦の崩壊に伴う新ガイドラインの策定、米国同時多発テロ以降の日米関係と大きなエポックがあります。これらの変遷の概要は図-3に示すとおりです。
防衛白書では5個のフェーズで記載していますが、本稿においては、3個フェーズの方が理解容易と判断して図の通りとしました。

図―3 日米安保体制の変遷概要
(1)日米安保条約の締結と改定

ア 旧安保条約の締結経緯

昭和26年(1951)9月8日、我が国は、サンフランシスコにおいて平和条約に調印し、第2次大戦後の宿願となっていた独立を回復しました。更に同日、当時の吉田総理は、米国との間で「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)に署名し、米国との同盟関係を確立しました。同条約は、翌年4月に発効しました。
終戦後から、連合国であった米英国等とソ連等との東西対立は次第に激化してきました。
その状況は、図表の通りです。

図表―4 東西対立の激化状況

連合国との対日平和条約の締結についても、東西対立の激化の状況を受け、全面講和の形をとりえず、米英等49カ国の署名を得て平和条約が締結されました。講和会議が、サンフランシスコ市のオペラハウスで行われたため、サンフランシスコ(平和)条約とも言われます。

本条約は、日本の全権吉田茂によって署名され、その後国会承認と内閣批准を経て翌年の4月28日に発効しました。

 講和会議に引き続き、日本国とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ郊外のプレディオ陸軍基地に場所を移して、日米安全保障条約(旧日米安保)を締結しました。

署名したのは、全権の吉田茂のみであり、随行した池田勇人蔵相に対して、この条約は余り評判が良くない。君の経歴に傷を付けたくないので私だけが署名するといったとも伝えられている。
尚、米側の全権はアチソン国務長官他4名です。

朝鮮戦争勃発を講和到来の好機と捉えた吉田茂首相は、『戦後復興を優先するために、国家資源を経済再建に優先配分しつつ、軍備増強を排して軽武装に徹し、日米安保体制による安全保障を目指す。』との所謂“吉田ドクトリン”の実現を図ったと言われています。
それは戦後の目まぐるしい経済復興を見れば正しい選択であったかもしれませんが、一方で国家国民にとって、大事なものを見失わせることになったとの批判もあります。

イ 旧安保条約の問題点と改定に向けた動き

ア項のような経緯を経て締結された(旧)安保条約は、謂わば駐留軍協定と言う性格の強いものであったとも言われますが、何れにしろ、その後の日米協力関係の基調となりました。
この旧安保条約は、図表に示すような問題点を内包しており、その不平等性を巡り、活発な議論が行われました。

日本側としては、この(旧)条約が米軍の占領の継続と言う印象を日本国民に与え、日本人のナショナリズムの観点からも好ましくなく、上述の問題点を解決したいとの思惑があり、鳩山一郎内閣の下で条約改定の動きが見られました。
米国としても、日本をもっと平等なパートナーとして遇するべきであるとの考えがあり、昭和33年(1958)9月11日藤山・ダレス会談(ワシントン)で安保改定が同意され、具体的な改定交渉が行われました。

図表―5 (旧)安保条約の問題点

ウ 新安保条約の締結とその概要

藤山・ダレスの安保改定同意から1年半弱の、昭和60年(1960)1月19日、ワシントンD.C.で、(新)日米安保条約が締結され、同年6月23日に発効しました。

この条約は60年安保条約とも呼ばれます。
この条約改定・批准を巡って、『60年安保闘争』が活発化し、5月19日の新安保条約の強行採決により、抗議行動は最高潮に達しました。
デモ隊は、国会議事堂を包囲、全学連主流派は国会構内に突入しようとし、阻止規制しようとする警官隊とぶつかりました。
この混乱の中で、東大女子学生が死亡(15日)し、翌日には、日本政府が訪日を招請していたアイゼンハワー大統領の訪日延期が発表されたのです。
新安保条約の特色は図表―6の通りであり、その概要は図表―7の通りです。

図表―6 新日米安保の特色
図表―7 日米安保の概要

エ 70年安保闘争
10年間の期限を迎えた日米安保条約が自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動が起きました。

学生の間では、昭和43年(1968年)から昭和44年(1969年)にかけて全共闘や新左翼諸派の学生運動が全国的になり、東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開されました。

街頭闘争も盛んに行われ、新左翼の各派は、1967年(昭和42年)10月、11月の羽田闘争、1968年(昭和43年)1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争、4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)、1969年(昭和44年)4月の沖縄デー闘争、10月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争の前哨戦」と位置づけて取り組み、「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦ったのでした。

(2)ガイドラインの策定と日米安保協力の拡大
図表-8 旧ガイドラインの概要

ア ガイドラインの策定の背景及び経緯

現安保条約締結後、日米両国の協力関係は、政治・経済の両面において緊密化しましたが、我が国有事の際の共同対処の要領を含め、両国間の運用協力についての具体的議論は必ずしも十分には行われておらず、またその運用協力のための協議機関も設けられていませんでした。

また、我が国の防衛力は、それまでの防衛力整備によって能力の改善が進み、米国との防衛協力が現実的になった点も重要であるとの指摘も首肯できよう。

一方、当時の米国の「11/2戦略」では同盟軍がより重要な役割を果たすことが前提でもあり、米国にとって日本との協力拡大は望ましいことでありました。
日米の防衛計画に関する日米間の調整が皆無であることに対する疑念もありました。
このような状況下で、昭和50年(1975)8月三木総理とフォード大統領の会談で、[両国の関係当局者が日米安全保障協議委員会(SCC)の枠内で協議を行うことが合意されました。

昭和51年(1976)7月には、SCCの下部委員会として、防衛協力小委員会(SDC)が設けられて、同委員会における検討を通じ、昭和53年(1978)、旧「日米協力のための指針(ガイドライン)」が策定されたのです。

イ 旧ガイドラインの概要

旧ガイドラインの構成及びその概要は、図の通りです。
(日米防衛協力における3つの転機 福田毅)

ウ 日米安保協力の拡大

ガイドラインの策定の前々年には防衛計画の大綱(51大綱)、昭和53年には有
事法制研究のあり方等に関する公表等の我が国内の体制整備が進捗しました。
これと機を同じくして、日米安保協力の拡大についても、ガイドラインの策定に伴い大いに進捗することとなりました。
本ガイドラインに基づく日米安保協力の具体的事項の主要なものは次のようなものであります。

○ 日米共同作戦計画の研究(詳細は割愛します。)
朝日新聞によれば、昭和56年(1981)には、日本単独有事を想定した作戦計画が完成し、極東有事や朝鮮半島有事を想定した計画策定を米側が提案したが、中止されました。

○ 日米共同訓練の実施 (細部については後述します。)
① 昭和53年(1978) 空自:初の日米共同訓練(三沢東方・秋田西方)
② 昭和55年(1980) 海自:リムパックに初参加
③ 昭和57年(1982) 陸自:初の日米共同指揮所演習(滝ケ原)
④ 昭和58年(1983) 空自:初の日米共同指揮所演習(府中)
⑤ 昭和59年(1984) 海自:初の日米共同指揮所演習(横須賀)
⑥ 昭和61年(1986) 統幕:初の日米共同統合指揮所演習
⑦ 昭和61年(1968) 統幕:初の日米共同統合実動演習
○ 対米武器技術供与の解禁(昭和58年(1083)1月
○ 在日米軍駐留経費負担に係る特別協定に署名(昭和62年(1987)1月
○ 洋上防空体制のあり方に関する検討の了承(安保会議)(昭和62年(1987))

(3)安全保障環境の変化と新時代の日米安保

安全保障環境の変化に対応して、当然ながら日米安保も質的変化を遂げてきました。
近年の安全保障環境の変化の主要なものは、一つには平成3年のソ連の崩壊による冷戦の終結であり、他は、平成13年(2001)9月11日に発生した米国同時多発テロです。

冷戦の終結・崩壊に伴う日米安保の質的変化は、新ガイドラインの策定であり、後者の米国同時多発テロ以降のテロとの戦いは、我が国がグローバルな問題に対して対応すべき必要性が増大し、世界の中の日米同盟を強化していくことが求められています。

本項においては、この安全保障環境の変化に伴って日米安保がどのように質的変化を遂げて現在に至っているかを概説します。

図表-9 安全保障環境の変化と日米安保の質的変化

ア 冷戦の崩壊と新ガイドラインの策定

平成3年(1991)12月、旧ソ連が崩壊して冷戦は終結し、我が国に対する大規模侵略が生起する可能性は遠のきましたが、一方では、平成年(1993)の北朝鮮による核開発疑惑とこれに伴う朝鮮半島情勢の緊迫化などに見られる如く、アジア太平洋地域には依然として不安定性と不透明性が存在しています。

このような情勢を踏まえて、

① 平成8年(1996)4月17日 日米安全保障共同宣言(橋本・クリントン会談)が発せられました。
その概要は、スライドの通りです。

② ガイドラインの了承(平成9年(1997)9月23日)ガイドラインについては後述します。

③ 沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告がなされました。
(平成8年(1996)12月2日) SACOについても後述します。

④ 周辺事態法が制定されました。

図表―10 日米安全保障共同宣言の主要事項

イ 米国同時多発テロと更なる日米安保体制の強化

図表-11 日米協議の全体像(防衛白書から転載)

平成13年(2001)9月11日に発生した米国同時多発テロは、国際テロリズムや大量破壊兵器などの拡散といった、グローバルに存在する新たなかつ深刻な脅威に国際社会が直面していることを認識させた。このための体制整備が急務となりました。

平成14年(2002)12月、日米安全保障協議委員会において、新たな安全保障環境への対応について日米の緊密な連携を確認(日米協定の開始)し、複数回の日米首脳会談と並行しつつ、日米協議が逐次に行われ、その成果も逐次に発表されました。

平成19年(2007)5月1日、日米安全保障協議委員会(「2+2」)は、今までの日米協議の成果を「同盟の変革:日米の安全保障及び防衛協力の進展」を発表しました。

同盟の変革の内容については、後述します。